34.命の欠片

「さて、それじゃ早速お前に命を分けるか」


 さらりと紡がれた言葉に、わたしは目を瞬いた。

 ディエ様の腕の中があまりにも心地よくて、うとうとしてしまいそう。なんて思っていたところに掛けられた言葉に驚きを隠せない。


「も、もうですか?」

「早い方がいいだろ。お前に残された時間は少ねぇんだから」

「でも別に、今日明日でどうにかなるわけじゃないですよね?」

「……何だよ、まだごねる気か?」


 ディエ様の声が低くなる。見上げた先では不機嫌さを隠そうともしないディエ様が眉間に皺を寄せている。でもこれは……怒っているのとはまた違う気がする。

 わたしは抱き着く腕に力を込めて、首を横に振った。お嫁になりたくないわけじゃないんだもの、それはちゃんと伝えなければ。


「急だったので驚いてしまったんです。怖いとかそういう気持ちではないので、それだけは分かって下さいね」


 わたしの不安を解消して貰ったのと同じように、ディエ様が不安になるのならそれを失くしてあげたいと思う。

 そう思って口にした言葉にディエ様は小さく頷いて、またわたしの髪に頬を寄せた。


「命を分けて頂くのに、儀式などはいらないんですか?」

「儀式だの形式だの、あんなのはお前達が俺に何かを伝える手段にすぎねぇ。俺が何かをするのに儀式なんてもんはいらないんだが……そうか、人の子は時には伴侶を迎える時には儀式をするんだったな」

「そうですね、結婚式をして司祭様に祝福を頂戴します。結婚宣誓書に署名をして、それを国で管理して貰うのですが……確かにそういったものはディエ様には必要ないですものね」


 確かにあれは人の世界での事だ。この場所では関係のないものばかり。

 それならば急な話になるのも頷ける。いや、急と思っているのはわたしだけかもしれないし、もしかしたらディエ様はわたしの体を心配して下さっているのかもしれない。


「ディエ様の負担にならないのでしたら、お願いします」

「負担はないが……人の子は結婚式に憧れがあるんじゃないのか」

「憧れ、ですか」


 予想外の言葉に思わず言葉を繰り返してしまう。

 結婚式といえば白いドレスを着て、夫となる人と共に神様の前で契りを交わすものだ。神様の代わりに司祭様の前で、だけど。

 それから親族や親しい友人に祝って貰う、そういう儀式だと思っていた。神殿で下働きをしていた時は結婚式のお手伝いをした事もある。


 だからといって憧れているかというと……。


「憧れというか、わたしには縁のないものだと思っていましたので。あまり考えられないと言いますか……」

「子爵家に引き取られる前なら、そういった憧れはあっただろう?」

「憧れというか、花嫁さんが綺麗だなとは思っていましたよ。みんな幸せそうで、にこにこしているのも素敵だなと思っていましたけれど。それも憧れの一つなのかもしれないですね」


 恋愛小説ではよく出てくる結婚式。

 好き合った人達が夫婦になる特別なもの。でも恋を知らなかったわたしには、物語の世界のものでしかなかったのだ。

 神殿での結婚式も、同じように遠い世界の事のようだった。


「大事なのはディエ様と一緒になる事ですから、式なんていらないです」

「そうか。……人の世では叶った事が、俺と共に在る事で叶わなくなるようなのは、俺が嫌なんだ。だから些細な事でも伝えて欲しい。式も……俺達の他には双子以外に参列はないが、少し考えてみよう」

「ありがとうございます、ディエ様」


 ディエ様の優しさが嬉しくて、胸の奥が暖かくなる。好きだという気持ちが溢れるばかりで落ち着かない。

 どれだけ伝えても満ち足りることなんてないのだろう。こんな気持ちは初めてだった。


「別に感謝されたいわけじゃねぇ。それで……覚悟はいいか?」

「はい。あ、でもひとつだけ……本当にディエ様が負担に思うような事はないんですよね? 不利益とか、力が揮えなくなるとか……」

「ねぇよ、そんなもん。本当に欠片みたいなもんだ」

「それなら……お願いします」


 きっとディエ様は嘘をついていないと、そう思った。

 それならもうお願いするだけ。わたしがずっとディエ様のお傍に居る為に、ディエ様の伴侶となる為に、何があっても受け入れようと思った。


 わたしを抱く腕から力を抜いたディエ様は、片手をわたしの顔の前辺りに掲げて見せた。何が始まるのかとその手に視線を向けると──光の粒がくるくると回って集まり始める。まるで朝陽を受ける雪の結晶にも似た輝きがあまりにも美しくて、わたしは吐息を漏らしていた。


 これがディエ様の命の欠片なんだろうか。

 儚くも見えるのにその輝きは力強い。くるくると回るその様子からは激情さえ感じられるようだった。


「これを今からお前に与える。そうすればお前は……人でなくなる。覚悟はいいか」

「人で無くなったわたしでも、想いを寄せて下さいますか?」


 今更何をと自分でも思う。でも、聞いておきたかった。

 わたしの問いにくつくつと低く笑ったディエ様は、その赤と黄の瞳を細めながら頷いた。


「人だろうとそうでなかろうと、お前がお前である事は変わらない。そうだろう? クラリス」


 それはわたしが紡いだ言葉によく似ていて。

 だからわたしも笑みを浮かべて頷いた。


「ええ、わたしは何も変わりません。これからもずっと、お傍において下さいね」


 ディエ様は笑みを深めると、手の平で回る命の欠片をそっとわたしの胸へと寄せた。そこはわたしの心臓がある場所。ディエ様が好きだと叫ぶ心がある場所。


 すうっと音もなく吸い込まれていった輝きは、特に何も変化をもたらさない。痛みがあるのかもと身構えていたのに拍子抜けした、刹那──


「んんっ……!」


 どくん、と今まで経験した事のないほど大きく、心臓が跳ねた。

 体中が沸騰してしまいそうな程に熱くて、わたしに触れる夜風が刃のように冷たく感じてしまうほどだった。


 息が上手く出来なくて、吸っていいのか、吐いていいのかも分からない。

 ただわたしを抱き締めてくれるディエ様の胸元に、縋り付く以外に出来る事はなかった。


「大丈夫だ、クラリス。落ち着いてゆっくり息を吐くんだ」


 言われるままに息を吐き出そうとしても、浅く短い呼吸しか漏れてこない。喉の奥が締まったみたいに息が苦しい。そんな中でも鼓動は忙しなく早鐘を打っている。このまま破裂してしまうんじゃないかと、それくらいにものだっ経験した事がないものだった。


「クラリス、俺を見ろ。俺を受け入れろ」


 その言葉に促されて顔を上げると、心配そうに顔を曇らせるディエ様と目が合った。赤と黄の瞳がわたしを見つめて、そのあまりに深い色に今にも溺れてしまいそう。


「……ディエ様」


 そう口にすると、やっと息を吐く事が出来た。

 細くて長い息を全て吐き出したら、ゆっくりと息を吸う。喉がひりつく感覚もはじめだけで、少しずつ呼吸が落ち着いてきた。そうしたら鼓動も次第にいつものように戻ってきたようだった。

 でも、体の熱さだけは引いてくれない。


「ディエ様、体が……熱いです」

「もう少しで落ち着くと思う。……たぶん」


 曖昧な言葉に目を瞬くと、ディエ様が眉を寄せて首を横に振った。

 わたしの背をしっかりと片腕で抱き、先程まで命の欠片を載せていた手で頭を撫でてくれる。


「俺だって初めてだ。大丈夫だろうという感覚はあるが、はっきりとした事は分からねぇ。悪いが、耐えて貰う以外に……」

「ふふ、大丈夫です。……今は呼吸も落ち着きましたし、熱い以外には何もありませんので。だから……心配しなくても、大丈夫ですよ」


 そう笑って見せると、ディエ様の表情も少し和らいだようだった。

 ディエ様も初めてだと。それはそうなんだけれど、何だか嬉しく思ってしまうのも仕方がない。綻ぶ口元を隠す事も出来ずにいたらディエ様が首を傾げるも、言葉にする事は憚られる。だからまた笑って誤魔化した。



 そうやってディエ様に体を預けて、どれだけの時間が経っただろう。

 月が少し傾き始めた気もするけれど、まだ朝には随分遠い頃だと思う。


 体の中を暴れ回っていたような熱が、ゆっくりとわたしの中に溶けていくのが分かった。氷が溶けていくかのようにじんわりと、でも確実に馴染んでいく不思議な感覚。


「……落ち着いたか?」


 わたしの様子を読み取ったのか、ディエ様が優しい声を掛けてくれる。

 それに頷くと、ディエ様がわたしの目元を親指の腹で優しく撫でた。


「具合は悪くなっていないか? 違和感は?」

「特には……いえ、体の奥から何か沸き立つような……これは? 魔法を使う時に体の奥から出てくるようなあの感覚にも似ていて、でもやっぱり違うような……」


 何とも形容しがたい不思議な感覚。

 それを言葉に出来ずに困っていると、ディエ様がほっとしたように表情を和らげた。


「お前の中を神力が巡っているのが分かる。力の源は魔力とは違うから違和感もあるんだろうな」

「そうなんですね……でも、何だか温かくて気持ちがいいです。これがディエ様の神力なんですね」

「無事に命を受け止められたようで安心した。問題はないと感覚では分かっていたし、昔、伴侶を迎えた奴に話を聞いた事もあるが……やっぱり心配になるもんだな」


 大切にされていると、それが言葉の端々から伝わってくる。わたしを抱く腕や髪を撫でる優しい仕草からも、感じ取れる。

 ああ、やっぱりまた息が苦しい。ディエ様の事が好きだと思いする度に呼吸の仕方を忘れてしまいそう。


「これで、ディエ様とずっと一緒に居られるんですね」

「ああ。お前は俺の妻となった。もう人の世には戻してやれねぇ」

「戻るつもりなんてないですよ。あの日、ディエ様に初めてお会いしたあの時から、ずっと」


 わたしはディエ様の妻となり、ディエ様はわたしの夫となった。

 つい先程まではそんな事はなかったのに、今では心の奥深くで繋がっている事が分かる。これが命を分けて頂くという事なのだろう。


 ディエ様は瞳を細めて、わたしの目元にそっと口付けをくれた。

 温かくて優しい唇なのに、どきどきとして胸が落ち着かなくなってしまう。


 顔が熱い。

 どんな顔の色なのか、どれほど蕩けた顔をしているのか、自分でも簡単に想像できる。見られるのも恥ずかしいからディエ様の胸元に顔を埋めた。

 可笑しそうに肩を揺らしたディエ様は、わたしの事を両腕で抱きしめてくれる。その力強さに、やっぱりまた鼓動が跳ねた。


 胸に頬を寄せ、見上げた空はいつもと変わらない空の姿。

 月は輝き、ささやかながら星は瞬き、春の風は花の香りを運んでいる。


 それでもこの夜の事を、わたしはずっと忘れない。

 永久の日々を過ごし、何度夜を迎えても、きっと。

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