ふいに頭の中でひらめく感覚があった。心がない。


 ひと、の、こころ、が。

 気持ちが、感情が、ない。


 背中に冷たい汗が吹き出し、恐怖が衝き上げてくる。体の芯を震わせて、激しい揺らぎとなって広がる。

 声が出ない。喉が固まってしまっている。


「大声はだめ」


 少女の顔が笑みで歪む。作りものだ、と気づいた。真似ている。たやすくばれないように。巧妙に紛れこむために。

 しい、と唇の前で指を立て、もう片方の手で子どもの口を塞ぐ。


「気づかれる」


 来てくれてありがとう。待ってた。

 遠くで聞こえる声。


 動けない。


 ここから出ていけるのを待ってた。


 肺が空気を欲しがっているのに、細い呼吸だけでやっとだった。まばたきのたびに、目の前が暗くなる。

 心臓の鼓動が早鐘のように打つ。脈動とともに、世界が明滅する。細かい光がちらつき、視界が渦巻く闇で覆われていく。

 少女は子どもの胸を押し、仰向けに転がした。両手をつき、身体のうえに座り込む。


 背後にある四枚のふすま絵が目に入る。

 あれはどこの風景——?


 山と谷、つづら折りの峠、たくさんの木々。山から川が流れ、小さな船が浮かぶ。昔の……ここから見下ろす、人の世と、そして。

 少女の背後で、がたがたとふすまが鳴る。


「さわがしい、これはだれにもやらん」


 低い、太い声。とても少女が発するとは思えない。

 耳元に少女の顔が近づく。頬が触れる。氷のように冷たい。


「この肉はのものだ」


 言葉が鼓膜を震わす。揺れる。頭の中で反響する。

 ふすまが激しく騒ぎ立て、地響きとなって畳にも伝わる。


 ふいにぴたりと音が止まり、ゆるゆると真ん中の二枚が左右に動く。

 合わせ目が細く、開く。


 中は暗い。光が射さない。


 開いた内から、白い指が伸びる。子どもの指。

 ふすまの縁をつかみ、さらに闇が開かれていく。


 這い出てくる。姿がはっきりしない。青白く、半分透明なかたち。

 近づく、片手で身体を支え、前に進み、また片手を出して支える。


 少女は無表情にそのようすをながめ、やがて飽きたのか、小さな息を吐くと組み伏せた子どものほうへと顔を戻した。


 少女が小声で歌っているのが聞こえる。



 

 籠目 籠目 加護の中の鳥居は

 いつ いつ 出会う


 夜明けの番人

 つるっと亀がすべった



 後ろの少年 だあれ




 歌いながら、少女の黒い瞳が近づく。目の中の穴も近づく。

 吸い込まれる、飲み込まれてしまう。


 視界の端で、うずくまる幽霊の姿が見える。

 あれは——、だれ? あの少年はだれだろう。


 ふと、ふたりの子どもがあやとりをするようすが脳裏に浮かぶ。

 命をつまんで、ひっくり返す。

 身体をすくい上げて、裏返す。


 裏返る。


 そのとき、目の前がぐるりと回って、真っ暗になって、ついになにも見えなくなった。



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