23.星の川を見にいこう

 今日は楽しかったはずなのに、自室に戻ってきたわたしは深い溜息をついていた。


 買い忘れもないし、双子にもお遣いが出来た事を沢山褒めて貰った。

 義姉に出会ってしまった事を言ったら、可哀想にと頭を撫でてくれたけれど……。可哀想というか、なんというか……わたしの心は申し訳なさでいっぱいだった。


 ディエ様は気にしていないと言ってくれたし、謝罪も感謝も受け入れてくれたけれど。

 これは……わたしの問題だ。



 夕食後の自室。

 いつもならこのあとは湯浴みをして、レース編みをしたり本を読む。でもわたしはそんな気分になれなくて、窓を開けて中庭を眺めていた。


 朝に降った雨は、あの後すぐにやんだらしい。雨の名残もなく、夜気を孕んだ春の風が涼やかにわたしの頬を撫でていく。


 ディエ様に見られてしまった。

 わたしを罵る義姉を。義姉に蔑まれているわたしを。


 子爵家でのわたしの待遇を、ディエ様は知っているけれど、それでも……直接その光景を見られるのは、恥ずかしかった。

 情けなくて、苦しくて、わたしにはそれだけの価値しかないということをディエ様に知られるのが嫌だった。


 惨めなわたしを、好きな人に見られたくなんてなかった。


 目の奥が熱くなるけれど、泣きたくない。フローラの暴言なんていつものことで、今まで泣いてきたことなんてなかったもの。負けたくない。


 窓枠をぎゅっと握り締め、空に浮かぶ月を見上げる。月が満ちるまではまだ幾つもの夜が必要なようだ。


 お風呂に入ろう。さっぱりしたら冒険小説を読んで、あの本の世界へ飛び込もう。

 そう決めたわたしが窓を閉めると、コンコンコン、と部屋の扉をノックする音が聞こえた。


 こんな時間に誰だろう。

 そう思いながら扉に駆け寄ると、廊下で話しているらしい明るい双子の声が聞こえる。その明るさに顔がほころぶ事を自覚しながら、わたしは大きく扉を開けた。


「夜分にすまない」

「まだ湯浴みはしていない?」

「ええ、何かあった?」


 わたしの問いに二人はにっこりと笑った。可愛らしいその笑顔にわたしもつられるように笑ってしまう。二人の笑顔は明るくて、温かい気持ちにさせてくれる。この笑顔に何度救われたか分からない。それくらいに大好きだった。


「今日は星が綺麗だ」

「今日は星の川が見える」

「そうなの? 星の川?」


 先程空を見ていた時に、珍しいものはなかったと思うけれど……。それよりも星の川とは一体どういったものなのだろう。

 なんとなく部屋の窓を振り返っても、四角の向こうにある星空はよく見えない。窓に近付いて確認しようと思った時、わたしの両手は二人に取られて繋がれていた。


「見に行こう」

「見に行こう」


 両手それぞれを引かれて、わたしが否と言うわけもなく。

 きっと二人は気を遣ってくれている。また申し訳なさを感じながらも、それは心の奥深くにしまいこんだ。



 どこで星を見るのだろう。

 中庭? 裏庭? どちらでも綺麗に見えるだろうけれど……そう思っていたわたしが二人に連れられてやってきたのは広間だった。


 広間のカウチには黒豹姿のディエ様がごろんと横になっている。


「来たか」

「星を見るというお話だったんですが……」

「慌てんな」


 前足を揃えて背をしならせるように体を伸ばしたディエ様は、音を立てずに床に下りる。滑らかなその動きはどこまでも優雅だ。


 わたしとルカとリオは手を繋いだままディエ様を取り囲む。これはもしかして……。

 なんとなくこの後の予想がついたわたしを、全員を、ディエ様から放たれる光が包み込む。柔らかくも力強いその奔流に飲み込まれて、目の前が真っ白に染まっていった。



 柔らかい草の匂いがする。

 眩い光にあてられて、まだ目の奥がチカチカしているのだけど、瞬きをしている間に落ち着いてきたようだ。


 目の前に広がる大きな泉。

 泉を取り囲む木々は背が高く、風に揺れて葉擦れの音が優しく響いていた。泉には月が映っている。


「ここは……」

「精霊の森」

「森の中にある泉」

「精霊の森……泉……」


 精霊は木々に宿り、水に宿り、炎に宿り、風に宿ると言われている。

 神様とはまた別の信仰の対象でもあるその存在は、滅多な事では人の前には姿を現さない。

 精霊の森は、その名の通り精霊が住む森のこと。

 人では絶対に辿り着けない、美しい場所だと伝えられていた。実際目にしてみると確かに美しい場所で、精霊が宿っていると言われたらそうだろうと頷きたくなる場所でもあった。


 わたしの手を離した二人はディエ様の前にあるバスケットへ近付いている。ディエ様が空間収納の術で持ってきていたものだろう。


 バスケットから大きな敷物を取り出したルカを手伝おうと近付いて、端を持った。ルカと一緒に大きく振って膨らませたそれをゆっくりと芝の上に下ろす。綺麗に敷けて満足するとそこにディエ様が乗ってごろりと横になった。

 リオはランプに火を灯すと、それをテーブルの近くに置いた。回廊に設置されているのと同じような形をしたそれは、驚くくらいに明るい。敷物全体が照らされて、何だかすこしほっとしてしまった。


 夜闇を照らすには欠けている月だったから、やっぱりちょっと心細かったのだ。


「クラリスクラリス、何を飲む?」

「お酒もあるし紅茶もある」

「おやつは何がいいだろうか。タルトもあるしパイもある。パンケーキも持ってきている」

「好きなものを選んで欲しい」


 敷物の端には小さくて低いテーブルも用意されている。バスケットから取り出された品々はテーブルへ所狭しと並べられていくけれど、バスケットの容量を明らかに超えている。あれは空間収納の魔導具なのかもしれない。


「えぇと……じゃあ紅茶とパンケーキを」

「分かった。私もそれにしよう」

「私は紅茶とタルトにしよう」


 ディエ様は何がいいだろうか。

 そう思って寝転ぶディエ様へと目を向けると、問うよりも早く首を横に振った。大きな口で欠伸をしたかと思うと目を閉じてしまう。


「主様は後で食べるのだろう」

「主様は後で選ぶのだろう」


 小さめのトレイにパンケーキと紅茶を載せてくれたリオが、わたしにそれを渡してくれる。見れば二人ともそれぞれ選んだものをトレイに載せ、それを膝の上に置いていた。


「なんだかピクニックみたいだわ。絵本で読んだ事があるの」

「そう、今夜はピクニック」

「クラリスはピクニックは好き?」

「んー……実は初めてなの」


 ルカの問いにそう答えてから、わたしは手元のトレイ、それから泉へと目を向けた。

 絵本で見たピクニックはお昼間だったけれど、これだって間違いなくピクニックだ。憧れていたそれを経験出来ていると思うと、ドキドキと胸が騒がしくなってしまう。


「では今日だけじゃなくて、また来よう」

「夜じゃなくて昼にもしよう」

「ふふ、そうね。ありがとう」


 トレイを左手で押さえながら、右手で紅茶のカップを取る。まだ温かいそれを一口飲むとほんのりと甘い。わたし好みになるようにお砂糖を足してくれていたようだ。


「二人はよくピクニックをしていたの?」

「よくではないが、たまに」

「花を見たり星を見たり」


 答えながら大きな口でルカがタルトを食べている。それがあまりにも美味しそうだったから、カップを戻したわたしはフォークを手にした。パンケーキは食べやすいようにと既に一口大に切られているのも有難い。

 口に寄せるとふんわりと蜂蜜が香った。それからバターのいい匂い。食べてみると蜂蜜がじゅわっと溢れてくる。


「美味しい。あんなに夕飯を頂いた後なのに、これもぺろっと食べてしまいそうだわ」

「いっぱい食べていい」

「お代わりもある」

「もう少しで星の川も見れるだろう」

「今のうちに食べておこう」


 そうだ、星の川を見に来たんだった。

 二人の言葉に空を見上げるも、星々は瞬いているばかりで川のようには見えてこない。リオはもう少し・・・・と言っていたから、まだ見られる時間じゃないんだろうか。


 星の川は楽しみにとっておく事にして、いまはパンケーキを楽しむことにした。

 ルカの食べたタルトも美味しそうだし、パイも気になっている。


 わたしの視線に気付いたリオはにっこりと笑いながらバスケットを指さした。


「もっとしっかり食べたいならパンもある」

「夕食のあまりだが、お肉と野菜を挟んである」

「えっ、それ絶対美味しいやつでしょう」


 夕食の時の白パンもいつもと同じく美味しかった。綺麗な丸い形に入ったクープは食欲をそそる焼き色をしていた。

 そのパンにお肉と野菜。そんなのもう、間違いなく美味しいに決まっているもの。


「パンケーキを食べたら出そう」

「先にパンを出しても良かった」


 食欲を見透かしたようにくすくすと笑う二人に、少々恥ずかしくなってしまったわたしだけど食べないなんて選択肢はなくて。

 大きく頷いたわたしはまたパンケーキを口に頬張った。うん、美味しい。


 優しい夜に、胸の奥に刺さっていた棘が崩れていくようだった。

 わたしの居場所はもう、あの子爵家じゃない。こうして一緒に過ごす時間を楽しんでくれる人たちがいる。


 視線を向けた泉は、まるで鏡のように月を映していた。

 揺れることもなく、風のさざなみもなく。

 


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