「なんだ、知らなかったのか。本当にふつうの人間になってしまったんだね。それはひととして、はじめての体験?」


「……五月蠅うるさい」


 吐き捨て、め上げた男の顔には、優しげな笑みがあった。思いもかけぬ、いたわりの表情に面食らう。

 人の世で怖れられたものであった自覚が、もはやついえた過去であると唐突に思い知る。

「そんなに可笑しいか、がすっかり落ちぶれたのを見るのは楽しいか」


 ううん、と首を振る。

「母さんがね、伝えてほしいって言ってたのを、いま思い出したよ」

 思わせぶりな口調で続ける。

「きみの子どもには心が宿らないってね」


「——なに……?」


「心のないものが、ひとの心を生み出すのは無理だ。あるのは空っぽのうつわだけ。つまり、生きてるだけの身体」

 口元に人差し指を立てる。男の目が、すうっと細まる。

「昔みたいに、人食いでもする? 子どもは……生まれてすぐが、特にたまらない味らしいじゃない」


巫山戯ふざけるな」


 冗談ではない、そんなことをしようものなら、ひとの世でも暮らせなくなる。歯噛みするほどに口惜しいのに、どんなにか以前の力を取り戻したいと思っても、できない。

 こんな中途半端なりようでは、怪異共の興味をいたとたん、抵抗もできずにあっという間に八つ裂きにされる。


 ぶちまけた血を啜られ、肉は食われ、うじにたかられる。ひとではないものによる事象は、人の世でまず犯罪と認識されない。せいぜい事故や自殺で処理されるのが関の山だ。

 やがて日常に埋もれて、霧消してしまうだろう。


 即答に、おや、と男が驚いた顔になる。

「意外だな、怒るの? ずいぶんとひとの世で毒されてしまったのかな。昔は相当暴れて、流れてたどり着いたあの集落で、被害が出ないように封じるのに苦労したって話、母さんから聞いてるよ」


「……」

「じゃあ、他の選択肢を出そう。聞きたい?」


 女は大きく息を吐いた。思わせぶりな態度が心底いらつく。思わず語気が強まる。

「早く言え」


「ひとつ、ひとの世に従い、堕胎という手段」


 ふたつめ、と言いながら、人差し指に続き中指を立てる。

「僕の言葉を信じずに、そのまま出産してみる」

 まあ、心のない子は生きた屍みたいなものだから、生まれたあとに化生のものを憑かせる方法もあるよね、と含み笑う。


 男は言った。きみにできるなら。

 そう、赤子の身体を奪った、昔のきみみたいに。


 みっつめ、と続けて薬指を立てる。

「新たに、魂籠たまごめをする」


「……」


「あの家には、きみが赤子の身体から追い出した、男の子の魂が残っている。過ごす時代は違ってしまうけど、やっともとに戻せる」


 口を閉ざして答えずにいると、男は真顔になって続けた。

「即答しないんだね。でも、できるだけ早く答えを出すことだよ。あまり悩んでると選択肢が減る」


 じゃあ、今度こそ僕はこれで、と言い置いて、男は振り返ることもなく店を出て行った。


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