第6話
オープンは五月二十一日の大安の日を選んだ。
からりと晴れたさわやかな日だった。健一は入り口の前に立って『能力開発教室ミラクルボックス』という看板を見上げた。満ち足りたような、誇らしいような、かつて経験したことのない気持がわきあがった。
(もしかしておれ、いま幸せな気持かも)
エステサロンだった頃に比べると多少オシャレ度が下がった気はするが、その分、入りやすい雰囲気のエントランスになったのではないかと思う。手回し良くウエシマックスとオフィスK、それに健一の勤め先からも胡蝶蘭の鉢植が届いて教室の受付を華やかに飾った。
朝夕のラッシュ時に、健一と宇宙人内田かおるはふたりして小島さんにデザインしてもらったチラシを配った。
昼休みと終業後には、健一が取引先に配った無料体験チケットを持った連中がぞろぞろと訪れてはリラクボックスを体験した。本当のところ、明らかな効果を持つのはリラクボックスと名付けた防音ブースの内側に置かれた木製の巣箱に仕込まれた宇宙エネルギーであって、その他のことはおまけのようなものである。無料体験でじゅうぶんに、それなりの効果が現れるはずだった。健一はやってくる人たちに笑顔で挨拶し、世間話をするだけなので、気楽なものだった。
オープンから一週間は、健一が取引先に配った無料体験チケットで、ぞろぞろ客がやってきたため、毎日がにぎやかだった。しかし十日もたとつぱったりと客足が途絶えた。無料体験した客からの口コミでどんどん新しい客が来るかと思ったが、そううまくはいかないようだ。ふたりはしかたなく、店の前でチラシを配り始めた。
「こんにちは~、無料チケットです」
「ただいまオープン記念キャンペーン中です、よかったら…」
健一とミニスカギャル姿の内田かおるは駅前交差点の北西角。教室の前の舗道でチラシを配っていた。こういう時、宇宙人は便利だ。男性の多い朝夕の通勤ラッシュ時間帯にはミニスカートのギャルになって驚異的なチラシ手渡し率をたたき出し、女性買い物客が多い昼間には健一によく似た若い男性に変身して、とおりすがりのおばちゃんに人気だ。
「あら?あなたたちよく似てるわね、兄弟?」
「ええ、ぼくたち双子なんです。あちらが兄でぼくが弟。おにいちゃーん」と大声で健一を呼んで手を振ったりする仕草が可愛いというので、中高年の女性たちは大喜びである。ふたりきりになるとかおるは図に乗って、
「おにいちゃん、お客さん来ないね。あのまま公園に置いといたほうが早かったんじゃないかな。ねえ、ぼくが今から行って置いてくるから、箱、ちょうだい」
などと言ってくるが、箱は絶対に渡さない。宇宙人が持ってきた木箱は防音のリラクボックスの中に金具で止めて、大きな南京錠がかけてある。その南京錠の鍵は健一が常時身につけている。宇宙人の技術力とやらを使えば南京錠くらい開けられるんじゃないかと思うが、今のところ、内田かおるが隠れたパワーを発揮する様子はない。それどころか彼(または彼女)はいろんな姿で健一の知人友人に会うのが楽しいようで、ときどき、健一が予想もしない姿になっていて、度肝を抜かれる。昨日も、店の中を白い野良猫がうろうろしていたので「しっ、しっ」と蹴って追い出そうとしたら猫がきっとにらみ返して「ちょっと乱暴はやめてよね」と言ったので驚いてひっくり返りそうになるという出来事があった。
そんなことがあったので、夕方、オフィスKにいく途中で公園を通り抜けていたとき、白い猫とランドセルを背負った小学生の男の子がまるでふたりの人間みたいに同じ方向を向いて座っているのを見た時、「宇宙人と人間の子どもがしゃべってるぜ」と思ってしまった健一である。
「いやいや、宇宙人はそんなにあちこちにいないから」
と自分で妄想を否定したが、実際、宇宙人があんなに変身がうまいなら、地下鉄の車両まるごと宇宙人でもおかしくないな、と思えてくる。あるいは、今頭上を飛んでいったスズメが宇宙人ということもあり得る。普段はなにげなくまわりはみんな人間や地球の動物だと思い込んでいるだけで。
オフィスKのドアを開けると気のせいか、以前より賑やかになったような気がした。
入り口脇のミーティングブースで何かの打ち合わせ中の小島さんがいた。健一が奥を指さして「あ・と・で」と声を出さずに言うと、小島さんは笑顔で応えた。小島さんに集客の相談という名目で来たのだが、ほんとうはただ会って話しをしたいだけかも。
短い廊下を通って制作室に入ると、なにやらみんなニコニコしているので
「何かいいことがあったんですか」
と聞いたが、特に何かがあったわけではないようだ。(もしかしてみんな宇宙人になっちゃったんじゃないのか?)という考えが一瞬浮かんだが(いやいや、そんなわけない、落ち着け、おれ)と、振り払った。
きょろきょろしている健一に、オフィスKの井上社長が一番奥のデスクから手を振った。今日はベージュのチノパンに若草色のコットンのジャケットという若作りのいでたちだ。
「健一君。ひさしぶりだね、どう、教室の調子は」
と笑顔で立ち上がったが、健一の表情を見て
「あれ…元気がないね。ちょっとちょっと、こっちで話し聞かせてよ」
とコーヒーカウンターを指さした。それは制作室の片隅のコーヒーメーカーを置いたテーブルセットで、スタッフが息抜きにデスクを離れて、自由に飲食できる場所になっている。オフィスKではスタッフがそれぞれの制作に集中できるように、飲物のサービスは原則セルフサービスということになっている。社長の井上も例外ではなく、自ら立ってコーヒーを入れてくれた。と言っても小さな容器に入ったコーヒー豆をセットしてボタンを押すだけの操作なのだが。
「時々、教室の前を通るんだけど、賑やかじゃない」
「それが、無料券の客が一巡したらあとはさっぱりなんですよ。毎日ビラ配りで日焼けしちゃいました」と健一が笑って言うと
「まだ始まったばかりだからね、焦らずどっしり構えてるのがいいよ」と井上は励ました。
「スタッフ、増やしたんですか?」
健一は制作室を見渡して、尋ねた。前に来たときと机の配置が少し変わって、向こうの壁際に新しい島ができて、見たことのない男性スタッフが数人、モニターに見入っている。
「そうなんだ。今までは片手間だったWEBを本格的にやることになってね、スタッフを増員したんだよ。プログラマーなんだ。なかなか、デザインだけっていうわけにはいかなくてね。」
と言いつつ、井上は楽しそうだ。もともと井上はコンピューター技術者で、自動車関連の精密器機の会社で働いている頃に、上島工業の創業者、上島浩一の父親である上島宗一郎に見込まれ、紆余曲折を経てこのデザイン事務所を起業したらしい。本来は今やっているような印刷物ではなく、立体物のデザインと設計が専門だったと井上本人から聞いたことがある。
「ところで小耳にはさんだんだけど」と井上は声をひそめて「教室のオープン費用、副社長に出してもらったんだって?」
副社長とは上島浩一のことだ。上島工業の取引先では社長といえば創業者の上島宗一郎を指し、浩一はまだ副社長ある。健一のように上島浩一のことを社長と呼ぶのは、新会社のウエシマックスができてから浩一とつきあい始めた若い者たちに限られているのだった。
「うちで作った君のところのチラシやパンフレット一式ね、ウエシマックスあてに請求してくれって、浩一さんから電話が入ったよ。そういうことなら遠慮なく請求させてもらうけど、それでいい?」
もしこれが健一のポケットマネーから出るなら安くしておくつもりだった、という意味合いである。
「あ、でも、利益が出たら返済する予定なので、お値段はそこそこでお願いします」と健一が言うと、井上社長は顔を曇らせた。
「そうなの?じゃあ借りてる感じ?」
「そうですね」
「お金のことだけはちゃんとしといたほうがいいよ。いくら借りていつ返すとか、たとえ少しの金額でも、ちゃんと書面作ってさ」
「…そうですね」
書面などどう作ったらいいのか見当もつかなかったが、心配してくれる井上社長の気持ちがうれしかった。
「教室、暇そうなら、ぼくも近いうちに体験させてもらおうかな」
「はい、いつでもどうぞ、お待ちしていますから」
打ち合わせを終わって戻ってきた小島さんと入れ違いに、井上は席を立った。井上社長が小島さんを教室専属スタッフということで、販促物制作以外でもなんでも協力するように言ってくれたおかげで、こうして運営方法や集客までなんでも相談に乗ってもらっている。井上社長も、上島社長も、そして健一が勤める中央エージェンシーの社長もみんな、申し訳ないくらいに協力してくれている。健一は今までの人生でこんなにも人に助けてもらった経験はなかった。みんなの期待を裏切らないように、どんな努力も惜しまず絶対に教室を成功させると、健一は決意を新たにするのだった。
健一と小島さんがミーティングをしている頃、公園のベンチでは白猫に化けた内田かおるとランドセルを背負った少年が顔を寄せ合っていたが、やがて、少年が立ち上がった。
「なるべく早く、かあさんを連れていくからね。ぼくも楽しみだよ」
少年は猫に向かってそう言うと、手を振って公園を出て行った。白猫は少年を見送ったのち、植え込みの下に消えていった。
その週末。公園にいたランドセルの少年が母親に連れられてやってきた。
入り口のドアがあいて、一瞬、外の喧噪が流れ込んできたとき、健一と宇宙人は連日のチラシ配りにも飽きて、ソファーにだらしなく座って暇をもてあましていたしていたので、あわてて立ち上がった。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは中年の女性で、ランドセルを背負った小学生の男の子の手を引いている。
「あの…こちらのチラシを見たのですが、ちょっとお話を聞かせてもらいたいと思いまして」
中年女性は硬い表情で健一とかおるを見た。
かおるがぶるぶるっと震えるのが分かったので、健一はかおるに小声で
「裏でお茶を用意してきて」
と言った。こんなところでいきなり透明になったりしてもらっては困るのだ。
「もちろんです。どうぞこちらへ」
健一は笑顔でふたりを窓際のソファーに案内した。女性は店内を見回しながらソファーに座った。セミロングの髪で中肉中背、地味な茶色のワンピースを着て、化粧は最小限。あらゆる角度から「無難」を表現したらこうなるという、平凡を絵に描いたような人物に見えた。子どものほうは目を伏せたまま動こうとしなかったが、母親に
「ひろき、こっちに座りなさい」
と言われると素直に従った。大きな黒縁の眼鏡がアンバランスな印象だ。
「ご相談は、こちらのお子さんの件で?」
健一は単刀直入に尋ねた。母親はうなづいて
「ええ、この子のことです。この子は来年私立中学の受験なんですが、今からこの教室に通ったら、受験に間に合うでしょうか」
母親の目は真剣で、追い詰められたような余裕のない表情をしている。健一はワクワクしてきた。
「この教室ではその子の持つ能力を最大に引き出すことを目的としておりますので、勉強が得意な子は勉強を、運動が得意な子は運動を、そして得意なことが見つからない子にはそれを見つけるお手伝いをさせていただきます。」健一は用意したパンフレットを差し出した。「理論的な解説はこちらに書いてございますが、百聞は一見にしかず。幸い、今ならオープン記念で無料コースを体験していただけますので、よかったらぜひ。」
タイミングよく奥から宇宙人の内田かおるが現れた。さっきの受付嬢ではなく、紺色のスーツを着た頭の良さそうな女性になりすましている。教師バージョンのつもりだろう。かおるは、遠藤と名乗った母親を奥に案内した。
「ではまずお母様から体験していただきましょうね。この、最初に行うリラクゼーションのプロセスがうちの特徴でして、まずはその感覚をお母様ご自身に確かめていただいたうえで、お子様に向いているかどうか、相談いたしましょう」
内田かおるの落ち着いた声色に母親の表情も少し和らいだようだ。子どもを待合室に残して、リラクゼーションブースに入っていった。残った子どもはたいくつそうに足をぶらぶらさせていた。
数分後、かおるに導かれてブースから出てきた母親は、頬に血の気が戻り、十歳若返ったようだ。その変わり方に健一は驚いた。
「遠藤様、いかがでしたか?」
「ええ、なんだかとても…すっきりした気分です。不思議ですね、何も見ていないのに」
「ええ、意外と何もない暗闇というのは、現代の暮らしの中になくなっているんですよ。夜中でもどこかから明かりや騒音が入ってきているので、脳は二十四時間、休む暇がないんです。ほんの数分でもこうして強制的に刺激から開放することで、脳は本来の力を取り戻す、というのがうちの能力開発の理論なのですよ」健一は、まるで自分がそれを開発したかのような、自信満々の笑顔を母親に向けた。内田かおるが少年に声をかけた。
「じゃあ、ひろき君も体験してみようか。こちらへどうぞ」
少年は素直にソファーから降りると、内田かおるについて奥のブースに入って行った。健一は受付カウンターから真新しいフォルダを取り出すと、母親のヒアリングを始めた。
子どもの名前は遠藤博樹、母親は美奈子。博樹は小さく見えたが六年生で、来年の中学受験を控えて、同じビルの五階にある「こうま進学塾」に通っていた。「こうま進学塾」は最近勢いをつけはじめた進学塾で、個別指導に定評がある。
「こうま進学塾には五年生の夏期講習から通わせていまして、今年の春休みには合宿にも参加させましたのに、先日の模擬試験の結果は最低で、先生がおっしゃるには、受験どころか、小学校の授業内容すらよく理解できていないのではないかというんです。本人は、ちゃんと分かってるから大丈夫としか言わないのですが、こんなことではとても私立中学には入れそうにありませんし、もう私、どうしたらいいのか…」
「まずはお母さん自身が気持を落ち着かせることです。子どもは感受性が豊かなので、お母さんの精神状態に影響されやすいんですよ。お母さんご自身が何ごとにも自信を持って、安心して暮らしていることが、まずは大切です。その上で、博樹君の学習に問題があるようなら、それを改善しましょう。大事なのは焦らないこと、パニックにならないこと。自分の不安に振り回されずに、コントロールできるようになることです。分かりますか?」
「ええ、なんとなく、落ち着いてきました。」
「お子さんの学習能力を高めるのに、なぜ親御さんが教室に通うのか、とよくご質問をいただくのですが、実は、お子さんが小さければ小さいほど、身近な大人が変わったほうが早く効果が現れるのです。もっと言えば、お子さんにどれだけ働きかけても、まわりの大人が変わらなかったら、彼ひとりで変わるということは、難しいのです。それくらい、子どもというのはまわりの大人から影響を受けて存在しているんですよ」
「分かりました、先生、ぜひこの教室に通わせてください」
予想したとおり、母親はすぐに落ち着きを取り戻すと同時に、すっかり警戒心を解いていた。あの箱の効果はこうして現れるのだ、と健一は確信した。
「おまかせください。では、お母さんと博樹君に合わせたメニューを作成させてもらいます。ええと?美奈子さんおひとりの場合、何曜日の何時くらいなら来られますか?」
健一はフォルダにはさんだシートに美奈子から聞き取った情報を書き込んでいった。
「お勧めのコースは、基本の三回コース五万二千円です。ただいまオープン記念で入会費は無料で、さらに中学生以下のお子様は三割引でご利用いただけます。目に見えた効果を上げるにはやはり、おふたりとも受講いただくといいかな、と思います。三回のカウンセリングを行う中でさらにサポートが必要だったり、あるいはもう少し通いたいというご要望がありましたら新たなコースをご提案しますが、多分、三回通えばかなり変化があるはずですので、様子を見ながら考えるのが良いかと思います」
「そうですか、じゃあその三回コースでお願いします。博樹も、いいわね」
母親は子どもを振り返った。ブースから出てきた博樹は、何も言わずにうなづいた。高額な費用はまったく問題ではないようだ。すでに通っている「こうま進学塾」はもっと高額なので、免疫ができているのかもしれない。チャリン!健一の頭の中に、お金が鳴る音がした。
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