手向たむけ、が転じて峠と言うのよ。神仏や死者に捧げものをする場所のこと。昔むかしのお話になるけれど、坂の曲がり角や峠を通ると手向ける習慣があったのね。たくさんのひとが祈りや願いごとをした」


 目安になる路傍ろぼうに石神は祀られた。

 各地に、さまざまな石の碑や像、彫り込まれた神仏が残る。

 この家の前にも、たしかにあった。自分が蹴り倒してしまった。


「八十もありそうな、たくさんの曲がり角で手向けをしていけば、あの世のひとに会えると考える者もいたみたい」


 人々は手向けて、旅の安全を願った。目的地にたどり着いて、無事に家へと戻れた感謝を伝え、祈りを捧げた。

 村に悪いものが入りこみませんように。病気が流行りませんように。子どもが増え、村が末永く繁栄しますように。

 人の願いが高く積もり続けた、ここはそんな場所。


 澄んだまなざしを受け、子どもは目を上げた。

 いったい、このひとはなんなのだろう。ひと、なのだろうか。


「その身体の子はね、生まれて間もなく、本当は……うつし世から旅立つはずだった。でもここはよくないものが溜まって、よどみやすいの。村によくない有相無相うそうむそうが入り込まぬよう、阻むための場所だから。できるかぎり荒立てずに立ち去らせていたんだけど、うまくいかなくて時間が必要になるときもあってね」


 すうっと目を伏せる。黒目が見えなくなる。


「そんなものたちにとって、たまたま生まれたばかりのきれいな身体はとても惹かれるものだったのでしょう。目をつけ、弱るのを待って入り込んで、ひとの生を奪い、うつし身を得てしまった」


「あの子は……ひとの心がないと言ってた」


 そう、と言って、ふたたび目を開く。穏やかに微笑む。


「ずっとここに閉じ込められてるって言ってた」


 心は晴れない。

 あれがひとでないから、よくないものだから、ここに閉じ込めていたんじゃないか、と思った。


「本当は、逃がしちゃだめなんじゃないの」


 おずおずと訊ねる。声が違っていて、自分でしゃべっているような気がしない。

 身体を取り替えられて、別人になってしまった自分。取り返しがつかない。とんでもないことをしてしまったのかもしれない。


「この家はね、あの子が出て行けないように封じていたの」


 ひとは自由に出入りができるけれど、と語る声音は柔らかい。

「その身体はここで生まれて、死にかけた赤子から奪ったもの。ひとでないものが入り込んで動かしていたから、命が半分欠けていて出られないの」


 ひとの心が宿れば、ふつうになる。だから、あなたはここから出て行けるわ、とやさしくさとされる。


「逃がしたら、すごく悪いことが起こるんじゃないの? ぼくのお父さんやお母さんにもなにかするんじゃ……」


 だいじょうぶ、となだめる声には心がこもっている。

 「あの子はまだ幼いままで、力も弱いから家の中で好きなようにさせていたのよ。これからもきっと」


 だいじょうぶ、と再度繰り返した。あなたはやさしいのね、とも。


「それより」

 ふふ、と頭上で含み笑いが聞こえた。


「あなたにも悪いことばかりではなかったでしょう。気づいてるかしら」

「え……?」


 身体の違和感はあった。なにかが違う、と。

 じきに理由はわかった。

 それは、子どもがずっと望んで、望み続けても決して叶わないはずの願いだった。


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