第4話

「しまった!おれ、仕事があるんだった。ちょっと先に行くからカネ払っといて…あ、そうかカネ持ってないのか。じゃあこれで払っといて、仕事が終わったら公園行くからそのへんにいてくれよ」

健一は千円札を二枚テーブルに置いて、宇宙人の内田かおる残したまま喫茶店から走り出た。数分後にはオフィスKにかけこんで、あいさつもそこそこに小島さんから封筒を受け取ると、その剣幕にびっくりしている小島さんとをそのままにして外に飛び出した。


 走るのがこんなに気持ちいいなんて、何年ぶりだろう。

 南から吹く風に海の匂いがする。港は十キロも離れているのに。

 約束の時間まであと十五分。

 健一は地下鉄の駅には向かわず、空車のタクシーをつかまえた。


 電動マッサージ器「もみもみ」を開発したのは、上島工業の副社長兼ウエシマックス社長の上島浩一である。

 上島工業はもともと、浩一の父親の上島宗一郎が始めた自動車部品の会社で、今は自動車に限らず幅広い用途の電子部品を製造している。しかし息子の浩一はコンシューマー向け雑貨の販売に熱心で、上島工業の技術を利用して美顔器やマッサージ器の開発に余念がない。最近、そうした雑貨を扱う「ウエシマックス」という変わった名前の新会社を作ったばかりだ。

「おーそーい!健一君、あんまり遅いから、加藤は出かけちゃったよ」

と、ウエシマックスの事務所に走り込んだ健一に笑顔で答えたのは社長の上島浩一だ。ゴルフ焼けした顔は相変わらずつやつや輝いている。ウエシマックスにはまだ社屋がなく、上島工業の敷地内の空き倉庫を事務所に使っている。加藤というのは広報や事務を一手に引き受けている社員だ。

「あ、社長!すみません、間に合いませんでしたか…」

「なんて冗談だよ。加藤君はそのあたりにいるよ。どれどれ、ちょっと見せてよ」

と言うと、健一を手招きした。

「今日はおれが電話当番なんだよ。事務の女の子が銀行から戻ってくるまで三十分くらい、ここにいないといけないんだ」

上島はそんなことを言いながら、事務机に広げていた書類を片付けて、健一が持参した資料を封筒から出して広げた。

 今回は、店頭用のチラシと三つ折りパンフレットを各二種類、店頭用ポスターが一種類、それから商品パッケージがサイズ別に三種類などだ。上島は順番にプリントアウトをチェックしながら、前回からの修正点を確認していった。広報担当の加藤がいなくても、内容はすっかり頭に入っているらしい。良くも悪くもこの会社は上島浩一のワンマン経営なのだ。

「うん、いいね。加藤君にも確認しないといけないけど、これでOKできると思うよ。何度もご苦労さま。」

「ありがとうございます!」

健一はほっとして頭を下げた。

「君のところともっと早く取引をしていれば「もみもみ」のネーミングから相談に乗ってもらえたのにね。このダサい名前は量販店はいいけど、マッサージ店やエステに売り込むのに二の足を踏むよ。」

「えっ」

健一は驚いた。

「社長、この商品をエステにも販売する計画があったんですか?」

「いや、まだ計画はない。おれが思っているだけでまだ誰にも言ってないんだ。ただ最近、美容院やエステも競争が激しくて、よそと差別化するために簡単なマッサージやヘッドスパとか足裏マッサージとか、いろんなサービスを追加するサロンが増えているんだよね。」

上島は立ちあがって、健一を商品のディスプレイ棚にいざなった。

「それで考えたんだけどこの「もみもみ」って、今の形状のままでも椅子の背もたれに取り付けてヘッドレストのように使うことができるんじゃないかと思って…」

上島社長は「もみもみ」を来客用のソファーの背もたれの上の部分に置いてみせた。

「可動式の留め具をつけてソファーや診察台に取り付けられるようにして、エステサロンやヒーリングスペースとか、リラクゼーションスポットで使ってもらったらどうかと思うんだ。」

「ヒーリングやリラクゼーションですか…」

健一は落花生の殻のようなカタチをした「もみもみ」を、今、初めて見るかのように眺めた。

「ちょっといろいろ相談に乗ってもらっても、いいですか、社長」



 その頃、地下鉄駅近くの公園ではホームレスの老人が空き缶を探していた。拾うのは空き缶に限らない。最近は銅や鉛などの金属にも良い値がつくようになっているのでとりあえず金属製品は気をつけてチェックしている。ただし、財布や携帯などの落とし物は、落とした人が困っているといけないからすみやかに駅前の交番に届ける。

「ホームレスにも仁義あり」

というのが彼の口癖である。老人といってもきびきびと動ける様子を見ると、六十になるかどうかという年代だと思われるが、長くのばした髪やひげのせいで年齢はよく分からない。

 老人はいつものように駅周辺の空き缶を探しながら公園に入り、周囲の植え込みの中を覗きながらぐるりと一周した。最近では空き缶よりペットボトルが目立つ。

「ペットボトルは回収しても一銭にもならんからなぁ」

成沢は拾ったペットボトルをゴミ箱に入れる。

「公園はきれいにせにゃ」

見たところ、公園の清掃は年に一回、樹木の剪定に来た業者がやっていくだけで、清掃員は見あたらない。

「わしらホームレスがおらんかったら公園はゴミだらけになっとるところだ。市民には感謝してもらわにゃいけん」

 老人は公園中の植え込みの中とベンチの下をていねいに調べて空き缶を探した。今日は収穫物は見つからない。そこにいるのは小さな白い野良猫くらいのものだった。老人は公園を出たところにある自販機のゴミ箱にたどりつくと、たまっている空き缶を持ってきた大きなビニール袋に入れ始めた。


 そして夕方。住吉町のオフィスKでは小島さんが早めに仕事を終えて帰り支度を始めていた。最近残業が続いていたので、今日は早く上がっていいと社長の井上から言われていたのである。

 昼過ぎに駆け込んできて、ろくに挨拶もせず「もみもみ」のデータを持っていった健一からは、その後どうなったのか連絡もない。あの調子では今日はバタバタで、連絡する余裕もないのだろうと察せられた。

「まあいいわ。連絡がないのはOKが出た印だから」

と小島さんは明るい気分で会社を出た。

 確かに今回の「もみもみ」は何度もやりなおしをさせられてうんざりだったけど、もともと小島さんは印刷物のデザインをするのが好きなのだ。実のところ、やり直しの作業ですら楽しいと思うことがある。

 小島さんは小学生の頃から、気がつけば文集の表紙や委員会のポスターを描いていた。高校の時はマンガ好きな友だちたちが作る同人誌を手伝っていた。自分でも時々は絵を描いたりもしたが、人から頼まれるのでなく自分で考えたものを描くのは難しかった。いつも何を描いたらいいのか分からず、描き始めてもすぐに飽きてしまうのだ。しかし、専門学校で広告デザインを学んだ小島さんは、ひとつひとつのアイテムに作る目的があり、アピールしたいターゲットが設定されていて、案件ごとにまったく違うデザインができる広告の仕事が、自分には向いていると思うようになった。作るのが一枚の名刺でも、大きなポスターでも、同じように興味を持ってデザインを考えることができた。「もみもみ」の直しだって、何度もやりなおさせられて健一には文句を言っていたけど、実際はそれほど苦痛には感じていなかった。むしろ、直すたびにクライアントさんの求めているものに近づく手応えを感じて面白いとさえ思っていたのだった。オフィスKの仕事はだから、今の小島さんにぴったりなのだ。


 外はまだ明るい。小島さんは楽しい気分で信号を渡った。五月の夕方の空気が肌に少し冷たい。小島さんはバッグから薄いストールを出して首に巻き付けた。

 信号を渡って、駅前通りに向かう。公園の新緑が鮮やかで、樹木のいい匂いがした。小島さんはちょっと寄り道をして公園に足を踏み入れた。この前、健一と夜中にここに来たとき、鳥の巣箱みたいなものを見つけたベンチの前に立ったが、あの箱はもう見あたらない。見上げると、ビルの谷間から新緑の枝越しに色あせた空が遠く見える。大通りを通る車のエンジン音とともに、さわさわ、と葉の触れあう音がする。五月は一年でいちばん、気持のいい季節だと、小島さんは思った。ふと、足もとに何かやわらかい感触があった。

「にゃ~お」

どこから現れたか、白いふわふわした猫が一匹、小島さんの足に身体をすりつけていた。

「あら、猫ちゃん」

小島さんを見上げる目は今日の空のような薄い水色だ。

「かわいいね、どこから来たの」

小島さんが腰をかがめて撫でてやると、猫はよろこんでごろごろとのどを鳴らしたが、突然、耳を前に向けて立てて何かを凝視したと思うとあっという間に走り去ってしまった。

 猫が駆け寄った先には、黒いランドセルを背負った少年がひとり、うつむき加減に歩いていた。少年は白い猫をそっと抱き上げると、近くのベンチに座ってやさしく撫で始めた。小さな顔には、かけている眼鏡が少し大きすぎるようだ。

「友だちなのか…」

小島さんはちょっとほのぼのした気持になって、少年と猫の前を通り過ぎて駅に向かった。


 少年のひざに乗った白猫はしかし、小島さんが視界から消えると可愛らしい表情から一転、陰険な目つきになった。もう少し近づけば、猫が少年に向かって人間の言葉でしゃべっているのに気がつくだろう。

「…でさ、結局あいつ、箱を返そうとしないんだ。持ち歩いている様子はないからきっとコインロッカーあたりに入れてると思うんだが」

猫は鼻に皺を寄せて牙を剥きだした。

「君はだいじょうぶなの?箱を人間に渡してしまって先生に怒られない?」

少年はそう言うと、白猫を落ち着かせるように背中を撫でた。どうやらこの白猫は例の宇宙人のもうひとつの仮の姿のようだ。しかし少年はいったい…?

「先生にはまだバレてないと思う。でもあんまり長いこと箱を使わないと、受信データのログ解析でトラブルが察知されるかも」

「ふぅん。最先端だね。」

「ってか宇宙人だしね、一応」

「その健一っていう人の能力開発教室が始まったらすぐにたくさんの人が箱を覗くことになるから、この際、さっさと始めてもらったら?」

「うむむ…なんとなく、何かが間違ってるような気がするんだけど、コトを荒立てないで収拾するにはそれが一番いいかもね。」

「ぼくに手伝えることがあったら手伝うから、連絡してね」

「わかった。」

猫は少年のひざから飛び降りてどこかへ消えていった。


 五月の空は七時すぎには暗くなる。最後の打ち合わせを終えた健一は疲れ果ててネオンがまたたき始めた街を歩いていた。今日は朝から不動産屋と話したり上島社長に新しい事業の相談をしたりと、よけいなことをしていた分、本来の仕事が間に合わず走り回る羽目になった。これから会社に戻って書類仕事だ。

 健一が勤めている広告代理店は丸の内の高層ビルにある。地下鉄の駅から直接ビルの地下に入る通路を急いでいるとき、胸ポケットで携帯が鳴った。取り出してみると実家からだ。おふくろに違いない。忙しい時に限って電話してくるんだから、まったく。


 エレベーターで八階に着いたときには母親との電話は終わっていたが、健一の頭の中から、さっきまで組み立てていた仕事の段取りはすっかり飛んでいた。

「おう、お帰り」

デスクに戻ると、ちょうど奥から辻村が出てきた。健一の直属の上司だ。

「上島さんから電話があったよ。「もみもみ」の販促ツール一式はOKになったらしいね。それから、今日の打ち合わせの件で新たに広告費を確保したからよろしくって。今日の件って何?」

「ああ、あの、もみもみを使ったリラクゼーションサロンみたいな話です。」

「なんだその、みたいな、って」

「すみません、ちょっと他のことを考えていて」

「何かあったのか」

「実は実家から電話で、父親がその、ちょっと、倒れたらしくて」

病状がはっきりするまで会社には話さないつもりだったのだが、つい、答えてしまった。

「ええっ、お父さんが。それでどうなの」

「とりあえず命に別状はないようです」

「帰らなくていいのか」

「…母親が言うには、あわてて帰ることはないらしいので、週末にちょっと様子を見てきます」

「ご実家はたしか、名古屋だったよね?」

「名古屋の近くの田舎です」

健一の実家は名古屋北部の旭野市という人口十万少々の小都市にあって、家業は不動産屋である。

「そうか、仕事でフォローできることはするから、何かあったら言えよ」

健一は帰宅する辻村に頭を下げた。温かい言葉がうれしかった。健一はやはり、突然の知らせに、自分で思うよりもショックを受けているのかもしれなかった。

 父親からは一度も言われたことがないが、長男の自分が不動産屋を継ぐように期待されていることは、子どもの頃から分かっていた。だが、健一は生まれ育った土地で、同級生や先輩後輩に囲まれた狭い世界に閉じ込められるのがイヤだった。だからあえて地元から遠い大学を選び、就職も不動産とは関係ない広告代理店を選んだ。そして、良い上司やお客さんに恵まれて、順調な社会人生活を楽しんできたのだった。

「なのに退屈だなんて言うから、ばちがあったったのかな」

と、健一は公園で空を見上げた日のことを思い返した。

 父親に万が一のことがあったら、自分は、今の暮らしを捨てて実家の不動産業を継ぐか、あるいはそれを廃業して今の仕事に人生を賭けるか、ふたつにひとつの選択を迫られることになるのだ。

「そんなことになったら、どっちにしても、今までみたいに自由ではいられない…」

のんきに学生時代を思い出して懐かしんでいた自分が、今度は田舎に引きこもって、気楽なサラリーマン暮らしを懐かしむようになるのだ。そう思うと、世界はさっきまでのように夢と冒険に満ちた場所ではなく、しがらみや義務に縛られた重い場所のように思えてくる。

「ああ…どうするんだ、おれ」

健一は頭を抱えた。

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