40.価値の在り方

 わたしはディエ様の腕の中から抜け出て隣に並び立つ。腰にはディエ様の腕が回って抱き寄せられているから、寄り添う形になりながら。

 触れる場所から伝わる温もりに安心する。だからきっと、大丈夫。


「は、発言をお許し頂けるでしょうか」


 手を挙げたのはデッセル子爵だった。その瞳には未だに怪訝な色が残っているけれど、頭の中では様々な事を思い巡らしているに違いない。自分が、子爵家が、利を得られるのかと。


「許す」

「ありがとうございます。……アートルム様の伴侶となられたその方は、わたしの娘であるクラリスに思えるのですが」

「娘、か。血縁は確かにあるのだろう。だがお前はクラリスを娘として扱っていたか?」


 ディエ様の声が少し低くなる。その言葉を受けたデッセル子爵の顔色が悪くなった。

 周囲の人々も訝しむような視線を子爵、それから妻へと送っているのが分かった。


「メイドの仕事をさせていたのは、平民だった娘にマナーを教える一環でございました。愛情はしっかりと注いでおりましたが、それが娘には伝わっていなかったのかもしれません」

「そうか、お前は神である我に嘘を吐くのだな?」


 怒りを孕んだディエ様の声に呼応するかの如く、雷鳴が響いた。どこかに雷が落ちたのだろう、神殿内にまでその轟きが伝わってくる。

 小さな悲鳴が様々な場所から上がる中で、教皇や国王、それに近しい人達は皆、子爵へと不快感を表していた。


「そ、そんなつもりは……」


 子爵と目が合った。何かを訴えているかのような力強さだけど、残念ながらわたしはそれに応えられそうにはない。

 わたし達の視線が重なっている事に気付いたのか、腰に回る腕に力が籠もる。少しばかり苦笑いをしたわたしは、腰にある大きな手に自分の手をそっと重ねた。


「我の元に生贄としてやってきたクラリスの支度も、上質なものとは言い難かったな。宝石は全て贋物で、神への供物とするにはいささか不釣り合いであったのではないか」


 ディエ様の発言に子爵の顔が引き攣った。

 教皇や国王、それから側近らしき人達など、皆が口々に非難の言葉を口にする。


「デッセル子爵、支度金が支払われているはずですが……それでも粗末な支度をしたというのですか」

「贄となってくれる者に贋物を持たせるなど……貴様は何を考えておるのだ!」


 子爵は何も答えられず、ただ青い顔で体を震わせている。その隣の妻も唇を噛み締めていた。

 まさかわたしが生きていて、神の伴侶になるとは思ってもみなかったのだろう。【神の裂け目】が本当にディエ様の元に繋がっている事さえ知らなかったはずだ。


「更に、だ。そこの子爵家の娘は『価値のある自分を傍に置いてやる』『大神殿で皆に平伏されながら過ごした方がいい』『何も分かっていないだけ』だの、我を侮辱する言葉を延々と連ねていたが。その娘が独断で【裂け目】に飛び込んだとは考えにくい。その娘はしっかりと・・・・・支度をしているようだしな? お前たちは我と伴侶を引き裂く為に動いていたとそういう認識で構わないか」


 ディエ様の口から紡がれるフローラの暴言に、わたしまで気が遠くなりそうだった。

 腰に回る腕に支えられて倒れずには済んだものの、怒りが胸の中を渦巻いて気持ちが悪い。


「め、滅相もありません!」

「アートルム様、ご覧の通りフローラも大変美しい娘でございます。クラリス様だけではなくフローラも傍に置いて頂ければお慰めになるかと思っただけなのです。クラリス様のご負担も減るでしょうし……」


 慌てるような子爵とは裏腹に、義母はにっこりと笑ってそんな事を口にする。

 わたしの中で渦巻く怒りが炎となって燃え盛るようだった。でもそれは……わたしだけではなかったようで。


「その女に何の価値があるというのだ」


 声に、もう感情は載っていない。ただ神殿内に凍てつくような寒さが広がっていく。人々の口から洩れる白い息が昇っては消えていった。


「人の子がこんなにも愚かなものだったとは。……クラリス、この地を離れるか。お前には良い記憶も少ない場所であろう」


 ディエ様は片手の指先でわたしの頬を撫でる。慈しむような眼差しを受けながら、その言葉が本気であると感じ取れた。ここでわたしが頷けば、ディエ様は本当にこの地を見限るだろう。

 神の守護を失った地の結末なんてただひとつ。この地に根付いた王国が迎える先は滅亡しかない。


「それはいけません。わたしの生まれた国であり、ここには母と過ごした大切な思い出がありますもの。神殿の皆様にも大変良くして頂きました。わたしが引き取られた先で虐げられた事は、この地に住まう民達には関係のない事です。

 確かにデッセル子爵家で辛い思いをしてきたのは事実です。でもそれはわたしが平民だった事もありますし、致し方なかった事も……ほんの少しだけならあるかもしれません。殆どが理不尽なものだったとしても」


 わたしの言葉に、国王をはじめとした、この広間に居る人達が胸を撫でおろすのが分かった。それでもデッセル家の三人へ向けられる視線はひどく鋭い。


「支度金の事に関しては然るべき罰が与えられるでしょう。ただ……フローラが貴方様に向かって放った暴言は許しておけません。そして、伴侶となったわたしを侮るような言動も。わたしを嘲るのは貴方様を嘲るのと同義ですもの」


 言葉を一度切ったわたしは、ゆっくりと息を吸った。

 広間へ視線を巡らせるとフローラが相変わらず苦々し気な顔をしているのが見える。


 自分の正当性が認められない事への憤り。

 見下していたわたしが、彼女よりも上の存在になった事への嫌悪。


 そんな感情がフローラから伝わってくる。

 嫌われているのは分かっているし、好かれようとは思えない。わたしも彼女が嫌いだからお互い様だ。


「そうだな」


 ディエ様はわたしの髪に頬を寄せながら小さく頷いた。冷気が引いて神殿内に温かさが戻るところからもディエ様の機嫌が読み取れる。


「我の優しい妻は国が滅びるのは忍びないと言う。妻の願いを叶えるのが我の喜びでもあるからな、国を離れる事は取りやめよう」

「ありがたき幸せにございます。アートルム様、クラリス様のご厚情に感謝申し上げます」


 国王が再度平伏すと、広間の人々が一斉に同じ態勢を取った。その中にはデッセル子爵とその妻も含まれている。

 自分たちの行いで国が滅ぶなど、耐えられない事だろう。彼らにもようやくディエ様の恐ろしさが伝わったらしい。

 ただ一人……フローラだけはその場に座り込んだままで、わたしを睨みつけているけれど。


「ここでデッセル家の者を我が滅するのは容易い。だが人の世でなければ叶わぬ裁きもあるだろう。任せて良いな?」

「はっ、シュテルンの国王の名の元に、必ずや厳正な処罰を与える事を誓います」


 国王の声にディエ様は満足そうに頷いた。


 きっとこれはディエ様の……わたしへの優しさなのだろうと思う。

 人であったわたしは、死よりも辛い罰があると知っている。死なずに償えるものがあるのなら、そっちの方がいい。もちろん、死が罰になる時もあるとは分かっているけれど。


「な、によ……なんで、そんな……」


 茫然としていながらも言葉に残る棘。フローラはただまっすぐにわたしだけを見つめていた。

 ディエ様が盛大に眉を寄せているのが分かる。苦笑いをしたわたしは、ディエ様の腕をそっと撫でた。


「フローラ、あなたは自分に価値があると言っていたけれど……」

「そうよ、あたしは特別なの。今までだって何もかもあたしの思う通りになってきたじゃない」

「あなたに価値があるように、あなた以外の全ての人にも価値があるの。虐げたり侮っていいわけじゃない。優劣を決める、差別をする。人がそんな気持ちを持つ事を止めるなんて出来ないのは分かっているけれど、あなたのそれは限度を超えている。……人の価値を認められないあなたが、誰かに価値を認めて貰えると思っているの?」

「何よ、何よ……上から目線で偉そうに! あんたなんかがあたしを見下ろさないで!」


 フローラの悪態に、ざわめきと悲鳴が上がる。

 神の末席に加わったわたしに対する暴言が何を意味するか、きっと彼女は分かっていないだろう。


「あなたの価値がわたしには分からない。その見目も、豪勢な衣装も無くなって……その時にあなたには何が残るのかしら。ただ人を羨んで蔑んで、こんな筈では無かったと思いながら生きていくだけになるでしょう。自分を振り返って、よく考えた方がいいわ。それから……わたしを蔑む事は、もう許さない。わたしを蔑む事は、わたしを認めた旦那様への不敬でもあるのだから」


 そこまで話してようやく、フローラが周囲の視線に気付いたようだった。

 誰もが冷たい視線を向けている。その中には今までフローラを溺愛して甘やかしてきたデッセル子爵とその妻の姿もあった。

 きっと彼らは、フローラのこれ以上の失言を恐れているのだろう。フローラ次第では罰がもっと重くなる事だってあるのだろうから。


「……あたしはただ、もっと幸せになりたかっただけなのに」


 ぽつりと落ちたフローラの呟きは、誰の耳に届いたのだろう。

 

 彼女の言葉に、その思いに、何かを思わないわけじゃない。でもそれを正そうとするのも、わたしの烏滸がましさかもしれない。だから口を閉ざす事にした。


「帰るか」

「そうですね……。きっと二人も待っています」


 ディエ様の囁きに小さく堪えると、わたし達の足元が光に包まれていく。

 それを見た人々はまた姿勢を正し、組んだ両手を額に押し当てている。


「お前達の祈りは届いている」


 ディエ様の言葉に、また啜り泣く声が聞こえた。

 きっと人であった頃のわたしがここに居たら、同じように涙を流していただろう。神様が自分達の祈りを受け入れてくれる。それがどれだけ幸せな事なのか、人であったわたしにはよく分かるもの。


 集まった光がわたし達を包み込み、そして──視界が真っ白になっていく。

 そんな中でもわたしを抱くディエ様の腕が力強くて、わたしからも両腕を回して抱き着いた。

 温もりが溶けていく感覚に幸せを感じながら。

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