少女の母が救急箱を持って、上がってきた。
見せてちょうだいな、と言われ、女の人のまえに座り込んだ。
膝小僧からすねにかけてできた擦り傷から、ぽつぽつと血が滲んでいる。脱脂綿をピンセットではさみ、消毒薬に浸してやさしく丁寧に拭いてくれる。
ちくちくした刺激に、子どもは顔をしかめた。
「これでおしまい」
と言って、絆創膏を貼ってくれ、立ち上がる。
こんなに人に温かく接してもらったのは久しぶりだった。涙ぐみそうになる。
「どうぞごゆっくりね」
子どものようすに気づいたのか、物柔らかな笑顔を向けてくれる。そのまま、階段を下りていく後ろ姿を無言で見送る。
遊ぶと言っても、なにをするでもなく少女に訊ねられるまま学校の授業内容を伝えた。
日頃の興味や休み時間になにをしているか。親しい友だちがいるわけでもない。話せることはすくなかった。
ランドセルから教科書を取り出して、勉強の進み具合を教えてあげた。
しばらくして、少女のお母さんがおやつを出してくれた。
いくつもの丸い白玉の上に、粒のある小豆餡がかかっている。手作りらしい。
つややかで、なめらかな餅の食感とちょうどよい甘みの餡。ひとくち食べたとたんに思い出した空腹は凄まじかった。
我慢できず、がっつき過ぎて喉に詰まりそうになる。
そのようすを見て、少女が心配そうな顔をして飲み物を差し出した。
適度な温度のお茶は、身に染みこむように美味しかった。
これも食べる? と少女のぶんのおやつまで差し出されて、断れる余裕などない。ただ腹が満たされるまで平らげた。
時間はあっという間に過ぎ去った。早めの時刻に夕食が用意され、そのままごちそうになってしまった。
窓の外は日没の時刻をむかえ、坂の下の家並みはやがて夕映えから宵闇へと沈んでいった。夜の街に、たくさんの明かりが
外で活動していた人たちは、それぞれの温かな居場所へと帰っていく。
食後、居間で少女に勉強を教えた。
部屋のなかは暖色の電灯光に包まれて、穏やかな時間が流れる。ここはじぶんの居場所ではないと思うと、小さな針でつつかれるように胸が痛んだ。
どんなに心地がよくても、いつまでも居座れない。流しで食器を洗う女の人の後ろ姿をながめる。
柱の時計を確認する。さすがに帰り支度をしないとまずい。テーブルに広げた教科書をランドセルにしまい始める。
少女と母親は、揃って玄関口まで子どもを見送ってくれた。
靴を履いて、向き直る。帰りたくないなと思う心を見透かされたのか、「また来てね」「またいらっしゃいね」と声をかけられ、名残惜しそうに微笑むのを見た。
ひとつ、ぺこりと頭を下げる。引き戸の外に出ると、溢れ出しそうになる涙をこらえて草むらをかき分け、暗い夜道を走った。
自宅にたどり着いたのは八時前だった。
玄関には鍵がかかっていたが、庭に回ると裏手の掃き出し窓が開いていて、そこから室内に入った。
着替えずに布団に潜り込み、夢も見ずに朝を迎えた。関心がないのか、両親はなにも言わない。
怒られずにすんだのには安堵した。
この家には自分の無事を気にする者がいない。その事実を思い知り、さみしさが募る。
それでも心安まる新しい場所を探し当てたという事実は、子どもにとって大きな救いとなった。浮き立つような思いは、一日を生きのびるのにじゅうぶんな希望になる。
あれほど気重だった学校の帰りが待ち遠しくなった。
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