44.熱

「ディエ様、今日はパウンドケーキを焼きましたよ!」


 ワゴンを押しながら声を掛けると、ベンチから降り立ったディエ様が背をしならせるように大きく伸びをした。それから光が集まって、人の姿になるのも一瞬だった。

 わたしに近付いてきたかと思えばワゴンを押すのを代わってくれて、そんな些細な優しさにもわたしの胸は高鳴ってしまう。


「すげぇ甘い匂いする」

「そうですか? 厨房の中はもっと甘くて……」

「お前が」

「わたし?」


 わたしが甘い匂い?

 厨房に居たから匂いがついてしまったのだろうか。でもここに来るまでにそれも飛んでいそうだけど……。わたしが不思議そうに首を傾げると、ディエ様はわたしの首元に顔を寄せてくる。


「やっぱりお前から甘い匂いがする」

「分からないんですけど……近いです」


 黒髪が首筋にあたって擽ったいし、いまにも触れ合ってしまいそうな距離も恥ずかしい。

 そんなわたしの心を読んだかのように、ディエ様は低く笑ってから離れてくれた。それにほっとしながら、やってきた東屋のテーブルにまず糊のきいたクロスを掛ける。

 白いクロスの縁には銀の糸で刺繍をしてある。これはわたしが刺繍をしたものだけど、少し不格好なのはご愛嬌ということで。


「座ってろ」

「わたしがやりますよ?」

「ケーキはお前が焼いたんだろ? 配膳くらい俺がやるさ」

「……ではお言葉に甘えて。ありがとうございます」


 肩を押されるままにベンチに座ると、ディエ様がテーブルの上にお皿を並べてくれる。ミルフィーユはカスタードクリームの間に赤いイチゴが飾られているのがとても綺麗。雪のような粉砂糖をまぶされているのも可愛らしい。

 チョコレートタルトは表面が鏡のように艶やかで、滑らかなのが見るからに分かる。その断面さえ美しく、ずっしりと濃厚なのだろう。食べるのが楽しみになってしまう。


 ディエ様はポットを手に取ると、カップにコーヒーを注いでくれた。カップの上側は薄い青で、下にいくにつれ濃い色へと変化していくカップだ。ソーサーは一際深い青い色。

 わたしの分のカップにはお砂糖とミルクをたっぷり入れてくれる。


 そうしてお茶会の準備も終わって、ディエ様がわたしの隣に腰を下ろした。


「ありがとうございます」

「別にこれくらい大した事じゃない」


 そう言って笑ったディエ様はカップを手にして口に寄せる。わたしも湯気に誘われてカップを取った。


「随分と作ったな」

「一種類ずつ作ったので、わたしの手間はそうでもないんです。どれがわたしの作ったものか分かりますか?」


 コーヒーを一口飲むと、柔らかな甘さが口いっぱいに広がった。さすがはディエ様、わたしの好みを完璧に理解している。これ以上甘いとケーキが進まないし、かといってミルクが足りないと苦くなってしまう。絶妙なバランスがとても美味しい。


「これだろ、パウンドケーキ」

「よく分かりましたね。確かにミルフィーユもタルトもわたしが作るともう少し崩れる自覚はありますが……」


 迷うことなく当てられてしまって目を丸くする。

 ディエ様はカップを置くと代わりにフォークを手に取って、パウンドケーキのお皿を自分の前へと引き寄せた。

 色とりどりのドライフルーツが艶々していて可愛らしいと、自分で作ったにも関わらず思ってしまう。


「お前が作るパウンドケーキはラムが強いんだよ」

「え、全然気付きませんでした。食べにくかったです?」

「逆だ、逆。ラムが効いてて美味い。俺が好きだと知って、このケーキにしてくれたんだろ?」

「ふふ、そうなんです。前に作った時に、ディエ様がいつもより沢山召し上がってくれたのを覚えていまして。お好きなのかなぁって思ったんですが、合っていましたね」


 やっぱりディエ様のお好みだったのか。

 ディエ様のお好きなものを作れているなら、とても嬉しい。神域にお世話になるようになって、それから伴侶となって、ディエ様の好みもだいぶ分かってきたと思うけれど、それでもまだまだ知りたいと思う。


「うん、美味い」


 大きく切り分けたパウンドケーキを口にしたディエ様は、満足そうに頷いた。その目元が綻んでいるから、嬉しさが溢れて何だか落ち着かなくなってしまう。


「良かったです。今日のは上手に出来たと思ってるんですよ」

「確かにな。でも今までのも美味かったけど」

「それはわたしが作るものなら何でも美味しいって事ですね?」

「考えの飛び方が凄ぇな」

「という事は、ディエ様はわたしが好きでどうしようもないと」

「お前の思考回路はどう繋がってんだ」


 あっという間にパウンドケーキの一切れを食べてしまったディエ様が、コーヒーを飲む。

 冗談めかして紡いだ言葉に、揶揄うような言葉が返ってきて。こんなやり取りが楽しくて好きだ。


 ディエ様はカップを静かにソーサーに戻すと、わたしの方へと体を向ける。頬を大きな手で包まれたかと思ったら、その瞬間──唇が重なっていた。


「……お前の事が好きだってのは間違いないが」


 まだ吐息が重なるような場所で、甘い声で囁かれて。顔が熱いけれどそれ以上に、体が熱い。胸が切なく疼いて、息ってどうやって吸うんだっけ。


 口に残るコーヒーの苦味が、なんだか今日は甘く感じてしまうのが不思議。


「そんな顔すんな、バカ」

 

 どんな顔をしているのか、鏡は見たくないなと思った。

 軽い調子に戻ったディエ様が体を離して、またフォークを手に取った。

 まるで止まっていた時間が動き出すように、微風の葉擦れの音が耳に届くようになった。


「ディエ様、お口が苦いです」

「俺は甘い」


 せめてもと抗議を口にするも、さらりとそんな言葉が返される。わざとらしく睨んで見ても、ディエ様は気にした様子もなくまたパウンドケーキを食べるものだから、わたしもフォークを取ってケーキに向き合った。


 まず頂くのはチョコレートタルト。

 フォークがチョコレートにゆっくりと沈んでいく。やっぱり思った通りずっしりとしている。でもタルト生地は軽やかで、簡単にフォークで切れてしまった。

 口に運ぶと思ったよりも甘くなかった。濃厚だけど甘さが控えめで食べやすい。


「美味しい。ここに来てから美味しいものばかりで、少し太った気がします」

「健康的になった、の間違いだろ。うちに来て瘦せ細ったなんて事にならなくて何よりだ」

「毎日しっかり三食、おやつも食べてますから。痩せる心配より肥える心配の方が必要ですね」

「お前が幸せに食ってんなら肥えたっていいさ」

「愛されてますねぇ、わたし」

「それは間違いないな」


 ディエ様がフォークを持つのとは逆腕をわたしの腰に絡ませる。

 その温もりがないと物足りなく思うくらい、わたしはすっかりとディエ様に慣らされてしまっているようだ。


「でも、わたしだって愛してますよ」

「知ってる」


 軽いやり取りさえ恋の色に染まっているようだ。

 わたしはフォークを置いてから、ディエ様の肩に頭を預けた。


「そういえば人の世では祭りが行われるらしいぞ」

「お祭りですか? この時期って何かありましたっけ」

「俺が伴侶を迎えた事の祝祭だそうだ」


 ディエ様と共に世に降りた時、国王がそんな事を言っていたような気もする。

 自分に関する事でお祭りが開かれるというのも、何だか恥ずかしいような気もするけれど……。


「お祭りがあるなら──」

「行きたいんだろ? 分かってる」

「連れて行って下さるんですか?」

「お前の願いを叶えるのも、俺の役目だろ」


 本当にディエ様は、わたしを甘やかすのが上手だ。

 嬉しくなって、両腕をディエ様の腰に回すように抱き着くと、ディエ様の持っていたフォークが滑り落ちてしまった。

 それを宙で受け止めたディエ様は大きな溜息をつくけれど、顔が綻んでいるから怒っていないのは分かっている。


「危ねぇ」

「すみません、くっつきたくなってしまって」

「はいはい」


 素っ気ないけれど声が優しい。

 フォークをテーブルに置いて、ディエ様も両腕で抱きしめてくれる。


 好きという気持ちが落ち着く時なんてきっと来ない。

 そう思いながら顔を上げると、色を濃くした赤と黄の瞳と視線が重なった。それにまた、気持ちが熱を帯びていくのを自覚していた。

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