低く、響きの良い柔らかな声音で話す。残念そうにすこしだけ顔を曇らせる。


 それができない、できなかったから、ずっと苦しかった。小さい頃から、ずっと。

 生きる世界は違和感だらけだった。


 男はまっすぐに女を見つめた。

「きみたちがこの世界で、どう思って過ごしてきたか僕は知らない。どれだけ長い間、存在してきたかも知らないし。でも、ひとの生きる時間は短いからね、どうしても譲れないこともあるんだよ」


 男の言葉に苛立ったのか、もとから理解する気もなかったのか。女はやおらグラスを煽って飲み干し、冷えた息をひとつ、吐き出した。 


「結果、思惑どおりに封じ込められてこのざまだ。昔のように、力も思い通り振るえない。どんなに退屈だろうが、ひととしては生きるしかないというわけだ」


 この先もずっと。下手にことを荒立てれば、かつての同類に目をつけられる。よく知っている。あれらは容赦が無い。

 死んだら、終わり。


「ひととして死ねばそれで終わり、もはやはらわれたも同然だ。ただでさえひとの身は脆弱ぜいじゃく、さらに女の身は非力このうえない。なにもできない、お手上げだ」


 さすがにミシャクジは子ども好きなだけはある、と平坦に言い放つ。

「実に巧妙な算段をつけたものだ、感服するよ。おまえが抱えた悩みまでまとめて解消したわけだからな」


「そうだね」


 でも、と男がテーブルの上に頬杖をついて、もう片方の手を伸ばし、女が飲み干して空になったグラスを指先で斜めにしてもてあそぶ。


「きみはそれでもいいだろうけど。でも、僕は……、ひとの生活を半分は捨てたようなものだよ」

 空のグラスをそっと押しやると、立ち上がる。表情は崩さない。つくりもののような顔に微笑をうかべたまま。

 テーブルから離れようとした姿勢で振り返る。凛とした立ち姿に浮世を離れた気配をまとう。


「そうだ、訊きたいことがあったんだ」

「……なんだ」


 もはやどうでもいい、そう言いたげな調子で答える。

 見下ろす男の顔に、照明の影が落ちて表情が見えない。やけに冷ややかな声が響く。


「なんできみ、好きでもない男の、子どもなんか宿してるの」


 女の動きが静止する。

 しばし、互いが無言になる。流れる音楽と、会話のざわめきが聞こえる。グラスの中の氷が、薄暗い照明を反射している。


「——なんだって?」


 意外にも見開かれた女の目に、ふうん、と男は返した。


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