ゾンビその7
ガシャンと割ったガラスが4階から地面に向かって降り注ぐ。目の前に広い車道が広がる。いつもどおりの黒い防護スーツをきた俺は穴から外を覗く。
そこから見えるのは都道304号線。6車線の広い道路には何台もの車が野ざらしになっている。どの車もドアが開きっぱなしで、中には誰も乗っていない。緊急避難で路肩に止めた乗用車。玉突き事故を起こしている配送車の運転席には黒い血液の跡が残る。焼けただれた観光バス。それぞれに最後の姿が浮かんでいる。
それらの車の先に見えるのは、
「銀座…歌舞伎座」
近代的ビルが立ち並ぶ銀座の大通りに立つ屋根瓦の白い建物。6階建ての低くどっしりとした異質な建築物。都内観光の目玉の一つ、歌舞伎専門の建物、銀座歌舞伎座だ。
そしてその歌舞伎座の前に流れる大きな車の川。この都道304号線は大きな障害である。
この幅の広い危険な都道を越えられれば、
銀座三越
和光本館
銀座松屋
といった大型高級百貨店が俺の射程に入ることになる。そのためにも、この都道を超えるロープ橋の設置は重要事項だ。
窓ガラスを割りながら下を覗き込む。何事かと集まってきた数人のゾンビがたむろしている。
「良くない状況だな」
建物の前面が低い歌舞伎座と高さを合わせるために橋の設置高度が低くなっている。
ガラスの処理が終わったので、床にロープを整列させる。きれいに並べておけばキレイに伸びてくれる。50mもの長さがあるので室内に並べるのも大変だ。
それ他の準備ができたら、ロープを柱に縛り付け、逆の先端を救命索発射銃の紐と結ぶ。
窓際に向かいおもむろに構えて、撃つ。
先端部が紐を引っ張りながら空中を飛んでいく。
幅の広い車道を飛び越え、向かいの歌舞伎座の屋上庭園に到達した。空中に細い紐の橋が架かった。
「よし」
下準備は完了した。
「ガフッ」
背後から羽交い締めにしたゾンビの頭部にスタンガンを押し当て脳を焼き尽くす。マスク越しでも枯れた細胞が焼き切れたツーンとした匂いが鼻につく。
橋の基部を設置したビルの一階。入り口にうろついていたサラリーマンゾンビを背後から遅い無力化した。
背後からならナイフ等を使ってもいいが、ゾンビに対して胴体への攻撃はあまり意味がない。ショットガンならまだしも、ナイフの一撃だけでは叫んで仲間を呼ばれるだけ。
ならば羽交い締めにして、腕の防具をゾンビの口に噛まして、脳を焼いたほうが安全だ。
玄関前に集まっていたゾンビは消えている。ゆっくりと時間をかけて階段を降りてきたので、飽きて散り散りになったようだ。
玄関から首を出し歩道の様子を見る。直ぐ側に驚異となるゾンビはいなかった。
そそくさと歩道に出て乗用車の影に隠れる。
さすがに用心のために大型ナイフを抜く。
東京の昼日中に持っていれば、確実に警察案件という大型ナイフ。刃に金属の文様が浮かび上がっている一品だ。
ただこれでゾンビの相手をするのは大変である。首を切断しなければ倒せないからだ。乾いた筋繊維と脆い骨格とはいえ、人の首をはねるのは大変なのだ(何度か経験済み)。
車から首を出し、6車線ある車道を左右見る。車が走っている時よりも慎重に左右を見る。車は真っ直ぐ走るだけだが、ゾンビはこちらを追尾してぶつかってくる。
ぼんやりとしているゾンビ。車の窓に首を突っ込んで中を見ているゾンビ、ガードレールにぶつかり続けているゾンビ。
みんな自由で、みんな暇そうだ。
だが、生者である俺にとっては危険な存在だ。おばさまゾンビが多いのは銀座という場所柄ゆえか。
都会に紛れ込んだ野生の獣のように、車の影から影へと移動する。可能な限り音を立てず、気配を消して。
車道に止まっている最後の車、焼けただれた観光バスの側面に付く。内面が完全に焼けただれて、いくつも焼死体が見える。ゾンビにならなかっただけマシと言えるかもしれない。その大きな車体に隠れながら歩道に入り、周囲に危険がないのを見てから歌舞伎座入り口を観察する。
立派なお寺のような見事な作りの正面。だがお寺と違って真っ白な壁と柱、紫の大きなのれんとのぼり旗、大量の赤い提灯。なんとも賑やかで豪勢な物だ。
「入り口は…開いている」
完全に開放されている。こういった場所だ、非常時の避難誘導はしっかりしているだろう。内部にゾンビがいない可能性も高い。
「入るのは初めてだな」
俺は東京に暮らして長いが、こんなとこに来たのは初めてだった。
ゾンビに会わないことを祈りながら正面入口から中に入った。
入り口から入る光が内部をぼんやりと照らしている。朱色に染まったエントランス、だが人間の血ではない。暖色で飾られた華やかな劇場の導入部だ。
建物内のゾンビの有無を判断するのは難しい。だが多少の修羅場を経験してきた俺は、そのコツを掴んでいた。音だけではなく空気の匂い、淀み、流れから判断できる。
「大丈夫、かな」
影から立ち上がり内部に入る。最初の柱を越えたところで、ゾンビと真正面から鉢合わせた。
「!?」
噛みつこうとしたゾンビの口に右腕上腕の装甲を突っ込み噛ませる。相手の右肩の衣服を左手でつかみ、ゾンビの股下に足を差し込み体重をかけて押し込む。
ゾンビの足を引っ掛けて体勢を崩し、そのまま押し倒す! 体重が乗った右腕の装甲がゾンビの歯を全て砕きながら床にゾンビの頭を叩きつける。
「小内刈り」
の変形バージョンだ。ゾンビの顔面と頭蓋を破壊したが脳までは破壊できていない。
空いた左手のスタンガンを脳に撃ち込んだ。
焦げた匂いを出しながらゾンビは動かなくなる。これで右腕は残弾1だ。
「なにが大丈夫だよ。いるじゃないの」
俺は自分に呆れながら立ち上がる。ゾンビはここのスタッフのようだ。身なりの良さから支配人クラスと思われる。
さっさと5階まで上がって作業を完遂させるべきなのだが、目の前に劇場入り口…
「歌舞伎…」
見たことがないのだ。歌舞伎も、歌舞伎座も
「歌舞伎見物ってラグジュアリーじゃね」
ラグジュアリー体験…それが人生の目的なのだ。俺は扉を開け歌舞伎座の劇場に入っていった。
映画館よりもはるかに緩い傾斜で並ぶ座席。橙色で統一された椅子が広い会場内一杯に並んでいる。その入口の上には二階席、三階席があり、上の空間もかなり広い。座席の奥に広い舞台があるはずだが、黒・柿色・緑の三色の幕が降りていて見えないようになっている。
各入り口は完全に開放されており、客席には忘れ物が大量の残っている。緊急の避難誘導がなされたのは明らかなようだ。見渡す限りゾンビの姿はない。
「か~ぶきっざ!」
おれは変に上ずった言葉を言いながら薄暗闇の劇場をブラブラと歩く。高い天井暖色でコーディネートされた広い劇場空間。独特の三色の幕。パンデミック前の華やかな場所を夢想し、行ける余裕のなかった過去の自分に復讐を果たしていた。
「ヨッ」
ゴトンという音と共に三色幕の向こうから声が聞こえた。
怯えた犬のようにビタリと動きを止める俺。俺がいる位置は幕の直ぐ側、かぶりつき席と言っていい場所だ。
「浮かれすぎたか…」
実際、観光地で浮かれていた。閉じた幕を不審に思うこともなく近づいてしまっていた。大型ナイフを取り出すが、果たしてこれで倒せる相手であろうか。
「ヨォォォーー」
音が外れた声が幕から場内に向けて響く。間違いなく中のヤツは俺の存在に気がついている。三色幕の中央部分が盛り上がり、手の形が浮かび上がる。大きい。人間サイズのゾンビではない。
「逃げるか?」
まだ相手は幕の内側、だが大型種は足が速い可能性も高い(ストライドが長く、脚力も尋常じゃない)。そんな迷いが動きを止めてしまった。これでは肉食動物を前にした草食動物と変わらない。
押された幕が、天上のレールから外れてまるごと落とされた。三色幕が波打ちながら落ちていく。そこから現れた姿は
「カ・・・ブキ?」
巨大なカブキ男。チョンマゲに蜘蛛の足のように伸びる髪型。赤い衣装が内部の肉体のせいでミチミチに膨らみ何本もの刀が肉体に埋まっている。身の丈3m,巨大な歌舞伎演者。しかしその隈取りに彩れた顔には10個もの目がついていた。
その目がぎょろぎょろと全く違う方向を見て動く。
「カカッ」
歌舞伎の見得を切るゾンビ。手を前に押し出す独特のポーズ。首がぐるりと変な方向に回転してから正面を向くがその10個の眼球はまったく収まらず勝手に動き続けている。
「ヤバ」
俺は逃げることを選択した。でかいだけでなく過去の記憶が肉体に染み付いた、こいつは
「イーターだ」
通常のゾンビは単なる噛みつき屋、ウィルスの媒介者「バイター」である。しかし百に一、千に一、ゾンビを食べるゾンビが生まれる。それがイーターだ。イーターは間違いようのない個性と巨体をもっている。戦っていい相手ではない。
「どおりで劇場にゾンビがいないわけだ」
逃げ出そうとする俺に襲いかかる歌舞伎ゾンビ。とっさに座席の列に横っ飛びする。ゾンビの片手の薙ぎ払いで床にボルト止めされていた座席が吹き飛ぶ。
起き上がり座席の背もたれを踏み一飛する。俺が踏んだ背もたれが続いてのゾンビの一撃でざっくりと裂かれて消えた。
「カカカッ」
変な調子の声を出して追ってくる歌舞伎ゾンビ、座席が水しぶきのように左右に分かれて飛んでいく。なんとか出口まで走ろうとするが座席が邪魔してなかなか進めない俺に対して、ゾンビは座席など苦もなく破壊して進んでくる。結果は目に見えていた。
背中を捕まれ、持ち上げられる。高々と持ち上げられた。二階席、三階席まで見える。
「イ・ヨォ~~~」
持ち上げながら見得を切る。完全にどうかしている。十個の目の内の上の3つがこちらを見て笑っている。このまま叩きつけられる。そう思った俺は腰の安全帯のフックを取り出し。歌舞伎ゾンビの首にまかれていたタスキの残骸に、引っ掛けた。
歌舞伎ゾンビは持ち上げた獲物を掲げ、首をありえない方向に一回転させた後、地面に投げつけた。
首に架かったフックとそれに繋がったロープとハーネスが、俺の体を床に激突する前に引き止めた。自分の投げた力で首のタスキに引っ張られ前のめりになる歌舞伎ゾンビ。
首から赤ん坊のように吊るされた俺と奴の巨大な隈取り顔が見つめ合う。
「イボォォォ!」
怒りのような声を上げる歌舞伎ゾンビ。俺は持っていたナイフで奴の目を一つ切って潰した。
殴りつけようと右手を振るゾンビ。しかしそのさい首が大きく左に動き、そこから吊るされていた俺の体は右手から逃げるように宙に浮かぶ。
右手が大きく空振りし、俺は首を回って奴の背中に付き、一指しした。ナイフでザクザクと切りつける。痛みをたいして気にしないゾンビだが、無視できるものではない。背中のノミを掻くように腕を背中に伸ばすが、その反動で俺は奴の腹下に入り込み、両太ももを斬りつける。ゾンビは股下の俺を潰そうと殴りかかるが、その反動がまた俺を動かし、奴の脇の下を逆上りし、奴の蜘蛛頭にナイフを突き立てるが、頭蓋骨が硬い、刃が完全に通らない。ゾンビが俺を捕まえようとすると、その反動で俺は回転しそれを避ける。
俺たちはそれを何度も繰り返した。
トムとジェリーのように。回転する遊具で遊ぶ子供のように。人体回転のパフォーマンスをする息のあった巨人と小人のコンビのように。
「ヨォォォォ!」
「よーーーー!」
二人の声があった時、俺のナイフは奴の分厚い顔面を貫き、脳に到達した。
その時、正面に回っていた俺の胴体を奴の巨大な両手が掴んだ。
奴の巨大な顔面はナイフを突き立てられて怒り顔だ。隈取りが筋肉のように動きナイフをせき止める。ナイフは脳に到達したはずだが、破壊に至っていない。九個の目が全て俺をにらみつける。
奴の両手が易易と俺の胴体を握り込んでいる。握力をかけてきた。肋骨のフレームはいつまで持ってくれるか、すでに呼吸ができなくなっている。
俺の顔は赤くなり、奴の隈取り顔とお似合いだ。俺は赤い顔のまま、奴の顔面に突き立てて握っているナイフの、持ち手のトリガーを引いた。
「スペツナズナイフ」
ナイフの刃をバネで前方に射出するというソビエト産の軍用ナイフ。だが当然ながら国内でのそれは趣味用、娯楽用としかえない。そんな機能を使う場面など国内ではない。
そしてそのバネ力も歌舞伎ゾンビの脳天を破壊する威力はなかった。刃は少し深く刺さったが、射出の勢いは、刃ではなく持っていた柄の方に強く働き、柄を後方に吹き飛ばした。手のナイフは消え、ナイフの刀身だけが顔面に刺さったまま、持つ所はなくなった。
「これでいい」
俺はその抜身の刀身、絶縁体だった柄を失った金属の塊に、右手の拳を叩き込んだ。
三発。拳のスタンダガン電撃を全て撃った。
九個の目が燃えている。
脳にまで到達していた刃から放たれた電流は、しっかりと脳細胞を焼き尽くした。内部の発火が炎となり、目と口から明かりとなって漏れてくる。
ハロウィンのかぼちゃ飾りの歌舞伎版だ。
俺の体から手を離した歌舞伎ゾンビが、ドウっと倒れ座席を将棋倒しにした。
奴とともに床に落ちた俺は、立ち上がろうとしたが、その力もなく、しばらく奴と一緒に床に倒れ込んでいた。
「歌舞伎はもう…もう懲り懲りだな」
それくらいしか、言葉がなかった。
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