10.胸がいっぱいで、胸の奥が苦しくて

 神殿で過ごす毎日は賑やかで、新鮮で、とっても楽しい。ずっとここで過ごして居たいと思ってしまう。それほどまでに居心地の良い場所だった。



 今日も神域はいい天気。

 ぽかぽかとした陽気が降り注ぎ、吹き抜ける爽やかな風がわたしの頬を撫でていく。

 今日は裏庭でお洗濯をしていた。魔法で乾かしてしまうから天気は関係ないのだけど、それでも洗濯日和だと思ってしまう。


「クラリスクラリス、ここにお湯を溜めてほしい」


 ルカの言葉に頷いて地面に跪き、大きな桶の中にお湯を溜めていく。そこに泡だらけのシーツを入れてくれたのはリオだ。


「風を起こして回してみるといい」


 リオの言う通り、手の平に風を生み出してみる。渦を巻くような風を桶の中に入れるとくるくるとゆっくり回り始めた。


 あまりに強く回してしまうと生地を傷めてしまうかもしれない。泡だらけの水を撒き散らしてしまうかもしれない。

 だからわたしは意識を集中させていたのだけど……ふと双子を見ると、空中で泡だらけの洗濯物を回している。初めて見た時も驚いたけれど、こうして自分でも魔法を使うようになって、あの洗濯方法がとんでもないという事が分かる。


 泡も舞って水流も舞う。

 美しささえ感じるけれど、それでもやっぱり洗濯なのだ。


「……わたしもいつか、そんなお洗濯が出来るようになるかしら」


 二人を見ながらそんな呟きを零すと、魔力調整を間違えてしまったらしい。ばしゃん、と大きな音が聞こえたと思った瞬間、わたしは頭から水を被ってしまっていた。


「クラリスは何をしているんだ」

「クラリスは水で遊びたいか」


 二人はくすくすと笑いながら、わたしの頭にタオルを乗せてくれる。洗い立てだからふわふわで、石鹸の匂いがするタオルだった。


「魔法を使えるようになっただけでも凄いことだって分かっているんだけど、もっと使えるようにならなくちゃいけないって思ってしまって……」


 冷たい水は気持ちも沈ませていくようだ。

 気持ちを映したかのように、自分でも声が沈んでいるのが分かる。


「クラリスはまだ魔法を使えるようになったばかり」

「クラリスは経験値が足りない」

「でもクラリスはよく働く」

「わたし達の目に間違いはなかった」


 二人はわたしを囲み、小さな手の平に生み出した温風で髪を乾かしてくれる。

 春の陽だまりを思い返させるような、暖かくて優しい風だった。


「出来ないことがあってもいい」

「出来ることは増えていく」


 二人の言葉が心に沁みる。泣きたくなるのを堪えて、大きく頷いた。

 ルカもリオも、わたしの事を責めたりしない。出来ないわたしを受け入れて、出来るようになるまで嫌な顔もせずに付き合ってくれる。


「そうね……わたし、二人のように魔法を使いこなせるようになるまで、練習するわ。付き合ってくれる?」

「もちろん。いくらでも」


 二人が心からそう言っているのが伝わってくるようで、嬉しくて笑みが零れた。

 やっぱり目尻は濡れてしまったけれど。



 さて、洗濯の続きを……と思ったら、二人は空を見上げている。

 どうかしたのかと問うよりも早く、二人はわたしの両手を引いて立ち上がらせると背中をぐいぐいと押してくる。


「ちょ、っ……どうしたの?」

主様ぬしさまがお戻りになる」

「主様を広間でお出迎えしてほしい」

「え? ええ、分かったわ。二人は?」


 リオは先程使ったタオルも浮かび上がらせて、それを泡の中に飛び込ませた。

 今までよりも強い水流が洗濯物を踊らせている。


「私達は洗濯を終わらせてから行く」

「サロンでお茶にしよう。主様と一緒に待っていて」

「え、でもそれならわたしが洗濯を……」


 そう言いかけたけれど、二人に任せた方が間違いなく早い。

 それならわたしの出来ることは──美味しいお茶を用意しておくだけ。


 紅茶を淹れる腕も上がってきて、ルカとリオ、それからディエ様にも褒めて貰えるほどだった。


「じゃあ美味しいお茶を淹れて待ってる。ごめんね、ありがとう」

「楽しみにしている」

「主様と待っていて」


 わたしは頷くと神殿に向かって駆けだした。

 それにしても……ディエ様はお出掛けしていたのか。そういえば朝からお姿を見なかったけれど、また街に行っていたのだろうか。


 回廊を走るわたしの足音が、大きく響いていた。



 広間に辿り着くと、そこには光が集まっていた。

 ディエ様だと気付いて駆け寄ると、その瞬間に光が弾けてディエ様が現れる。その距離が思った以上に近くって、わたしも大層驚いたけれど……ディエ様もそうだったようで、目を丸くしている。


「近ぇ」

「も、申し訳ありません。ちょっと距離を見誤ってしまったようで……」


 今にも触れてしまいそうな距離に後退る。

 心臓がばくばくと喧しくて、ディエ様にも聞こえてしまうんじゃないかと思うくらい。


 深呼吸を繰り返して平静を取り戻そうとするけれど、もう少し時間が掛かるみたいだ。顔に宿る熱もまだ引いてくれそうにない。


「あの……ディエ様はどちらに行かれていたんですか?」

「街にちょっとな。ああ、お前にも……」


 ディエ様が右手を振ると、その手の中には二冊の本が現れていた。一体どこから出したのかと、驚いて瞬きさえも忘れてしまった。


「やる」


 短い言葉と共に差し出された本。その内の一冊は小説のようだった。

 青い空が美しい表紙の中央に描かれているのは赤い指輪。タイトルからして、この指輪を巡る冒険小説なのだろうか。

 もう一冊はレース編みの図案の本。


「わたしに、ですか?」

「うちにある本は古いものばかりでつまらないだろう。これは最近出たばかりらしいから、退屈しのぎになるかと思ってな」

「そんな、ここに居て退屈だなんて思った事はないんですけれど……でも、嬉しいです。ありがとうございます」


 本を両手で受け取ると、ディエ様が微笑んでくれた。その美しくて優しい微笑みに、わたしの心が的確に撃ち抜かれる。

 

 この本をわたしの為に用意してくれた。

 それだけで胸がいっぱいになる。


 わたしが本を読んでいる事を知ってくれていた。

 それが嬉しくて、胸の奥が切なくなる。


「あの……わたしが本を読んでいるのを、ご存知だったんですね。それとレース編みをしていることも」


 本を胸に抱えながら問いかけると、当然だとばかりに頷かれた。


「図書室に居るのを見ているからな」

「え、いつですか? 声を掛けて下さったら良かったのに!」

「集中して読んでいるようだったから、邪魔するのも悪いだろ」

「ディエ様が話しかけて下さることを邪魔だなんて思いませんよ」

「はいはい」


 軽く流されてしまうけれど、口元がどうしても緩んでしまう。


 改めて本に目を落とすと、どんな話なのかと胸が弾む。今日の夜から大切に読もう。

 そう心に決めながら、そこでやっと思い出したことがあった。


「……いけない。リオとルカにお茶を頼まれていたんでした。ディエ様がお戻りになったら、みんなでお茶にしましょうって」

「茶菓子も買ってきたから丁度良かったな」

「わたし、先に行って準備をしてきますね。二人が先に来てしまっているかもしれないので」

「いや、大丈夫だろう。走ると転ぶぞ」


 そう言うとディエ様が歩き始める。

 ディエ様にそう言われては先に行くのも憚られて、歩き出すディエ様の後を追いかけた。


「そういえば……ディエ様はつい先日も街に行っていませんでした?」

「足りないものがあったってリオに頼まれた」

「そうだったんですね。あの、買い出しならわたしもお手伝いします。ご迷惑じゃなければですが……」

「ああ。街を見ればお前も人の世に戻る気に──」

「なりません」


 ディエ様の言葉に被せるように声をあげると、怪訝そうに眉を寄せられてしまった。

 不敬だっていうのは分かっているけれど、ディエ様はこれくらいじゃ怒らない。


「わたしはディエ様のお傍にいますから。人の世には戻りませんよ」

「変なやつ。街に居た方が幸せだろうに」

「そんなことありません。わたしはディエ様のお傍に居たいのです」

「……変なやつ」


 ディエ様は呆れたように笑うばかりで、それ以上は何も言わなかった。

 心を読むであろうディエ様には、これがわたしの本心だと伝わっているだろうから。だからわたしも、これ以上言葉を重ねることはしなかった。


 ディエ様と双子と、この神域で暮らす以上の幸せがあるのだろうか。

 でも……わたしはいつまで、ここにお世話になっていていいのだろう。


 胸によぎった微かな不安には気付かないふりをした。

 いつかこの場所を去ることになったとしても、それまでは──この幸せをただ抱き締めていたかった。

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