冷たい。


 とてもつめたいものに包まれて、動けない。


 だいじょうぶ、とだれかが伝える声がした。

 小さな声。耳もとで、やさしくささやく。

 止まっていた心臓がひとつ、拍動する。小さく、弱く打ちはじめ、ゆっくりと規則正しく、やがて強くなっていく。

 こわがらないで、ほら、もうすぐ——


 

 ——あったかい。



 窓から射し込む明るい日差しを受け、座り込んでいるのに気づいた。太陽の熱が、冷え切った身体をゆるめてくれる。

 あんなに激しく、苦しいほどに鳴り響いていた鼓動が、いまはとてもゆっくりと脈打っているのが不思議なほどだった。


 左側へと目を向ける。

 真ん中が、ほんの少しだけ開いたふすまが視界に入る。


 部屋には自分以外、だれもいない。


 終わった……?


 両手を持ち上げる。目の前にかざして、事実に気づく。

 これは自分の手じゃない。


 服も入れ違っている。


 あれは——あれは、現実だった。

 ふらつく足取りで窓に近づくと、眼下に人影が走って行くのが見えた。


 自分だ、自分が駆け去って行く。


 まぶしい日差しを受け、開放された喜びをいっぱいに全身で表している。勢いよく両手で草むらをかき分け、明るい世界へと飛び出していく。

 はしゃいでいる。舗装された道路に踊り出る。駆ける姿が、大地に濃い影を作る。


 とても哀しくなって、目の前が透明に揺らめくのを感じた。


 少年の服を着た自分が、すごい早さで急坂を駆け下りていく。やがて坂の終わりの街並みに隠れて見えなくなった。

 かすかに聞こえる、遠ざかる足音。もう戻ってはこない。

 頬を伝う涙がとめどなくあふれて止まらない。

 あんなにも帰りたくないと思ったのに。


「とうとう逃がしてしまったわ」


 背後で声がして、はっとして振り返る。


「ずっと機会をうかがっていたから、しかたがないわね」


 少女のお母さんが部屋の入り口に立っていた。

 片手を頬に当て、残念そうに言う。


「このあたりにまだ、ひとがそんなに住んでいなかったころの話をしましょうか」


 きれいな顔をした女の人が、語りかける。

「あの子は、ずいぶん昔にここで生まれたの。生みの母親はすっかり弱り切っていて、しかたなく赤子を置いていった」


 昔はもっと鬱蒼うっそうとした森だったし、拓いた畑や湿地を縫って、このあたりは八十隈やそくま坂とも呼ばれていたから、と話し、こちらに近づいた。

 やわらかな物腰で、窓から外を眺める。


くま、は角のこと。たくさんの曲がり角があったから。坂を上がって、山の峰には峠があるものなの」


 子どもの隣に立ち、窓の外を指さす。坂の下から、指を蛇行させて上まで示し、この建物の玄関のあたりまで移動させる。



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