第5話
それでも、金曜の夜に仕事が終わり次第新幹線で帰省することを決めると、それまでの数日にやるべきことが自然にリストアップできた。
1.店舗の賃貸契約
2.営業内容と名称の決定
3.店舗の内装と看板発注
4.スタッフの確保と教育
5.販促物の制作
すべきことが決まると、自動的に課題も明確になる。
今回の場合、明らかに問題なのは、健一が副業をすることが可能かどうか、そして健一の貯金で初期費用がまかなえるかどうかという、その二点だった。
その夜、終電で自分のワンルームマンションに戻った健一は、缶ビールを飲みながら銀行通帳とにらめっこをしていた。
通帳にたまった貯金はようやく百万円に届くかどうかという金額で、店を借りて内装を整えたらあらかたなくなってしまいそうだ。スタッフを何人雇うかにもよるが、人件費や光熱費として半年分くらいは確保しておきたいところだ。
会社の勤めをどうするかも問題だった。できればしばらく休職したいくらいだが、副業のために休職など言い出せる雰囲気でもない。それに、実家の状況もゆゆしき問題だ。万が一、実家を継ぐようなことにでもなれば、副業どころではなくなる。しかし今ならまだ、半年や一年なら時間があるかもしれない。考えようによっては、これは人生の中で、短期間にまとまったカネを稼げる唯一のチャンスかもしれない、とも思うのだった。
ところが翌日、ふたつの課題があっさり解決した。
まず一つ目の解決策は午前中にやってきた。「もみもみ」の上島社長が会社に現れて、教室の開設費用はおれが出そう、と言ったのだ。
「ええっ!」
前夜の寝不足でぼんやりしていた健一は、そのひと言で目が覚めた。
上島社長は朝からハイテンションで
「昨日のあの話、すごく面白いと思うんだ。うちが始めるリラクゼーションサロンの参考にもなるしね。オープン費用くらいは出すからすぐに始めなさいよ。」
「いや、そんな、いくらなんでもお金を出していただくなんて…」
「とりあえず百万くらいあればスタートできるだろ?利益が上がったら返してくれればいいから、遠慮せずにさ。」
「はぁ…」
「あと、もうひとつ。君を教室専属で出向させてくれるように、社長に頼んでおくから。ここだけの話だけど…」上島社長は声をひそめた。「君んとこの社長もウエシマックスの株主なんだ。おれたちけっこう本腰を入れてるんだよ」
「ええええっ!」
その上島社長の言葉どおり、健一は昼過ぎに社長室に呼ばれた。
社長室と言っても、フロアの奥のほうにあるガラス張りのコーナーに過ぎないのだが、呼ばれて入るのはもしかしたら新人研修以来かもしれなかった。
「上島君から話は聞いたよ。すごいじゃないか。君ができる男だということは知っていたが、こんなにビジネスセンスがあるとは思わなかったよ。期待しているから、がんばってくれたまえ。」
中央エージェンシーの社長はまだ四十代だが、真宗大谷派の僧侶でもあるという変わり種だ。名前は高橋兼覚という。なんでも実家が寺で、ゴールデンウィークなどは父親を助けて袈裟を着てお経をあげにいくらしい。
「ありがとうございます、社長。でも実はこの教室、一年くらいしか続けられない事情がありまして…」
「ああ、辻村君から聞いたよ。お父さんが倒れたそうだね。もしかして実家に帰らないといけないのか?そうなるとこれは会社にとっても大きな損失だな…。でもまあ、まだすぐに帰ると決まったわけじゃないんだろう?」
「はあ…」社長は早とちりをしているようだ。
「まあ、そうなったらそうなった時だ。先のことをあれこれ心配していたら、新しいことなんかなにひとつ始められないから。なに、若いうちはなんでも順調にいくより、失敗するくらいのほうが、ためになるんだ」
社長はそう言って、まあ、まかせておきなさい、と健一の肩をたたいた。
(一年っていうのはそのことじゃないんだけどな。でもまさか、宇宙人が箱を持ち帰るまでの間しかできませんなんて、とても言えないし)
自分ひとりの軽い思いつきだった話が、一晩で、あとに引けない大事になった気がして、健一は少し恐ろしい気持になってきた。得体の知れない木箱がこの企画の成否を握っていると思うと、他人様のカネでやっていいことなのかどうか、自分でも自信が持てない。
健一は突然弱気にかられて仕事が手につかなくなってしまった。ちょうど昼休憩の時間になったのを幸いに、こっそり会社を抜け出して公園に向かった。
案の定、公園のいつものベンチに座るやいなや、宇宙人内田かおるが現れて、隣に座った。今日は最初に会ったときと同じ、中学生の姿である。
「その制服みたいな格好でうろうろしてると、学校をさぼって遊んでると思われて、警察に補導されるぞ」
健一が言うと、内田かおるは
「そんなこと心配するくらいなら、さっさと箱を返してくださいよ」
「返せるわけがないじゃないか、あの箱を使って、本当に教室を開くことになりそうなんだ。悪いけど、一万人分のデータが集まるまで預からせてもらうよ」
「…やっぱり?」
「昨日は半分冗談みたな気持だったけど、資金を出すっていう人がいてさ、どうやらほんとにオープンできそうなんだ。ちょっと聞くけどあの箱さ、本物だと思っていいのか?」
「どういう意味です?本物って」
「つまり、そのへんで売ってるただの箱とは違って、本物の宇宙エネルギーが出てるのかって、そう聞いてるんだよ。ただの箱を見せてカネを取ったら詐欺になっちゃうからさ」
「ははん、なるほど。」宇宙人内田はしたり顔でうなづいた。
「弱気の風に吹かれているんですね。わかります、わかります」
「うるさいな、弱気になんかなっちゃいないよ」
「あなたそんな、詐欺とか言いますけどね、人の持ち物を取り上げて返さないっていうのは泥棒と違うんですか?しかもその道具でもって金儲けをしようっていうのは、悪さの程度としてはどっちが上ですか?そもそも…」
内田かおるは言いつのった。
「あの箱はたしかにホームセンターで買ってきた野鳥用の巣箱ですけよ。だけど中身がどうなのかと言われても、あたしにはあなたに証明する義務はありませんね。」
なんだかしゃべり口調が江戸弁ぽくなっている。
「今日はしゃべり方が違うな。いつものキャラはどうしたんだ」
「ああ、これは、ちょっと知り合いの家で、テレビを見ていたもので」
「知り合いだって?人間のか?」
「ええ、ぼくにだって、地球人の友だちのひとりやふたりいますから」
「ほお。すごいじゃん。こんなキモい宇宙人にびっくりしない人間がおれの他にもいるとはな」
「失礼な。とにかく、あの箱のシステムはコンクールで受賞したくらい貴重なものなんだから、粗雑に扱わないでくださいね。」
その時、健一の頭の中でアイデアがひらめいた。
「心配か?あの箱が心配?」
「え、ええ、まあ」
「それじゃあ、おれが箱を粗雑に扱わないように、お前が見張れ」
「ええっ、いいんですか」
「その代わり、給料はなしのただ働きだぞ。」
「ひぃ…」
「お前だったら、受付嬢でもマッサージ師でも、なんでもなりすませるじゃないか。ひとりで何役もできるし、まさに一石二鳥、いや三鳥、四鳥…」
「人使い、荒っ」
「いやならいいけど。」
「いや、やります、やります」
「ただし、一万人をクリアするまでは勝手に箱を持ち帰るなよ。ふたりで協力して一万人を達成するんだ、いいな」
一万×一万で一億という数字になる。一人当たり一万円の料金に設定した場合、宇宙人が一万人分のデータを手に入れたとき、おれには一億円の売上が入っていることになる。そして宇宙人は箱を持ち帰り、おれは一億円から経費をさしひいた残りを持って帰郷しよう。事業資金さえ持っていれば、今はインターネットもあることだし、田舎でも何か始められるだろう。いざとなれば家業の不動産屋をたたんでも、自分ひとりが食っていくくらいはなんとかなるのではないか。健一は手にしたことのない「一億」という数字に新たな希望を感じるのだった。
いったん気持が固まると、行動するのは簡単だった。
健一は会社に戻るとすぐさま昨夜のノートを取り出して、行動計画をさらに細かく書き出した。
それが終わると再び社長室を訪れて、教室の開設にとりかかることを伝えて、手持ちの仕事の引き継ぎについて指示を仰いだ。さらに上司の辻村と相談の上、案件の引き継ぎをした。幸い「もみもみ」が一段落した今はそれほど複雑な案件を担当していなかったので問題はなかった。
午後はウエシマックスに出向いて資金援助について相談して、その場で秋月不動産に連絡して店舗の契約を申し込んだ。
「決断がお早かったですね、では明日、現地でお会いしましょう」
と秋月望男はうれしそうだ。もう前に進むしかない。
夕方、健一は疲れ切って街角のスターバックスでへたりこんだ。
教室の名前だけは早く決めてしまいたい。しかし疲れた頭からは何のアイデアも出てこなかった。こういうときこそ小島さんやオフィスKのスタッフに知恵を借りたいのだが、もう歩く気力がない。そういえば今日は昼飯を食べていなかったことに健一は気がついた。時計を見るともう五時半。うまい晩飯でも食って元気を回復しなくては、と思いながら携帯をチェックすると、まさかの小島さんからメッセージが入っているではないか。なんだこれ、テレパシーか!
「何か新しい企画が進んでいるんですって?くわしく聞かせてくださいよー。お客さんからおいしい和食クーポンもらったので、今からみんなで行くけど健一さんも来ませんか?」
もちろん行くさ!健一は思った。
欲を言えば食事は小島さんとふたりきりが良かったが、この際、ぜいたくは言っていられない。オフィスKのメンバーが揃っておれの話を聞いてくれようというのだ。気持ち悪いくらいの「渡りに船」状態ではないか。健一はソイラテに砂糖を入れて勢いよくかき混ぜた。脳に糖分補給で夜の部に突入だ!まだ今日という日は終わらない。がんばれ、おれ!
その頃、真っ暗になった公園では、街灯の明かりを頼りに、ホームレスの老人が歩いているのが見えた。朝晩の空き缶拾いは彼の日課だが、それはもっと明るいうちに済ませてある。彼は公園をぐるりと一周したあと、木のベンチに座った。しばらくそうしているうちに、後ろの植え込みのあたりから小さな人影が現れて老人の隣に腰掛けた。やがて小さな人影は消えて、老人は、どこから現れたのか、小さな白い猫を抱き上げて公園を出ていった。
和食ダイニングはとてもおしゃれで、やっぱり小島さんとデートだったらよかったのに…と思ったが、いざオフィスKのメンバーに会うと教室の話をするのに夢中で、小島さんどころか料理の味さえ分からなかった。それでも、教室の名前が『能力開発教室ミラクルボックス』に決まって、健一は大満足だ。
「この箱を覗くという行為をトリガーにして深くリラックスした状態に入ってもらうんだ。そのあとのプロセスは臨機応変に考えるとしてだね、とりあえず箱を見てもらうことに意味があるんだ」
と健一は何度もくり返した。宇宙人とか、宇宙エネルギーとかいう言葉を使わなくても、案外、通用する気がしてきた。
何も知らない相手に教室の特徴を説明している間に、自分でも、そこで何をやりたいのか見えてくる。健一は、今回のビジネスの肝はあの箱が持つ力だと考えていた。だが、そのことを宇宙という二文字を使わずにどう説明したらいいか、そこに迷いがあったのだった。
「奇跡のように能力が開花する」という意味の「ミラクルボックス」という名前に、教室の特徴が集約された。こうして名前が決まってみると意外にも、お金のこと以上に、ネーミングが心の負担になっていたことに気づく。逆に言えば、名前さえ決まってしまえばあとはなんとかなるという、妙な確信があった。
看板と販促物一式は、仕事としてオフィスKに発注することにした。
こうしておけばまたその話で小島さんに会えるというよこしまな下心が健一になかったとは言えない。
料金設定についてもけっこう悩んだ。
安ければいいというものではないと経験的に分かってはいたが、それではいくらくらいにするかと言われると、頭を抱えてしまう。近隣のマッサージやエステサロンの料金を調べたが、価格差が大きすぎて参考にならない。
「エステってどうしてこんなに料金が違うんだろ」
その日、教室の隣の喫茶店で、健一は小島さんや宇宙人の内田かおるといっしょに、集めたチラシやパンフレットを広げて検討会議をしていた。
小島さんには販促物の打ち合わせと称して出て来てもらった。内田かおるのことを「アルバイトで来てもらうことになった受付のかおるさん」と紹介をした。実際にはその都度、必要なキャラに変身してもらうのだが。
「エステ代が安いところは、実は化粧品会社が運営していて、自社の化粧品を継続的に使ってもらうためのサービスとしてエステをやっているので、安めの価格設定なんだと思いますよ。実際には、お客さんはエステ代としてではなくて、エステや家で使う化粧品を大量に買っているはず」
「なるほどね」
「高いエステは化粧品を売っていないわけじゃないでしょうけど、もともと狙っている客層が違う感じですね。これなんか、コース料金を回数で割ったら、一回一万五千円ですよ。お客さんは、何を買うにしろ一万二万はあたりまえよっていう人か、あるいは何らかの肌トラブルをかかえていて、改善できるならお金はいくらでも払うという人かな。」小島さんが意外に冷静な分析をする。「ま、あたしは行ったことないので、わかりませんけどね」
「小島さん、お肌キレイだから、エステは必要ないですね。」受付嬢の内田かおるは脳天気な反応だ。「あたしもお肌はぷりぷりですけど、エステには行ってみたいな。そうだ健一さん、その高いエステ、あたしが行って偵察してくるから、エステ代出してくださいよ」
「イヤだね。だいたいお前が肌みがいてどうすんだよ」どうせ宇宙人の技術で作ったバーチャルな肌のくせに。
「健一さんたら、そんな。女の子ならエステに行ってみたいものですよ。私だって一度は行ってみたいわ」
「ええっ、小島さんまで」
「きゃー、やったぁ、エステにGO!」
と、そんな具合で、ミーティングに宇宙人がひとり混じっていると話は脱線するばかりでちっとも進まない。健一はしかたなく、ポケットマネーでふたりをエステの潜入調査に向かわせた。
近隣の進学塾にもリサーチもおこなった。これは、対象年齢の子どもを持つ母親らしき人物に擬態した内田かおるの仕事だった。体験レッスンには同じく内田かおるが子どもの姿ででかけていった。仕様上、親子同時にというのは難しい注文なのである。
リサーチの結果を持ち寄ってまた喫茶店に集合した。どうやら、結局のところ金額の設定は気合いかもしれない、という結論に至った。
費用が高額な理由は説明次第だし、実際にそれを払うかどうかは客次第だ。どんなに価格を下げても、説明に納得していない客はビタ一文払おうとしない。むしろ、高めに料金を設定して、それに見合うようなサービスを考えていくほうが、双方にとって良いように思われた。
「高額なエステは内装も立派だし、女王様みたいにかしづいてくれるけど、本当に費用なりの効果があるかどうかはしばらく通ってみないことには」
小島さんはそう言うが、健一には気のせいか、顔のつやが増してパッと明るくなったように思える。
「そうかな、きれいになったと思うけど」
健一が発言するとすかさず内田かおるが
「健一おにいちゃんがお金を出して、小島おねえさんをエステに通わせてあげたらいいじゃん」
宇宙人内田かおるは、エステの体験に行ったとき、小島さんのことを「あたしのお兄さんの彼女」と偽って説明したのがどうやら気に入ってしまったらしく、それ以来、健一のことを「おにいちゃん」と呼ぶのは大変気色が悪いので今すぐやめて欲しい。
「はいはい。かおるちゃんが一生懸命営業してお客さんを連れてきて、お仕事がすんごく儲かったらね。ってことだ、分かったか、おりゃあ」
健一はかおるの首を絞める真似をしたが、本気で絞めて宇宙人の姿に戻られても困るので力は加減した。内田かおるは首を絞めらるのがうれしかったみたいでへらへら笑っている。それはそれでやっぱり気持悪いのだった。
そんなこんなでバタバタしながら、内装工事を入れて二週間でオープンにこぎ着けた。内装工事と言っても可動式のパーテーションで仕切っているだけなので、たいしたことはない。唯一こだわってオーダーしたのは、一人用の防音ブースだ。そこに小型のスピーカーを取り付けて、低い音でヒーリング用の音楽を流すことにした。このブースに宇宙人の箱を置いて中を覗いてもらう。すると知らない間に宇宙パワーを受け取ることができる。さらにブースの内側の黒い布には星空の映像を映すことにした。ただ木箱を覗くだけではありがたみがないので、こうしたちょっとした仕掛けを作ったのである。実際に入ってみると、簡易的な防音のわりには中は静かで、黒い布に投影された銀河の光の粒をみていると数分間座っているだけで気持がゆったりしてくる。
リラックスできるボックスだから「リラクボックス」。健一はこの防音ブースをそう呼ぼうと決めた。
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