あなたについて。
「おはよう」
そろそろ電車が会社の最寄り駅に到着する旨を告げるアナウンスにより意識が現実に引き寄せられ、いつの間にか閉じていた瞼を持ち上げると――
「司さん……? おはようございます」
――彼女は私の正面に立って、神妙な面持ちでこちらを見つめていました。
「昨日はごめんね」
「いえ」
心拍数は当社比で二割増しといったところでしょうか。
一緒の最寄り駅なんですから、こういったことは珍しくありません。けれどまぁ、昨日の今日ですし、ね。
「……さっそくなんですけれど、お返事をしてもいいですか?」
電車が停まり、ホームへ降りて、改札を抜けて、そしてようやく私はその一言で沈黙を破りました。
「えっ!? 今!?」
流石の司さんも珍しく驚愕を浮かべています。駅から会社までは徒歩十分。そんな通勤路でこんな会話が展開されるとは思っても見なかったご様子。しかし副次的効果か何かで硬かった司さんの表情が少しほぐれているように見えます。
「はい。ですがその前に一つだけ聞かせてください。どうして司さんは、私を良いと思ってくださったのですか?」
答えは九割決まっていましたが、最後に確認したいことがありました。
「……本気でプレゼンするなら
参ったように、呆れたように言う司さん。教師が生意気な生徒を見て浮かべるようなその笑みが、私は結構好きだったりします。
「つまり最初に出会った……面接のとき、ですか?」
あの外面だけを良くしていた状態で一目惚れなんかさせていたら、そんなのは詐欺にも等しいです。今すぐにでもお断りしなくては。
「あはは、違うよ。美智は覚えてないんだね。私達あの日、同じ電車乗ってたんだよ」
覚えていましたよ。でも……一目惚れ? 私に? 私が司さんに一目惚れするならわかりますが、あの時、司さんは窓の外に夢中だったはずじゃ――
「電車の窓の外を眺めてる美智の瞳がさ、なんていうか……とっても輝いて見えたんだよね」
「…………はい……?」
「踏切上がるの待ってる車とか、人がまばらなカフェのテラスとか、どこにでもありそうな川とか……そういう何気ない何かに、私の知らない素敵なことがあるのかなーなんて考えさせられて。ちょっと良い気分になってたら面接でまた出会っちゃって」
あのとき、私は司さんの視線を追って風景を見ていたはずです。でも司さんは私の視線を追っていると主張していて……これは一体……。
「それから二人で仕事したり飲みに行ったりして……やっぱりフィーリングかなぁ。誰かと一緒にいたいってこんなに思ったの、生まれて初めてなんだ」
なんでしょう、この感覚。あんなに平然としていた心臓が急にペースを上げています。
「抽象的でごめんね、立ち話で言えるのはこれくらいかも」
「い、いえ。わかりました、ありがとうございます」
「やっぱ嘘。せっかくだし思いつくこと全部言っておく」
「え? いえもう結構「何でもそつなくこなすのに甘え上手なところとか、クールに見えてめちゃめちゃ優しいところとか……疲れるとやる気なさそうに虚空を見つめるところとか……なんていうか……そう、血統書付きの由緒正しい猫って感じが……もうたまらなく好き。いつの間にか恥ずかしいくらい骨抜きにされちゃったんだわ」
「そう、ですか」
朝からなんの会話をしているんでしょうか。……私のせいですけども。
というか『そう、ですか』じゃないですよ私、最後に確認したいことも終わりましたよね、早くお断りしてください。私には『好き』がわからない、だからお付き合いはしない。微睡みの中でそう決めたんです。
「っ、危ない」
お断りするにあたって使う言葉を逡巡していると、突然司さんに抱き寄せられ、そのすぐ後、歩道だというのに速度を上げた自転車が私の横をすり抜けていきました。
「あ、ありがとうございます」
「ん、どした?」
「いえ、何も」
お礼なのだからしっかり目を見て言うべきなのに……どうしてどんどん俯いてしまうのでしょう。
覗き込まれれば込まれるほど、顔をそらしたくなるのはなぜでしょう。
「……うそ」
「なんですか?」
その声はまるで信頼していた株価が大暴落していた人間の出すソレであり、そんな声が溢れた理由を知るためにようやく合わすことのできた視線の先には――
「嘘でしょ、美智、今私のこと意識してる?」
――なんとも珍しい、司さんの気の抜けたような笑顔。
「してないですよ。なんですか意識って」
「嘘じゃん絶対してるじゃん! なにこれどうしよう嬉しすぎる!」
「だからしてないですって」
普段なら全く気にならないのに、何故か今は少し腕を組まれただけで落ち着きません。
わかっています、この人の人間観察能力は本物です。何かを察知されたというなら、それは本当なのでしょう。
「司さん」
「なぁーに?」
「離れてください。歩きづらいです」
「えー、しょっちゅう引っ付いてるのに初めて言われたなー。何か心境の変化でもー?」
こっちだってこんなに浮かれたあなたの表情は初めて見ます。私の尊敬する理性的で論理的な司さんはどこに行ってしまったのでしょうか。
「もう知りません。ではまた朝礼で」
「ああ、待ってよ美智~」
改めて『一晩考えさせてください』と提言した自分を恨みます。けれど……たとえお腹が痛くなっても、考えること自体を放棄したいとは思えません。
この哲学の果てにはきっと、たぶん、おそらく……幸せとあなたがいるような、そんな気がするのです。
朝の哲学~昨日、上司に告白されました~ 燈外町 猶 @Toutoma
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