ゾンビその5
ようやく自宅のあるマンションに戻った。ペントハウスに戻る前にマンション内にあるスポーツクラブに向かう。
そこには波々と水をたたえたプールがある。
スーツを脱ぎ捨てた俺は、プールから水をすくい頭から被る。シャワー代わりだ。
プールの水は大量だ。俺がいくら使っても減っているように見えない。
備え付けのタオルで体を拭いて、荷物を丸めて階段を登る。最上階へ向かうこの行程がなにげにきついのだが。数ヶ月の繰り返しの結果、かなり足の筋力がついた。パンデミック前には想像もできないムキムキぶりだ。
最上階のペントハウスに付き荷物を投げ出す。今すぐキングサイズの高級ベッドに倒れ込みたいところだが、俺にはやらねばならないことがある。
荷物から奪ってきた最高級ベッドシーツを取り出す。それを丁寧にベッドにしき、ベッドメイクをする。ピンと張り、ピシリと締める。
黄金色のエジプト綿サテン織りの布団カバー(27万5千円)に巻かれた俺のキングサイズベッド。
我慢できなくなりついに飛び込んだ。
バフリと受け止める総計70万円の寝床。
人のボーナスよりも高い寝床だ。
黄金色の海に浮かぶような寝心地の良さ。値段が俺を包み込む。
俺はバタバタと黄金の海を泳ぎ、エビ反って黄金の空を飛ぶ。
「これはいい、苦労したかいがある」
急に眠気が襲ってきた。疲労が睡眠を求める。
「今日はいい夢が見れそうだ」
そうでもなかった。
列車の振動に揺られ、俺は満員のJR中央線に乗っている。
コロナパンデミック終結からしばらく経っているが、満員の電車の半分くらいがマスクをしていた。俺はその日の気分で付けたり外したりといったところだ。ワクチンは信用してるし、あまり心配し過ぎもよくないといったところだ。
いつもどおりの冴えない平日の冴えない出勤。俺はその日行う予定のビルメンテナンスの作業内容を考えて、重い気分だった。
「ゲフッゲェフッゲフ」
そばの男がマスクなしで咳をしている。それもとびきり汚い咳だ。俺は何食わぬ顔で、列車の中央に移動する。極めて自然に、水が流れるがごとくだ。
「ゲフッゲフゴフッ」
まだ咳をしている。俺は飛沫の拡散を考え、さらに距離を開け、列車の反対側の扉そばまで移動した。さすがにこの動きは極端で不自然であったが、コロナパンデミックの後なのだ、神経質な行動であっても許してもらおう。
男の咳は更に激しくなり、列車の端々でも聞こえるほどだ。明らかに体調に問題ありそうだ。男の周りの親切な女性が気にかけて声をかけている。こういう時はああいう親切な人に任せておこう。もうすぐ新宿に着く、できることはないと思えた。
俺は再び本日の業務の手順を考えて暗い気持ちになっていた。
「これだけ働いても手取りで25万くらいなんだろうなぁ…」
通勤列車に夢はない。人生の終末まで、俺はこの列車に乗り続けるのか。
「キャッ」
悲鳴が聞こえた。通勤列車には不釣り合いな悲鳴だ。先程の咳する男と親切な女性の方、俺が元いた場所の方から聞こえた。
満員電車の中、人の頭が並び何が起こったのか見えなかった。何人もの人が悲鳴の起こったほうを見ている。
人の頭が並んだ向こうから、赤い飛沫が飛び、天井から扉にかけて赤く濡らした。
何?と思った瞬間、もつれた二人がドアにぶつかりドンという大きな音がした、周囲の人間が押されて倒れる。
再び血がシャワーのように吹き上がり、ドアから天井に向けて走る。
俺は、列車内で起こる様々なアクシデントの記憶を巡らせ、車両をつなぐドアの方に移動した。動機が早まる。
立ち上がった男の顔が見えた。下半分を女の血で真っ赤に染めた顔で天井を見上げている。笑うように肩を揺らしている。
「グェグェッグェ」
女も立ち上がった。遠くからでも首筋に大きな穴が空き、残った血が断続的に吹き出している。女も同じように天井を見上げているが、こちらは呆然としている。
異常な光景に他の客たちは声も出せずに固まっていた。
ガタンと電車が揺れた。
動き出したのは男女とも同時だったようだ。
それぞれが、それぞれの一番近い人間に飛びかかり噛み付いた。
「ヒィ」
誰かの悲鳴が聞こえ、また列車が揺れた。
一噛みした最初の男が顔面血だらけで立ち上がるとまた次の獲物に噛み付いた。首に穴の空いた女もそれに習う。
人の波がギュっとこちら側に押し寄せる。狂気の男女から逃れようと密室の電車の中の逃げ場を求めて。その時すでに、俺は列車の間の扉のドアノブを掴んでいた。
男が四人目の獲物に噛み付いていた時、二番目に噛みつかれた男もうつろに立ち上がり、牙を向いて逃げ遅れて座ったままだった学生に噛み付いた。
「倍々で増えてやがる」
もうこの場にいられない。俺はドアを空けて、次の車両に移る。そしてそのまま、他の客を押しのけて次のドアまで逃げていく。隣の車両の乗客も、こちらの車両の異様な状況には気がついているようだったが、必死に逃げているのは俺だけだった。
三両も移動すると悲鳴は聞こえなくなり、日常と同じ通勤列車の車内だった。
ようやく新宿に到着した。ホームに止まり大量の人々が下車していく。俺は冷や汗に濡れた体のまま列車の入り口から自分が乗っていた車両の方を覗いていた。
「うぇ、なに?」
そちらの方から若い男の声が聞こえた。
扉は開いたが、誰も降りてこない。ホームのそこだけ人が動いていない。
新宿駅に到着した中央線の一車両は、窓が全て真っ赤に染められていた。
中は全く見えない。扉が開くと異様な匂いと、びちゃりとホームに落ちた真っ赤な通勤カバン。
ホームで待っていた通勤客たちは誰も降りてこない列車の車内を覗き込んだ。真っ赤だ。電灯まで赤く塗られ車両の中がよく見えない。
車内から、まるで雨が降っているかのようなビチャビチャと水が落ちる音が聞こえる。
「あの~?」
降車口の先端で乗り込むことを義務付けられていたサラリーマンが車内を覗くと、その顔面は誰かに噛まれ、ドアの床に叩きつけられた。その後ろの女性が叫ぶ前に、車両から飛んできた女が喉元に噛み付いてきた。
後はもう、開いた扉から次々と真っ赤な怪物、サラリーマン、学生、OL、お年寄り、子供。全てが真っ赤な姿で新宿駅ホームに飛び出し、次々と襲い始めた。
真っ赤な連中にとって、無抵抗な獲物が縦に横に並んで待っているようなものだった。
俺は三両離れた場所からそれを見ていた。悲鳴がホーム中に広がり、対岸の別のホームではその光景をみて驚愕している他の通勤客。だが彼らも安全ではない。ホームを飛び出し線路を超えて襲いかかる奴もいた。入ってきた車両に轢かれる奴もいた。発車寸前の山手線の車内に飛び込む奴も…。
俺は危機が迫っているのを察知し、すぐにそばの階段を降りる。駅の構内はまだ事情を知らないのんきな客たちでごった返していた。階段の上のホームの惨状が伝わりきっていない。何人かの駅員が慌ててホームに向かって階段を登っていったが、彼らに何かができるわけではない。警官が行っても無駄だろうし、機動隊でも無理だ。
俺は新宿駅の中を必死に走り、トイレに入る。そして幸運にも空いていた多目的トイレの中に入ると、
鍵を締めて便座に座り込み、ポケットの中にあったコード付きイヤホンを耳にさした。
今やほとんどの人がワイヤレスイヤホンなのに、コード付きなのが恥ずかしくてつけてなかったものだ。
そして携帯で音楽を鳴らした。曲は何でも良かった。
駅構内に波のように押し寄せてくる、悲鳴を聞こえなくしてくれれば。
ここまでくれば、これが夢だと気づく。
「けっこう、トラウマになってんだな」
この夢はバリエーションを変えながら何度も見てきたが、今回のはかなり記憶のとおりだった。
「この後、携帯の電源が切れるまで八時間ほど、そして携帯が切れからも二〇時間ほど多目的トイレにこもっていた」
何度もドアを叩かれたが、人間かゾンビかわからないから一切反応しなかった。
「よそのトイレが空いてるはずだからな」
排泄には困らなかったが食事も水もなかった。ただ、出たら死ぬとわかっていたから籠もっている以外の選択肢はなかった。
「トイレの水を飲まずにすんだのは幸いだった」
俺は携帯のバッテリーを気にしながらちょくちょくとネットを見た。新聞、各メディアに新宿駅の騒動の一報が載ったがそれだけだった。ゾンビの感染スピードが圧倒的すぎた。メディアに自体の詳細が出る前に、東京が墜ちた。
ついに政府は緊急速報を出したが、その一報はまさに断末魔だった。
「カマレルナ」
それだけが不吉な音と共に携帯の画面に現れた。それが日本政府最後のステートメントだった。首都機能がそこで墜ちたのだ。
ねずみ算の恐怖。噛まれた人間が即媒介者として活動を開始して感染者を増やす。
コロナの時には見せなかった指数関数の悪魔が本領を、今回は完璧に発揮したのだ。
半日で首都機能を破壊し、二日で首都圏を破壊した。
その時点で日本は終わったのだ。
ただゾンビが新幹線に飛び込んで、関西圏に飛び込んだとは考えにくい。
俺はその後に海外発の情報で、国内の感染は東京のみではなく大阪、名古屋等の複数の大都市で同時に起こったものだと知った。それが何を意味するのか、数多の陰謀論が世界中を巡ったが、当の日本には関係ない話だった。
すでに日本は終わっていたからだ。
本州は完全に墜ちた。四国も駄目だった。九州も閉鎖が間に合わなかった。北海道は助かったが、現在ロシアの管轄となっている。
本州も離島や山奥の生存者を合わせれば数万人になるだろうが、その運命は決まっている。ロジスティックが壊滅した以上、生き残るすべは殆どない。
国際的な救助活動がなかったわけではないが、米軍の海兵隊が全てゾンビ化して壊滅する映像が流れてからはパッタリだった。
人類はすでにコロナで学んでいた。最悪の疫病は封じ込めるに限る。
そして各国の海岸線を防衛する手間に比べたら、
日本を完全封鎖するほうが手軽だった。
日本の殆どの港は機雷がまかれで封鎖された。
もはや誰も日本から出られない。出てもどの国も決して受け入れない。島国であることが幸いして、全ての国が、この国をなかったコトにした。
「辛い話だが、現実はつねに冷淡だ」
その後の俺がどうしたかというと、新宿駅から脱出に成功し、
色々あって
銀座のペントハウスに住みつき。
人生最高のラグジュアリーな生活を手に入れたのだ。
俺は目を覚ます。自分の手が黄金の水面に浮いている。スイーと動かす。俺の手はなめらかで官能的な手触りのシーツの海を進む帆船だ。
「最高だ」
俺はいま、本当の人生を手に入れた。
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