36.溺れる

 裏庭にある東屋には今日も優しい風が入り込んでいる。

 テーブルに用意された紅茶から立つ白い湯気が、風によって流されていった。


 紅茶の隣にはナッツを混ぜ込んだチョコレートのクッキーが用意されている。お皿の向こうには小さな花瓶に活けられたスイートピー。ピンク色のふわふわとした花は中庭から摘んできたものだ。これは全部ルカとリオが用意してくれた。

 その二人は夕食後に食べたいおやつがあるから……と、いまこの場所にはいない。

 東屋のベンチに座っているのはわたしと、隣で寝転がっているディエ様だけだ。


 ディエ様は羽も畳み、寛いだように目を閉じている。その艶やかな体がゆっくりと上下しているから、眠っているのかもしれない。

 黒くて長い尻尾は相変わらずわたしの腰に巻き付いていて、指先でそっとその毛並みを撫でると擽ったいのか尻尾が揺れた。


 それが何だか可愛くて笑みを漏らしたわたしは、傍らに置いておいた籐の籠からレース糸と使い慣れたシャトルを取り出した。


 金糸のレース糸は、前に買い出しに行った時にディエ様が買って下さったものだ。

 陽に透かすときらきらと輝く様がとても綺麗。これで作るのは小さな薔薇のイヤリング。編み図の本を見て可愛いと思っていたのだ。

 テーブルセンターを編んだ後だから、これくらい小さなものならすぐにでも編めそうに思ってしまう。きっと難しいのだろうけれど挑戦するのもきっと楽しい。


 一度シャトルを置き、カップを手にして紅茶で喉を潤してからレース編みに取り掛かった。



「そんなに細かい作業をして疲れねぇのか」


 不意に掛けられた声に肩が跳ねた。

 随分と集中していたらしい。同じ姿勢だったから背中が固まってしまっている。


 編み途中の道具一式を籠の中に戻したわたしは、両手を上に大きく伸びをした。


「ずっとやり続けると厳しいんですが、これくらいならまだ大丈夫です。少し背中が凝ってしまいましたけれど」


 ディエ様も起き上がって背中を伸ばしている。くぁ……と大きな欠伸をしてからわたしの隣に前足を揃えて座り直した。

 それでもまだ尻尾はわたしに絡まったままだ。これが嬉しくて、結構好きだったりもする。


「そうか。あまり無理はするなよ」

「はい、ありがとうございます」


 柔らかな声でわたしを気遣って下さったディエ様の体が光に包まれる。それが弾けたと思ったら、人のお姿を取ったディエ様が尻尾の代わりに腕をわたしの腰に回していた。


「……ディエ様は、わたしにくっつくのが好きだったりします?」


 それに答える事はなく、ディエ様は自分の分のカップを手にして紅茶を口に運んだ。

 唇からカップが離れたところを見計らって、わたしはディエ様の肩に頭を寄せた。昨日の今日でまだ慣れないし、こんなにも近付くとディエ様の香りも良く分かる。ムスクにも似た香りが鼻を擽ると、それだけで心臓が騒いで落ち着かない。


「わたしは、好きなんですけど。こうやってくっつくのも、ディエ様がくっついてくれるのも」

「……別に俺も嫌いじゃない」

「こんなにしっかり腰を抱かれて、嫌いじゃないっていうだけなのは無理があると思うんですけど」


 揶揄からかうように指摘をするも、腰を抱く腕が解かれる事はない。それに甘えて頭を肩に擦り寄せた。

 ちらりとわたしに視線を落としたディエ様は、唇に弧を描くばかりだ。


「そういえば双子に、部屋の事を言われたんだが」

「あ、はい。わたしも言われました。……ディエ様の隣に部屋を移した方がいいと」

「あの部屋のままでいいのか? もっと広い部屋にも出来るが」

「あのお部屋がいいです。ここに来て、あのお部屋を案内されて、とても嬉しかったのを今も忘れられないんですもの」

「それならいいが。俺の二つ隣に移動させてあるから、後で確認したらいい」


 小さく頷くも、もうお部屋を移動させて下さったのかと不思議に思う。

 そんなわたしの心を読んだのか、ディエ様は長い足を組み直してから口を開いた。


「この場所は俺の力を元に創られている。部屋の移動や大きさを変えるなんて造作もない」

「そうなんですね。あの……二つ隣と仰いましたが、お隣ではないんですか?」


 二つ隣。ディエ様とわたしの部屋の間には何か違う部屋があるのだろうか。

 そう考えて、そこが何の部屋なのかに思い当たってしまった。顔に熱が集うのが分かるけれど、こんなに近い距離でそれを隠す事も難しかった。


「……寝室がある。人の子達は夫婦になれば、互いの部屋の間に寝室を作るんだろう?」

「ええ、と……そう、ですね。まぁ貴族や裕福な家庭でなければ、難しい事だとは思いますが」

「それもそうか。俺達は急に夫婦となって、お前からしたら戸惑う事も多いかもしれんが……俺は、お前とひとつになりたいと思う」


 紡がれた言葉の意味が分からないほど子どもじゃない。

 ディエ様が求めて下さっている。それが嬉しい。


「戸惑うというか恥ずかしい気持ちが強いんですが、それが嫌かと言うと違うんです。わたしも……それを願っていますし、ディエ様の事が大好きですし……」

「お前の言葉の方が恥ずかしいな」

「え、何でですか」


 低く笑うディエ様が、腰を抱くのとは逆手でわたしの髪を撫でた。その指先があまりにも優しくて、愛しい気持ちが胸を満たす。こんなの、ディエ様と出逢うまで知らなかった。


 わたしも両腕をディエ様の腰に回して、胸元へと頬を寄せる。とくんとくんと伝わる鼓動さえも心地よかった。


「ねぇディエ様、わたしの瞳が変わっているのに気付いていました?」

「ああ。命の欠片がお前に受け入れられた時に、変わっていったのを見ていた」

「ふふ、何だか嬉しいです。とても綺麗な色だと思いませんか?」


 ディエ様は目元に唇を寄せてくる。昨夜から何度も繰り返された仕草だけど、まだ慣れない。きっと慣れる事はないだろう。


「俺の色はお前にも似合うな」

「わたしもそう思っていたんです。この瞳を見る度にドキドキしてしまいそうなんですが」

「そのうち慣れるだろ」

「そうでしょうか。だってわたし、ディエ様の瞳も好きなんですもの。そのお色を混ぜて頂いたなんて、嬉しいしやっぱりドキドキしちゃいそうです」


 可笑しそうに肩を揺らしたディエ様はまた目元に口付ける。その唇が頬に滑って──唇の端にそっと触れた。髪を撫でていた手はいつの間にか顎に掛けられていて、顔が上向かされてしまう。


 目を開けていられなくて、そっと閉じた。吐息が触れたかと思えば唇が重なってくる。燃えるくらいに熱くって、頭がふわふわしてしまいそう。それなのに心臓だけが騒がしくて、ディエ様に抱き着く腕に力を込めた。


 何度か啄むように口付けたディエ様が離れていく気配を感じて、ゆっくりと目を開く。まだ間近にあったディエ様のお顔にびっくりして目を瞬くと、くつくつと笑われてしまった。


「……神の中には恋に溺れて身を滅ぼした者もいる」


 ディエ様の瞳が色を濃くしているようだ。深くて濃い色から目が離せない。

 掠れたような声で紡がれる言葉に耳を澄ませた。


「バカじゃねぇのかと思ってた。恋を選んで自滅するなんざ意味がわからねぇと。だが……今ならそれを笑えそうにねぇな」

「……ディエ様」

「溺れていく俺を笑え。だが、それでもお前を離してやれねぇ」

「わたしは……ディエ様から離れないですよ。ずっとお傍にいる為に、命を分けて頂いたんですもの。それに、恋に溺れているのはわたしも一緒です」

「……そうか」


 ぐっと強く抱き締められたかと思えば、また唇が重なって。先程よりも乱暴な唇に呼吸さえ忘れてしまいそう。

 体に籠もる熱が行き場を失っているのに、更に唇から熱を注がれて。嵐の中に放り出されたような激しさに、ただディエ様に縋りつく事しか出来なかった。


 風に揺れる葉擦れの音もどこか遠い。

 ただディエ様に溺れていた。

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