2.生贄がいらない?

 はぁ……と大きくて深い溜息が聞こえた。

 前足を揃えて背をそらすように大きく伸びをした神様が、足音も立てずにカウチから降りる。

 ゆっくりとわたしに近付いてくるけれど、やっぱり恐怖は感じなかった。


 このまま食べられるのだろう。

 痛くないといいな。いや、それは無理か。一口でっていうのも無理な話だろうけど、出来るだけ早く意識を飛ばしてしまいたいな。

 怖くはないけど痛いのは嫌だ。


 そんなことを考えながら、襲い来る痛みを待っていた。

 衝撃に耐えようと目を閉じ、息を止める。でも……いつまでたっても、神様はわたしに齧りつかなかった。


 そうっと目を開けると、黄色と赤の瞳が間近にわたしを見つめている。

 思わず祈りの手を胸辺りまで下げてしまうと、神様がわたしの涙に濡れた頬をぺろりと舐めた。


 少しざらついた舌は猫みたいだ。

 驚きに目を丸くしていると、神様はわたしの前に座り込む。両の前足を綺麗に揃え、羽がぱたぱたとゆっくり動いていた。


「家に帰してやるから心配すんな」


 喋った。

 溜息交じりの低い声が、目の前の黒豹から発せられる。黒豹というか神様だから、お話したって不思議ではないはずなんだけど、やっぱり違和感がすごい。


「い、いえ! わたし……わたくしは神様への供物として捧げられた身であります。戻ることなど……」


 そう言って、はっと気付いてしまった。

 さっき泣いてしまったから。それを見た神様はわたしを気遣ってくれているのだろうか。


「あの、この涙はですね、生贄になるのが嫌だからとそういうわけではなく。ただ母を思い出してしまっただけで……」

「母親のところに帰ればいいだろう。別に俺は生贄を必要としていない。三十年に一度の生贄制度も何とかならんのか。いらないと神官に言っても聞きやしねぇ」

「いえ……その、母は先月他界しまして……。父に引き取られたんですが、その家に居場所もなく、帰れそうにもないものでして……」


 生贄がいらない?

 疑問が頭の中を埋めるけれど、いまそれを口にするのは憚られた。


 神様は小さく頷くとカウチへと戻っていく。軽い身のこなしで飛び乗ると、また寝転がって寛ぎ始めた。


「では隣国の修道院にでも行くか。身寄りがなくても預かってくれるぞ。その宝石を売れば多少の路銀になるだろう」


 わたしは自分の姿を見下ろした。

 純白のドレスに縫い付けられている宝石たち。それ以外にもイヤリングにネックレス、髪飾りとわたしは様々な宝石で飾られていた。

 神様への生贄だからと煌びやかな支度をして貰ったのだが……実はこれは──


主様主様ぬしさまぬしさま、これは偽物」

「よく作られた偽物」


 いつの間に現れたのか、幼い双子の姉妹がわたしの両隣に立っている。

 二人はお仕着せに白いエプロンを着け、金色に輝く髪を三つ編みにして背中に流している。全く同じ容姿だけれど唯一違うのが瞳の色。一人は青で、一人は緑。


 二人は鈴の鳴るような可愛らしい声で、わたしの身に着けている宝石が偽物だと口にした。

 居た堪れなさと恥ずかしさ、そして申し訳なさで顔が赤くなるのが分かる。


「生贄に贋物を持たせるとは、王国も中々やるものだ」

「いえ、これに国は関係なく……子爵家の独断で……。申し訳ありません」

「お前を送り出した家はどうなっているんだ」


 呆れの混じった声に、子爵家を庇うことも出来なかった。

 生贄となる娘を出す家には、国から手厚い支度金が支払われるのだ。死ぬと分かっていて娘を送り出すのだ、慰謝料の意味も大きいのだろう。


 もちろん、デッセル子爵家にも支度金が支払われた。

 でもそのほとんどが、子爵家が豪遊する為に使われたのだ。


 異母姉であるフローラは目が痛くなるほどに輝く金とエメラルドで出来たネックレスを付けながら、わたしに用意された物置だった小さな部屋へとやってきた。


『どうせ死ぬお前に本物の宝石なんてもったいない。あたしが使ってあげるわね』


 別に支度金をどう使おうが自由なのかもしれないけれど、神様への供物にガラス玉を持たせるのはどうなのかと、今でも思う。


「お前、居場所がないと言ったが。家でどんな扱いを受けていたんだ」


 神様の声に呆れの色は濃くあれど、怒ってはいないようだった。

 わたしが話をしようと口を開くと、双子が椅子を用意してくれる。艶やかに磨かれた肘置きがついた、座面も背凭れも見るからにふかふかとした椅子だった。


 神様の前で座っていいのか悩むけれど、神様はあごをくいっと動かしている。座るように促されたのだと解釈して、双子に引っ張られるまま椅子に腰かけた。


「わたしの母はデッセル子爵家に仕えるメイドでした。しかしご当主のお手付きとなり、わたしを孕んだことで職を失うことになりました。母は身寄りがなかったものですから、わたしを産んだ後は食堂で働きながらわたしを育てあげ、先月……流行り病で亡くなりました」


 話をしている間に、双子がわたしの前にサイドテーブルを置いてくれている。その上には紅茶が用意され、湯気と共にいい香りを漂わせていた。


 神様はまた顎をくいっと動かしている。飲んでいいという事なのかな、と慣れないながらもソーサーとカップを持ち、指先で取っ手を摘んだ。そっと一口飲んでみるとほんのり甘くて、とても美味しい。


「母が亡くなってすぐに、デッセル子爵家からの迎えが来ました。自分で言うのもなんですが、ご覧の通りの見目をしておりますので、裕福な貴族や商家の後妻か妾として使うつもりのようでした」


 母は美しい人だった。

 そんな母にわたしはよく似ていて、母と同じ赤を帯びた紫色の瞳が大好きだった。でも、父である子爵と同じ、銀色の髪は好きになれない。


 もう一口だけ紅茶を頂いてから、テーブルの上にカップとソーサーをそうっと戻す。音を立てないように気を付けながら。


「そこでまぁ……子爵家に溶け込めるわけもなく。色々ありました末に、こうして生贄として捧げられております」

「その色々ってのも胸糞悪い話なんだろうな」

「そう、ですね……神様のお耳に入れる話ではないかと」


 神様の前にもテーブルと、紅茶が用意されている。

 あの大きな手で器用に飲むのだろうか。それは少し、見てみたいと思った。


「リオ、うちにある金貨を持たせてやれ」

「主様主様、この子をどこに?」


 リオと呼ばれた青い瞳の少女は首を傾げて、わたしの腕を掴んでいる。

 その手はひんやりと冷たくて柔らかかった。


「隣国の修道院でいいだろ。他に行きたい場所があれば送ってやるが」

「主様主様、この子はここに」


 もう一人の緑の瞳を持った少女が、反対側のわたしの腕を掴んでいる。


「人の世に帰した方がこいつの為だ。いいな?」

「あ、あの……ここに置いておけるのなら、働かせて頂けないでしょうか?」

「はぁ?」


 神様はしっぽを大きく揺らしながら怪訝そうに顔をしかめた。


 わたしには行く場所がない。

 修道院に連れていってもらって、そこでお祈りをして過ごすのもいいんだけれど……そのお祈りが神様の為のものならば、ここでもいいのではないだろうか。

 それに、この短い時間の中でもここの居心地の良さは伝わってきている。母と別れてからこんな風に思ったのは初めてだった。


 大きな溜息をついた神様の体が白い光に包まれる。

 先程、蜘蛛の巣にいたわたしを包んだ、あの光と一緒だった。柔らかくて綺麗で、暖かな光。


 その光が弾けた先に居たのは黒豹ではなく、男性だった。

 短く整えられた黒髪に、黄色と赤の瞳。通った鼻筋に少し厚めの唇。眉を寄せてわたしを見つめるその姿から──わたしは目が離せなかった。


 こんなにも美しい人を見たことが無くて、視線を重ねているだけで鼓動が早くなっていく。

 どきどきと早鐘を打つ心臓はきっとこのままだと壊れてしまう。自分の意思とは無関係に顔が赤く染まっていくのが分かる。そのお姿が輝きを放っているようで、眩いのに目を離すことなんて出来ない。


 このお方の、お傍に居たい。


「人の世に戻った方が、お前の──」

「お傍に置いてください!」


 思わず大きな声を出してしまって、神様の眉間の皺が深くなる。

 両腕をくいっと引かれて双子に目を向けると、よく言ったとばかりに二人は大きく頷いていた。


「主様主様、この子をお世話係に」

「主様主様、私達だけでは手が足りない」

「いや、お前らで充分だろうが。足りなかったら神使しんしを増やしても……」

「増やすならこの子がいい」

「この子は働く。間違いない」


 よく分からないけれど、この二人はわたしがここに留まる事に賛成をしてくれている。

 それに勢いづいたわたしは両手を胸の前で組んで声を張り上げた。いまここで元の場所に戻ってしまったら、神様にお会いすることは二度とないだろう。


「お願いします! なんでもしますから置いてください!」


 今までで一番大きく、深い溜息が広間に響く。

 カウチにごろんと寝転がった神様は、手をひらつかせて「好きにしろ」とだけ口にした。


 その言葉に安堵の息をつく。

 わたしの腕を掴んだままの双子は嬉しそうに笑ってくれて、わたしもつられるように笑みを浮かべていた。

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