捧げられた生贄は、神様に恋して過ごしています

花散ここ

1.神様への生贄

 目の前には、大地が大きく口を開いたような裂け目が広がっている。


 色の薄い青空から降る粉雪が、その裂け目へ吸い込まれていくけれど、その果てなんてちっとも見えない。ただ真っ暗な空洞が深くまで広がっているだけだ。


 わたしの纏う純白のドレスの裾が、冬風にはためいている。

 自分が寒くて震えているのか、それとも恐怖に震えているのか、どちらなのかもわからなかった。


「さぁ、飛ぶのだ。神の御許に旅立つ君を我等は忘れないだろう」


 肩越しに振り返ると、豪華な衣装を着て書物と杖を持った司祭様の姿。

 温和な笑みにうっすらと涙を浮かべた司祭様の向こうには、目元をハンカチで押さえたわたしの……家族だった人達。たぶん家族。……家族? 父親と義母と異母姉。うん、家族という枠よりもこうした方がぴったりくる。


 義母たちが持つあのハンカチだって濡れてないだろうけど、司祭様が涙を浮かべているのは本気みたいだから、水を差すのも野暮だというものだ。


 わたしはひとつ頷くと、大きく息を吸って、ゆっくりと吐いた。膝が笑っているから足を踏み出すのも中々難しい。心臓がばくばくと騒がしくて、恐ろしくて堪らないけれど……もう引き返すことなど出来はしない。引き返すことが出来たとして、結局は幸せになんてなれないんだもの。だから、もうわたしには飛び込む以外の道はないのだ。

 何度かの深呼吸を繰り返してから──その裂け目へと自ら飛び込んだ。

 神様への、生贄となる為に。



 この国を守護される神様へ生贄を捧ぐのは、三十年に一度と決まっている。

 生贄になるのは純真無垢な娘と決まっていて、信仰心の厚い者が志願する時もあれば、口減らしの為に娘を差し出す家もあったという。

 わたしの場合は……また、ちょっと変わった事情なのだけれど。

 

 思っていたよりも裂け目は深い。

 落下していく感覚が気持ち悪く、気を失ってしまえたら楽なのに、わたしの心はそんなに繊細ではなかったようだ。


 このままだと底にぶつかる時にも意識があるんじゃないだろうか。それはちょっと遠慮したい。気を失っている間に死を迎えたい。着地点を見ながら落ちていくのはさすがに怖い。

 まだ底は見えないけれど、いつかは必ず辿り着くはずだ。


 ドレスのスカートはひっくり返り、素足が丸見えになっている。

 わたしだってまだ十八歳、羞恥心だって持ち合わせているけれど……誰が見るわけでもなし、直せるわけでもなし。死を目前にして気にすることでもないだろう。


 というよりも。

 わたしは墜落死が確定しているようなものだけど、生贄なのにこのままでは骸になってしまうのでは? それともこの先には大きなお口を開けた神様が待っていて、わたしはそこに入るだけ?

 もしかしたらあの裂け目は口だったのかもしれない。もう食べられていて、ここは消化されるための場所?


 今までにこんな経験をしたことがないから、何も分からない。今までに生贄に捧げられた人達だって戻ってきていないのだから、どれが正解なのかも分からない。


 一か月前に母が死に、すぐにこうして追いかける羽目になるとは思いもよらなかった。でも母は信心深い人だったから、死んだらまた母に会えるかもしれない。

 神様への生贄となったんだもの、それくらいの我儘を叶えてはもらえないだろうか……。


 そんなことをぼんやりと考えているうちに、頭がくらくらしてきた。

 目の前が暗くなって、息が苦しい。ああ、やっと意識を失えるのか。


 それに少し安堵しながら、わたしはゆっくりと目を閉じた。

 もう、目を覚ます事はないだろう──



 ──ぽよん


 何かに当たって、わたしの体は大きく跳ねた。

 ぽよん……ぽよん?


 目を開けると頭が少しずきずきと痛む。ずっと逆さになって落ちていたからかもしれない。

 いや、そんなことよりも。わたしは……大きな網の上に横たわっていた。


 網というより、美しい形に張られたこれは……巨大な蜘蛛の巣?

 神様って蜘蛛の姿を取っていたっけ? いやいや、絵姿では黒い豹のお姿だった。それとも巨大蜘蛛がここに巣を張っただけ? 蜘蛛が巣を張ったとしたら、わたしは餌という事になってしまう。

 ちょっと待って、理解が追い付かない。供物として捧げられたから、頭からばりばりと食べられるの?


 今更ながらに恐ろしくなって、周囲に目を向ける。

 幸いにも巣の主は留守にしているのか、わたし以外には何もいない。


 これから一体どうするべきか。逃げようにも逃げ場はない。

 よじ登るのは無理だし、蜘蛛の巣の下には奈落が広がっているだけだ。


 さて、どうしよう。

 わたしがうんうんと唸り始めた、その時だった。


 蜘蛛の巣全体が、白い光を放ち始める。眩いくらいの光の洪水はわたしを飲み込んで、そして──ぱっと弾けて消えてしまった。



 光が消えて、わたしの目の前に広がっていたのは美しい広間だった。

 きらきら光る大理石の床には黒い絨毯が敷かれている。絨毯には金の糸で細やかな刺繍がしてあって、とても綺麗。


 その絨毯の上にわたしは座り込んでいる。伸びた長い絨毯の先は数段高くなっていて、そこには深い青色のカウチが置かれていた。

 ゆったりとしたカウチの上に横たわっているのは……黒豹。神殿に祀られていた神様のお姿と同じだ。

 黒豹の背には大きくて黒い、鳥のような羽根がある。それも絵姿と一緒だった。


 足を崩したままの姿勢だったわたしは慌てて跪いた。額の前で両手を組み、祈りを捧げる姿勢を取る。


「か、神様におかれましてはご機嫌麗しく存じます。わた、わたくしはデッセル子爵家が娘、クラリスと申します。此度の神様に捧げられる生贄という大役、大変光栄に思っております。ど、どうぞわたくしを糧として、王国に更なる繁栄をお恵み下さいませ……!」


 緊張で喉が渇く。口が上手く回らないけれど、なんとか口上を述べることは出来た。

 生贄になると決まってから毎日復唱させられたのだから、間違ってはいないはずだ。


 額に両手を合わせたまま、薄目でちらりと神様の様子を窺うと……なんと神様は大きな欠伸をしていた。


 ……わたしの言葉は聞こえていたのだろうか。

 しかしこれ以上わたしから出来ることはない。あとは食べて貰えるのを待つしかないのだ。


 不思議と、先程までの恐怖はなかった。

 裂け目に飛び降りる時も、蜘蛛の巣にかかった時だって本当は恐ろしかったのに。


 この広間は……何だかとても心地が良いからかもしれない。

 花のような良い匂いが広がっていて、優しい雰囲気の場所だった。


 そうだ、花の匂い。

 だからこんなにも気持ちが良くて、そして……悲しい。


 死んでしまった母も花が好きだった。母の飾る花で質素な部屋は輝いて見えた。

 貧しくても母が居ればそれで良かったのだ。


 そんな幸せだった時間を思い出させるような場所だった。

 張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れてしまったのか、胸をよぎるのは優しくて悲しい思い出ばかり。わたしの頬を涙が伝ったけれど、両手は塞がっていたから、それを拭うことは出来なかった。

 

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