9.触れる事を許されて

 ぽかぽかとした陽射しが降り注ぐ中庭で、芝生の上に寝転んだ豹の姿のディエ様がわたしのことを見上げている。


 その目はわたしの持っているもの・・に釘付けになっているけれど……警戒しているのか瞳が鋭い。ごろんと寝転がっていたはずなのに、あっという間に態勢を起こして、姿勢を低くしてしまった。


「ディエ様のブラッシング係に任命されました」

「誰にだ」

「リオとルカに」

「……」

「二人はわたしの上司ですから」


 双子たちはわたしをブラッシング係に任命して、いまは二人で廊下の掃除をしている。わたしも掃除に加わろうとしたのだけど、ブラシを持たされて中庭へと追いやられてしまった。


 ディエ様のお傍は気持ちがいい。暖かくて、胸の奥がきゅうっとなる。

 お傍に居たい。わたしがそんな風に思っていることを、あの二人は知っているのかもしれない。


「何を浮かれてんだ」

「わたしの心の中を読んでますよね?」


 わたしの問いには答えずに、ディエ様はじりじりと後退る。

 別に無理にブラッシングをするつもりはないのに、そこまで警戒されると物悲しくもある。


「俺は双子の上司だが?」

「わたしの直属はあの二人なので……なんて、ディエ様が嫌がることはしませんよ」


 少し名残惜しいけれど、嫌われたくはない。

 お世話になり始めて一か月ほど。少しずつ距離も近付いてきたと思うのに、この一件で嫌われてしまうのは悲しい。お傍に居られなくなるのは嫌だもの。


 ブラシを背中に隠して一礼をし、やっぱりわたしも掃除に加わろうと踵を返した。


「……強くするなよ」


 背に掛けられた小さな声。肩越しに振り返ると、芝生の上にごろりと寝転がったディエ様がふぅと溜息をついている。


「……いいんですか?」

「上司に指示されたんだろ」

「……はい!」


 いそいそとディエ様の元に戻ると、また溜息をつかれてしまった。でもどうしてか、その溜息に不快な響きはないように思えた。


 ディエ様のお腹側に膝をつき、「失礼します」と声を掛けてからそっとその体に触れる。

 左手を背中に添え、右手に持ったブラシで背中からお腹に向けてゆっくりとブラシをかけていく。


「痛くないですか?」

「ああ」


 ディエ様の体はとても暖かい。日向に居たからだけではない温もりに、わたしの気持ちまで暖かくなっていくようだった。


 ブラシを動かしながらよく見ると、真っ黒だと思っていた体には黒い斑紋がある。指先でその丸にも似た形をなぞると、擽ったかったのかディエ様がぶるりと体を震わせた。

 非難するようなじとりとした視線を向けられて、笑って誤魔化したわたしはまたブラッシングに集中することにした。


 体半分にブラシを掛け終わるのを見計らってか、ディエ様が起き上がり、今度は逆側を見せるように寝転がってくれる。その気遣いに笑みが浮かぶことを自覚しながら、有難くブラシを動かしていく。


「……眠くなってきた。何か目が覚めるような話はないか」

「寝物語ですか?」

「目が覚めるようなって言ってんのに寝かせてどうすんだ」

「お昼寝してもいいかなと思いまして。でも、そうですねぇ……」

「前は神殿で下働きをしていた話を聞いたから、そのあと。子爵家ではどんな生活をしていたんだ?」


 ディエ様の問いに、一瞬ブラシを動かす手が止まってしまった。


「面白い話ではないですよ?」

「子爵家がクソだってのは知ってる」

「支度にガラス玉を持たせるくらいですからねぇ」


 あははと笑って見せるけれど、笑いごとじゃないんだった。供物である生贄をガラス玉で着飾るなんて、神様・・への不敬だ。ディエ様が怒らないでいてくれているだけで、罰があたって当然のことなのだから。


 わたしはまた手を動かしながら、何から話そうか考えを巡らせた。


「わたしは子爵家に娘として引き取られ、戸籍も子爵家のものになりましたが……扱いは下働きと同じでした。仕事は……神殿でもしていたので別に苦では無かったんですが、朝早くから夜遅くまで働くのは楽では無かったですね」


 思い出したら辛く感じるのかと思ったけれど、意外とそうでもなかったのが自分でも不思議だった。あの子爵家にいる時は辛くて悲しくて悔しくて、どろどろとした感情に飲み込まれてしまいそうだったのに。


「幸いにも粗末でしたが食事は与えられましたし、目に見えるところに傷をつけられることもありませんでした。あの人たちにとってわたしは……出荷する商品・・だったので、価値を下げるようなことは出来なかったのでしょう」


 体全体にブラシを掛け終わったわたしは、今度は足にブラシを添えた。左手でそっと足を支えながらゆっくりとブラシを掛けていく。

 元々整った毛並みだったけれど、艶が出ているのは気のせいではないと思う。それも嬉しいけれど、こうして温かさを感じられる程に触れていられるのも嬉しい。わたしが……触れて、ディエ様が嫌がらないことも。


 正直浮かれていたわたしは、ディエ様の纏う雰囲気が変わった事に気付けなかった。気付くのに、遅れてしまった。


「……目に見えないところには?」


 ディエ様の声が低い。


「多少は。でもあの人達はそういう躾に慣れているのか、跡が残るようなこともありませんでした」


 こんな話、やっぱり気を悪くさせてしまう。

 もう気にしていないのだと、何でもないことだったのだと。意識して明るい口調で言葉を紡ぐけれど、ディエ様の機嫌は下がったままだ。


 わたしとディエ様に影が差すことに気付いて空を見上げると、あんなにも美しく晴れていた空が厚い黒雲に覆われていた。気温が一気に下がったのか、ひどく寒い。


「……ディエ様、冷えてきましたから中に入りましょう」

「お前は……そんな理不尽を受け入れてきたのか?」


 わたしの声に応えることなく、ディエ様は問いかけてくる。横たえていた体を起こし、座ったかと思ったらそのお姿が光に包まれる。光が弾けた先に居たのは、人の姿を取ったディエ様だった。

 黄色と赤の瞳が色を濃くしていて──感じられるのは、静かな怒り。


「わたしは平民です。貴族よりも身分で劣ることは間違いありません。それに……子爵家の人にとって、わたしは存在してはいけないものでした。子爵が戯れに手を出したメイドが産んだ子など醜聞でしかありません」


 ディエ様の眉間に深い皺が寄る。

 ぎゅっとブラシを握りながらわたしは首を横に振った。


「ディエ様、わたしも彼らのやる事に何も思わないわけではありません。ですが、そういうものだと受け入れるしかなかったのです」

「……人の子の考えることは分からん」


 小さな声で呟いたディエ様に、わたしは眉を下げて笑うことしか出来なかった。


 冷たい風が中庭を吹き抜ける。

 先程までのぽかぽかした陽気の欠片もなく、まるで真冬のような凍てつく寒さに、わたしはお仕着せの上から腕を摩った。


「悪い、俺が聞きたいと言ったんだったな」

「いえいえ、わたしがもっと掻い摘んで話せば良かったんです。……ディエ様、あの、大変申し上げにくいのですが……寒くて、ですね……」


 わたしの言葉にはっと気付いたかのように、ディエ様が空を見上げてバツの悪そうな顔をした。

 

「……中に入るか」

「はい、温かいものをお持ちしますね。ディエ様、わたし、子爵家の人達は嫌いなんですけど、ただひとつだけ感謝していることもあって」

「ここに来られたのは子爵家のお陰だなんて言うなよ」


 立ち上がったディエ様が呆れたように眉を寄せる。

 まさに今それを口にしようとしていたわたしは、持ったままのブラシを大きく振り回した。


「心を読むのはやめてください!」

「分かりやすいんだよ」

「え、そんなにですか? ではわたしがディエ様のお傍に居たいと言うのも知られて──」

「バカじゃねぇの」


 不意に風が巻き起こる。

 足元で渦を巻いたその風は、簡単にわたしの足を払って転ばせてしまった。


 転ぶ! と思って目を閉じても衝撃はこない。出した両手にも何も触れない。

 そっと目を開けると、わたしの体は風に持ち上げられるように浮かんでいた。


「……ディエ様?」

「さっさと入れ」


 ディエ様が軽く指を振ると、わたしの体は風に持ち上げられたまま、神殿の中へと運ばれてしまった。

 振り返った先ではディエ様がまた黒豹の姿になって、神殿の中に足を踏み入れているのが見える。


 ぽつり、と落ちてきた雨が中庭に敷かれた石畳を濡らしていく。

 降り始めたばかりだというのに一気に勢いを増した雨は、世界を霞ませていくようだった。

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