第7話
遠藤美奈子の一回目の予約は月曜の午前十時だった。彼女は十時十分前には教室に到着して、緊張した面持ちで、受付嬢姿の内田かおるが入れた紅茶を味わっていた。健一は奥のブースから美奈子の様子をこっそり観察していた。
今日はベージュのジャケットとスカートで化粧気はない。白いソファーに浅く座って背筋を伸ばし、紅茶をすすっているが呼吸は浅く早い。かなり、少しナーバスになっているようだ。
健一は自分もつられて呼吸が浅くなっているのに気づいて、ゆっくり息を吐いて気持を落ち着けた。
(だいじょうぶ、だいじょうぶ。なんとかなる、なんとかなる)
宇宙人の箱がエネルギーの源泉だと知っている健一は、実は教室でのワーク内容については、きちんと計画を立てていないのだ。能力をアップしたい人が求めているのは、たいがい、学力・仕事の能力・恋愛力のどれかに当てはまるだろうと考えていた。具体的に学力を上げたいなら、家庭教師の経験を生かして学力サポートを、仕事と恋愛については、今あるノウハウで臨機応変に対応するつもりだ。
健一は大学の四年間、小学生から高校生までさまざまな子どもの家庭教師のアルバイトをしていたし、社会人になってからは、営業成績を上げるために心理学のセミナーや人脈作りのための交流会などたくさんのセミナーに参加してきた。それは健一の会社の方針でもあったが、健一自身も社外の人と話すのが楽しく、自費で参加したセミナーも多い。あの「もみもみ」の上島社長とも、とある起業セミナー知り合って仕事をもらうようになったのだ。上島社長は上島工業の二代目というだけでなく、果敢に新しいことにチャレンジする若手起業家として有名な人物で、そのセミナーには講師として招かれていたのだった。
教室では内田かおるが、遠藤美奈子をリラクボックスに案内していた。壁に映っているのは体験のときは宇宙の映像だったが、今回はヨーロッパの美しい田園風景に変えてある。明るい映像で安心してもらう狙いだ。
五分後、ブースから出てきた遠藤美奈子は、明らかにリラックスして、なおかつ元気になったようだ。肩の力が抜けて、身体もひとまわり大きくなったように見える。健一は自然に笑顔になった。この箱はやっぱりすごいんだ!
その瞬間、今日のセッションの内容が決まった。健一は隠れていたブースからさっそうと姿を現し、さわやかな笑顔を見せた。
「遠藤さん、おはようございます。こちらのお部屋にどうぞ」
その頃、いつもの公園に、見慣れない人物が現れた。
黒いボブカットの髪、紺色のビジネススーツに身を包み、公園内をゆっくり一周したあと、以前巣箱が置いてあったベンチに座った。頭上に伸びた木の枝から、小鳥のさえずりが聞こえる。しばらく座っていると、どこからかカラスが一羽、女性の目の前に降りたって、何か探すそぶりで地面を歩き始めた。女性がバッグから何かを取り出して地面に撒いた。すると鳩たちがやってきて、カラスを蹴散らす勢いで食べ始めた。追いやられたカラスは飛び上がって木の枝に止まり、しばらくそうしていたがやがてどこかへ飛んでいった。
女性の姿はいつのまにか、消えていた。
(遠藤美奈子の話)
とにかく、この一年をどう過ごすかで博樹の一生が決まるんです。
なのに、あの子にはそのことが全然分かっていないんです。
あの子だけじゃありません。主人も、主人の両親も、まだ子どもなんだからそんなに勉強させなくてもなんて。でもね先生、このまま公立の中学校なんか行かせてしまったら、あの子の人生は台なしです。噂では地元の中学校にはいじめもあるんですって。それに、公立では授業が下手な先生がいても誰も首にしてくれないんでしょ。もしそんな下手な先生に当たってしまったらどうしたらいいんです?それに、うちの子はスポーツが苦手なのにいい高校に進学するには運動部にいないといけないんですって。そのうえ、学級委員や生徒会の役員をやってポイントを上げないと、一流高校には受からないらしいんです。でもそういうのって、本人の努力だけではダメでしょう?今の子は勉強より、人気のある子に投票するっていうし。博樹はそういうタイプじゃないのに、どうしたらいいのか…。だからね、先生、そんな無駄な苦労をさせるくらいなら、今、多少無理させてでも、ちゃんと教育してくれる伝統のある中高一貫校に入れてやりたいと思うのは、おかしいですか?ねえ、おかしいですか、私?
そうですよね、おかしくなんかないですよね。
え?もしこのまま私立に受からなくて、公立に進むしかなくなったらどうするか、ですか? ええ…そんな…(無言)
あ、すみません(ティッシュを受け取り涙を拭く)
そうですね、私が恐れているのは、あの子がいじめられたり、妨害されて思うように勉強ができなくて、せっかく持っている才能がダメになってしまうことです。中学校でそんなふうに伸びる芽を摘まれたら、高校も一流のところへは入れないし、その先の大学も一流のところには入れませんよね。いい大学を出ていれば、一流企業に就職するチャンスもあるけど、そうじゃなかったら、ろくな会社に入れないじゃないですか。私はあの子にそんなみじめな人生を送らせるわけにはいかないんですよ。
わかっていただけました?
最高にうまく行った場合ですか?それはもちろん、名門の桜山学園の中等部に合格して、頭が良くて上品なお友だちができて、落ち着いた環境でしっかり勉強をして、高校を卒業する時は学校推薦で早稲田か慶応に進学して、就職は本人の好み次第だけど、やっぱり公務員か、銀行かしらね。東大や京大ですか?本人の出来が良ければそれもいいけど、研究者になるのでなければ私大でもいいかな、と思います。あ、それでも公務員は東大出身じゃないと出世できないとか、あるんですよね?男の子は大変ですね、出世もしていかないと、お嫁さんをもらうのも大変ですしね。
お嫁さんについてですか?そうですねえ、本人同士がよければどなたでも…ただやっぱり、あんまり、なんて言うんでしょう、下品な感じの子は困りますね。かといってあまりにお嬢様でも、困りますね。ちゃんと節約して、博樹のために家庭を守ってくれる人でないとね。
そんな女の人、今どきいない?…そうかもしれませんね、私たちの時はそういうふうに小さい頃からしつけられて育ったものですけどね。お勤めの帰りにはお茶やお花やお料理を習って花嫁修業をしたものですが、今の若い方はあんまりそういう、教養を身につけるようなことはしないで、男の人と張り合ってお仕事をしたり、お酒を飲んだりするんでしょうね。私には理解できません。女の人が仕事だなんて。最近では自分で会社を作る女の人もいるんですってね。まあ、女だてらにそんなことをしてると、ちゃんとした男の人には相手にされなくなりますよ。男の人は、自分より能力がある女性を奥さんには選びませんから。
主婦の暮らしですか?楽しいかどうかなんて、考えたこともありません。それは女の義務ですから。そうです、子どもの教育も母親の仕事です。先生、あの子のやる気をどうか、引き出してやってください、お願いします。
博樹が結婚して独立したらですか?そんな先のことは。今考えても仕方がありませんし。…ああ、そうですね、東京の大学に進学したら離れて生活することになりますね。え?あと七年?…そうですね。私はその時、四十二歳です。四十二歳の自分ですか?子育てが終わったら、そうですね、どうしましょうか。何か趣味でも見つけて、のんびり余生を過ごすんでしょうね。
二時間後。遠藤美奈子は一回目のセッションを終えて帰って行き、健一と受付嬢姿の内田かおるはドアに「昼休憩中、隣にいます」と書いたホワイトボードをぶらさげて、隣の喫茶店へ昼食を食べに出かけた。今日の日替わりランチは焼き肉定食である。
「遠藤さん、ずーっとしゃべってたね」
「最初はとにかく話をしてもらって、その中からヒントを見つけようと思ったんだ」
「どんなこと言ってた?」
「がんばって勉強して就職して出世するのが良い人生で、博樹君にもそういう人生を歩かせたいんだって。まあ、誰でも大なり小なり、そう思ってるよね。」
「そうなの?あたしにはよく分かんないけど。ほら、あたしって宇宙人だからさ、あはは」
「あははじゃねえよ。」
「で、これからどうするの?」
「それはまた、次に来たときに考えるよ。あの人は自分自身がすごくまじめに良妻賢母をしてるんだ。それがただひとつの生き方だと思い込んで、それ以外の生き方はダメだと思ってるところが勘違いポイントだから、最後にはそこんとこに気づいてくれるといいけど、気づかなくてもいいかな」
「なにその適当な」
「だってそうだろ?その人の人生はその人が選ぶものだから」
「健一って時々そういう悟ったヒトみたいなこと言うね」
「健一って呼び捨てすな」
「はい、所長」
「ところでお前、最近持ち物が派手じゃない?その財布も作ったのか?器用なもんだな」
「あ、これは駅の上のお店で買った」
「えっ」
健一はテーブルに置かれたエナメルの長財布を見直した。LとVを組み合わせた有名なロゴマークが型押しされている。
「ち、ちょっと待て、もしかして駅の上の店って伊勢丹のこと?」
「えっとー、よく分かんない。バッグや服も買いたかったけど、いっぱいあって選べないから、とりあえずお財布だけにしたの」
「しまった、いつの間に…。ねえ、一応聞くけど、買うときお金を払った?」
「もちろん。」
「そのお金まさか…作ったりしてない、よね?」
「うん。持って行ったお金で足りたから、作るのはやめた」
「ああ、よかった…」と健一は胸をなで下ろした。宇宙人内田かおるは追加でオーダーしたプリンのカップを引き寄せた。プリンの上でホイップクリームと長財布と同じ色の缶詰のさくらんぼが揺れている。
「…ってことはなに?そのお金はどこから持ってったの!」健一ははっと気がついて内田かおるが今まさに食べようとしたプリンを引き寄せる。
「あ、あたしのプリン!…お金はレジにあったから持ってったのよ」
「えええ…それってこの間、遠藤さんが前払いしていった親子ふたり分のお金だよね、うっわぁ…」
「ごめん、使っちゃいけなかった?じゃあ、今度からは自分で作るね」
「待て!使うのもダメだけど、作るのはもっとダメだ」
健一は声を潜めて、自分で作ったお金でものを買うのは、地球ではとても重い罪になるのだということを、言って聞かせた。
「それから、お客さんからもらったお金はちゃんと帳簿につけて、税務署というところに提出しないといけないんだ。君が勝手に使うとわけがわからなくなっちゃうでしょ。だから、何か買いたいときはまずぼくに言ってね。」
「わかった。」
内田かおるはけろっとした顔で、取り返したプリンの皿からさくらんぼを取ってまるごと口に放り込んだと思ったらカリカリかみ砕いて飲み込んだ。
「うん。おいしい」
「…」
健一は頭をかかえた。宇宙人の世話は思ったより大変だ。
その頃、遠藤美奈子は息子の博樹のために遅い夕食を用意していた。
夕方、軽く夕食を食べさせてから、進学塾へ行かせるのだが、帰宅後にも消化の良いものを軽く食べさせている。成長期の子どもにはタンパク質をたくさん取らせないといけないと、以前受講した栄養教室で言われた。
夫はサラリーマンだが出張が多く、今日も東南アジアの工場へ技術指導に行くとかで先週から不在である。だが美奈子にはそれが普通なので、特に不満はない。それより、彼女の「仕事」である子育てがうまくいかないのが悩みなのだ。
身体が小さく運動もできない博樹がこのまま地元の公立中学に進んだら、と思うと美奈子はぞっとする。地元の中学校はここ数年荒れていて、金髪にピアスでおかしな学生服を着た子どもたちが、真っ昼間からたばこを吸ったり、コンビニの前でたむろする姿を美奈子も見かけている。一度など、コンビニから通報を受けたのだろう、学校の教師が彼らを連れ戻しに来たのを見たことがある。教師は叱りもせずに、作り笑いを浮かべて、子どもたちに近づき、うるせぇとか、うぜえとか言われ放題に言われていた。教師ですらこんなありさまなのに、うちの子なんか太刀打ちできるわけがない。私立の学校に何がなんでも行かせなくては。私立の学校ならそういう問題児は退学させてくれるから。
「大学進学に有利だとか、そういうことより、私の目の届かないところで博樹が乱暴されたりいじめられたりすると思うと耐えられないんだわ」
そうだ。私には博樹しかいないんだから、博樹を大事にしてくれる学校、大事にしてくれる会社、大事にしてくれるお嫁さんを探すのが私の勤めだわ。と美奈子は思うのだ。
一方、息子の博樹はそんな母親の干渉がうるさくて、うっとうしくて仕方がない。母親ががみがみ言い始めると、自分が「ぱん」と破裂してしまうのではないかと思う時があった。思い切り言い返せればすっきりするかもしれない。
実は、博樹は学校の勉強で分からないことなどひとつもなかったし、五年生の時から通っているこうま進学塾で渡された受験用の問題集も、楽しんで解いていた。私立中学校の過去問題を見ると、同じ教科でも学校によって出題傾向が違うし、求めている解き方からどういう能力を見ようとしているのか考えたりするのも面白かった。
学力で言えば今の学校で自分が一番進んでいるだろうと、博樹は思っている。しかし、博樹が見るところ学年で一、二人は、博樹と同じように進学塾に通いって過去問題を勉強すれば、もしかしたら博樹よりもっとユニークな答えを考えついたりあるいはもっと速く解き方がひらめくようなタイプのやつもいる。自分はみんなよりちょっと早くスタートしただけで、ほんとうに一番優秀かどうかは分からないと思う。
それに、子どもの世界は学力だけではできていない。運動ができるやつもいれば、しゃべりが達者でいつもみんなを笑わせるやつもいる。そういう目立つことはしないけど、そこにいるだけで何か気になって、つい「どう思う」とかって意見を聞きたくなっちゃう不思議な人間もいる。一番になる方法はなにも、勉強だけじゃない。
博樹は今いる学校が、けっこう好きなのだ。
身長はたしかに一番低いのだが、今のところ意味なくいじめられたことはない。かあさんは、中学に行くと絶対にいじめられるとか、不良になぐられるとか言うけど、そんなことがあるだろうか。もし仮にそんなことが起きても、ぼくが泣き寝入りなんかするわけがないのに。かあさんは、ぼくのことを置物か人形みたいに思っているんだろう。
ぼくは何も、私立中学に絶対行きたくないというわけじゃない。行けば行ったでまた面白い友だちとも出会うだろう。
ただ、ぼくはかあさんの言うなりになるのがいやなんだ。
今、言うなりになったら、次もその次も、何かを選択する時はいつもかあさんが口を出し、かあさんの言うようにされてしまいそうで、それが怖いんだ。
「だから先生、ぼく勉強は好きで問題も解けるけどわざとやらなかったんです。だってそのまま優等生だったら、あれよあれよという間にかあさんのペースになっちゃうと思ったから」
「そうだったのか。でもその気持、お母さんに直接言った方が、早いんじゃないの」
博樹の最初のワークは、リラクボックスに入ったあとは隣の喫茶店でやることにした。健一はアイスコーヒーを飲みたかったし、博樹だって、アイスクリームを食べながらのほうが、話しやすいと思ったからだ。小学生と話すのは大学生時代に家庭教師をしていた時以来だった。男の子は自分のことを話したがらないので、うまく話が聞けるか心配していたが、予想に反して博樹は自分からどんどん話してくれた。彼は長いこと、こうして話を聞いてくれる大人を探していたのかもしれない。
「かあさんには言ってもムダです。聞く耳がないんだもん。それにぼくが言いたいことって結局、かあさんの言うとおりにはしたくないってことでしょ。それってかあさんから、生き甲斐を取り上げるのと同じことなんだ。だってかあさん、ぼくをああしよう、こうしようって、毎日それしか考えてないんだから。」
「ははぁ。なるほど」
「でもって、ほら、父さんもたまにしか帰って来ないでしょ。だから、母さんの暴走を止める人がいなくて困るんです。先生、かあさんがぼくに干渉するのをやめさせてください、そしたらぼく、すぐにでも優等生に戻るから。お願いします」
博樹は完食したアイスクリームのカップ越しに、健一に頭を下げた。
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