33.温度

 夜と春を織り交ぜた冷ややかな風が頬を撫でる。

 花の影がゆらゆらと揺れているのも、穏やかな雰囲気を醸し出しているようだ。そういえばここの花は夜になっても閉じないで、香りを漂わせている。神域ならではの何かがあるのかもしれない。


 見上げた空に浮かぶ月は丸い。

 蒼映える美しさに、周りの星の瞬きさえ霞んでしまうようだった。



 わたしが向かった先の中庭で、豹のお姿で芝の上に寝転がったディエ様は月光浴をしているようだ。目を閉じて羽も折り畳んである。

 足音を忍ばせて近付くもやっぱり簡単に気付かれてしまって、赤の片目がわたしを捉えた。大きく揺れる尻尾が芝の上を叩くから、その尻尾に促されるままに隣に座らせて頂く事にした。


「部屋に戻らなくていいのか」

「ディエ様とお話をしたいなと、そう思いまして」


 わたしの言葉にディエ様はお返事をしなかったけれど、座るわたしの腰に尻尾が絡みついてくる。ひんやりとした夜気に晒されている中で、お腹に感じるぽかぽかとした温もりが心地よかった。


「あの、ですね……わたし、ディエ様の事が好きです。何度も繰り返し口にしていますし、たぶんきっと、心の中でも騒がしいくらいだと思うんですけれど」

「そうだな」

「それならディエ様がお嫁に、なんて口にした時にすぐ頷けるじゃないかって……ディエ様はそう思っているかもしれないんですが」

「……おう」

「好きだから、頷けないんです」


 わたしの言葉に顔を上げたディエ様は首を傾げている。その赤と黄の瞳に宿る困惑の色に、わたしは困ったように笑うしか出来なかった。


「命を分けて頂く事とお嫁になる事って、繋がっているんですよね?」

「……そうだ。俺の命を受けたものは、伴侶となって神の一員に加わる事になる。お前は人で無くなる事は構わないと言った。それから、俺の事を好いている。考える事をしないで嫁になればいいだけの話だろ」

「だめですよ、ディエ様。わたしの命を繋ぐ為なんかに、大事な伴侶の座を渡してはいけないんです」

「……は?」

「もしかしたらこれから、ディエ様が伴侶の座に据えたいと思うだけの人と出会うかもしれないじゃないですか。その人の席をわたしが奪うわけにはいきません」


 盛大な溜息をついたディエ様が、睨むように鋭い視線を向けてくる。

 そのあまりの険しさに怯んでしまいそうになるけれど、ちゃんと想いを、不安を伝えるって決めたのだ。


「お前がバカなのを忘れてた」

「悪態がひどい。リオとルカに言わせるとわたし達はどちらも悪いそうですよ」

「あの二人はお前に甘いからな」

「わたしも悪いんですって。抱え込んで溜め込んで……自分でも自覚はあります。だからこうして不安も何もかも零す事にしたんです」


 起き上がったディエ様は前足を揃えた形に座るけれど、やっぱり尻尾はわたしの腰に絡んだままだ。

 わたしの髪が風に揺られる。カチューシャに飾ったリボンの花が揺れているのも視界の端に映った。


「お前の不安ってのは……人で無くなる事だと思ってたが」

「そんなの不安になんて思ってないですよ。わたしは……ディエ様がどんな想いで、わたしをお嫁にと言ったのかが分からなくて不安なんです」

「……俺は命を分けてもいいくらいに、お前の事を気に入ってる。それが理由じゃだめなのか?」

「気に入ってる程度の人をお嫁にしちゃだめですよ。ディエ様はこの先誰かと、恋に落ちるかもしれないじゃないですか……。わたしだってこんな事言いたくないですよ。わたしは死んでしまって見る事はないでしょうけど、ディエ様がお嫁を取って仲睦まじく暮らしている姿を想像するだけで胸がざわざわするんですもの。もちろん、ディエ様が幸せなのが一番だっていうのは分かっていますけど」


 わたしはお仕着せのスカートをぎゅっと握り締めた。ゆっくりと息を吐いて、それから吸う。それでも胸の奥に巣食う何かは落ち着いてくれない。


「ディエ様がわたしを気に入って下さっているのは、分かっているつもりです。だってこうして、尻尾も絡めて下さるくらいですし」


 わざとおどけて口にするとディエ様の視線がわたしの腰あたりへと移動する。そこにはもちろん黒くて柔らかな尻尾がしっかりと絡まっているのだけど、それを見たディエ様は驚いたように目を丸くした。


「っ、……!」


 何かを言いかけたように開いた口から、言葉が紡ぎ出される事はなかった。ぱあっと光が集まってディエ様を包み込んだかと思えば、そのお姿は人のものへと変わっている。

 灯火に照らされるディエ様の耳が色付いている。もしかして……気付いていなかったのだろうか。


「……悪い」

「いえ、暖かったので気にしてはいないんですけれど。お茶会でもそうでしたし、もっと言うならわたしが倒れてしまった日も、尻尾が触れていたんですが……」

「知らん」


 わたしの指摘にふいと顔を背けてしまうけれど、やっぱり耳が赤い。

 そんな様子が可愛らしくさえ見えて、わたしは笑みを零していた。


「ねぇディエ様」

「……なんだ」

「ディエ様はわたしがここに残る事を望んでいるとも言って下さいました。そのお気持ちが、わたしの温度と一緒なのかを知りたいだけなのです」


 願いを口にすると、ゆっくりとディエ様がこちらを向く。

 その赤と黄の眼差しが美しい。思えばわたしは最初から、この力強さに惹かれていたんだと思い知らされるようだった。


「気に入っている娘に優しさで命を分けるなら、おやめ下さい。わたしが死んでしまうからと、嘘をつかれてしまうのも辛いです。わたしを気に入って下さっているなら、どうぞそのお心のままに、言葉を頂きたいと思うのです」


 わたしの願う温度じゃなかったとしても。

 ディエ様の偽りのない言葉を頂きたいと思った。そうじゃなきゃ……もし命を分けて頂いたとして、わたしはずっと不安を抱えていくだろう。ディエ様にそんな事をさせてしまったと自責にかられて、生き永らえなければ良かったと思ってしまうかもしれない。

 そんなのは嫌だった。


「……命を分けるってのは、そう簡単な事じゃねぇ。それをしてもいいくらい気に入ってるってので、充分伝わると思ったんだが……そうじゃなかったらしい」


 ふ、と表情を和らげたディエ様がわたしに手を伸ばし、頬を優しく包んでくれた。夜風で冷えていた頬に、ディエ様の手は熱いくらいだ。


「命を繋ぎたいから嫁にするんじゃねぇ。嫁にして、ずっと傍に居て欲しいから命を繋ぐんだ」


 低くて滑らかな声が、春の風に溶けていく。

 その声があまりにも優しくて、熱を帯びているものだから、切なくて苦しくてどうにかなってしまいそう。


「お前と同じ温度? ふざけんな、絶対に俺の熱の方が高い。人の世に戻した方がいいと分かってても、それが出来ねぇ程にお前の事を好いている」


 頬を包むのとは逆の手が、わたしの手をぎゅっと握る。やっぱりその手も熱くって、冷えていたわたしの手に温もりが流れ込んでくるようだった。

 胸が苦しい。先程までのざわめきなんて比じゃないくらい、胸の奥が締め付けられる。


「俺の傍に居ろ、クラリス。俺にはお前が必要なんだ」


 真っ直ぐな言葉に、頷く以外出来なかった。

 口を開いても熱を孕んだ吐息しか出てこない。何かを伝えたいのに、何を言えばいいのかも分からない。


 でもディエ様はそのかんばせを嬉しそうに綻ばせると、両腕をわたしの背に回して抱き締めてくれた。

 触れられていた頬や手に残る熱よりも、伝わる温もりが激しくてまるで炎のよう。聞こえてくる鼓動がわたしのものと同じくらいに早鐘を打っている。

 わたしも両手をディエ様の背に回すと、もっと強く抱き締められた。それが心地よくて、もうこの場所から抜け出す事なんて出来ないと思わせる程だった。


「……ここまで熱いお言葉を下さるなんて、思っていませんでした」

「曖昧な言い回しじゃお前に伝わらない事は、嫌と言う程に思い知ったからな。まぁ……言葉が足りなかったのも、不安にさせていたのも悪かったとは思うが」

「いいんです。もう不安なんてどこかに吹き飛んでしまいましたから」

「そりゃよかった」


 ディエ様がわたしの髪に頬を擦り寄せる。人のお姿をしているのに、まるで豹の時を思い浮かばせる仕草に笑みが漏れた。


 抱き寄せられるままに体を預け、自分からもきつく抱きついて。視線だけを上げて見ればディエ様が笑みを浮かべながらわたしを見てくれている。


 これ以上の幸せなんて、あるんだろうか。

 そんな事を思いながら口から出た言葉は──


「わたし、ディエ様の事が好きです」

「おう」


 前にも繰り返したこんなやり取りが、今はあの時よりもずっとずっと恋の色に染まっている。

 それが何だか擽ったくて、ディエ様の胸元に顔を埋めた。


 夜風がわたし達をすり抜けていく。もう冷たさなんて感じなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る