ゾンビその2
昼間の銀座は、夜中の銀座とは違うものが見えてくる。
そのそも夜間は明かりが一切ないので、何も見えないのだ。
昼間になると、銀座の通りはその新しい姿を見せる。ビルとビルの間に何本ものワイヤーが架けられた姿だ。銀座の大通りの端から端まで何十本ものロープがビルとビルをつないでいた。
このやる気のない蜘蛛の仕事みたいな情景は、俺の一世一代の仕事だ。
俺が全て、一本一本架けていったものだ。
ワインの酔も醒めきっていない俺は、仕事着に着替える。
黒の全身スーツ。
スポーツショップで見つけたウェットスーツの最新型だ。ケプラー繊維が編み込まれていてサメの刃でも貫けない。
そのスーツを着込んだ上からアームカバー、レッグカバーを装着する。全て黒く塗装してある。そしてハーネスを装着する。
肩と背中と股下が一つとなったベルト。高所の作業では欠かせない安全帯だ。フックがついたロープをそのハーネスに結びつけ、腰のベルトにフックを吊るす、二本だ。
そしてリュックを背負い、ヘルメットを被り、マスクをする。
ゾンビ映画を見ていて、いつも思っていたことは
「なんで半袖で出かけるんだよ。全身防護すれば噛まれないだろ」
ということだった。
だから俺は完全防御をする。
全身を黒く覆われた俺には、もう噛まれるような場所はない。スーツも装甲もゾンビの黄色い歯など通さない。
夏場は暑かろうと、改造して背中にクーラーファンを4つも設置している。マスクもポリカーボネイト製の透明なものだ。これからする高度な運動では、呼吸のしやすさは極めて重要だ。
俺は姿見で自分のイケてる姿を確認する。
「バットマンみたいだ」
そうなるように俺は自分で改造した。DIYスーツだ。
「じゃ、アイアンマンだな」
黒いアイアンバットマンだ。
リュックにはこれから必要な道具がぎっしり詰まっている。俺はその荷物の上にさらにロープの束を重ねて背負った。けっこう重量になるが、こらえるしかない。
おれのラグジュアリーな生活のために。
自宅のペントハウスから十階ほど階段で降りると、打ち砕かれた窓ガラスと、柱から外に向かって伸びていくワイヤーロープが見えた。
柱に縛られたロープの末端の締まり具合を確認し、窓の外に続くロープの先を見る。
ロープは10メートル先、5メートル下の別のビルの窓の中にまで伸びていた。
俺は腰の高さにあるそのロープのしなりを確認し、ハーネスから伸びるフックをそのロープに噛ませた。
そして、そのロープの上に飛び乗った。
ロープの太さはけっこうある。とはいっても綱引きの綱ほど太いわけではない。その3分の1くらいだ。
俺は重い荷物を背負いながら、そのロープの上を歩き出し、銀座上空に姿を現した。
下を歩くゾンビで俺に関心を示す奴は一匹もいない。
俺はそろりそろりではなく、ズンズンとロープの上を進んだ。
どうせ安全帯でロープと結ばれているのだ。落ちることは決してない。だったらどんどんと進めばいい。
そうやって堂々と進めば道は開けるのだ、ほらみろ、もう落ちた。
「グヘ!」
落下した勢いがハーネスを通して肩と股に伝わる。空中に逆エビの体勢でプラプラと浮かんでいる。
そんな俺にも、下を歩くゾンビたちは無関心だった。
俺は体をしばらくハーネスに預けた後、手足をロープに伸ばしてオラウータンのようにビルの間の枝を渡っていった。
隣のビルの窓際から這い上がる。こういう場合のために、窓ガラスは全て除去しておいてある。
窓際に立ち止まり、フロアーの空気と音に神経を巡らせる。
すでにゾンビのクリアリング済みのフロアーだが、偶然、階段を昇るゾンビがいないわけではない。湿気のない乾いた空気。ビルの前後の窓に俺が空けた穴を貫く風の流れ。臭いからゾンビの存在は感じ取れない。俺はワイヤーにかかっていた安全帯のフックを外して、ビルの逆サイドに向かう。
会社のオフィスとして使われていたフロアーには人影はないしゾンビもいない(俺が排除した)。ブラインドが上がりっぱなしでデスクの上に積まれたままの書類はすでに黄ばんでいる。テーブルの上に広がった血液もすでに真っ黒に乾燥し、カサカサと風に剥がれて飛ばされている。
ビルの逆サイドについた。ここにも綺麗に空けられた窓と外に向かって伸びるワイヤーがある。俺の仕事だ。
今度は隣のビルまでの上りの勾配がついた綱渡りだ。安全帯のフックをワイヤーに掛け、器用なピエロのように綱渡りを始める。安全帯による絶対の安全保障が、俺に大胆な行動をさせる。今度は半分まで到達してから落ちた。上り勾配に苦労しながら隣のビルによじ登る。
これだけで、2つのビルを移動できた。地上を歩いていたら、命がけの行動になっていただろう。
空中に貼ったロープ回廊は、地面のゾンビの群れの中を歩かないですむための、人間の、俺の叡智なのだ。
そんなことを繰り返して、本日の目標地点に到達した。
ロープからよじ登ってフロアーを進み反対側に到達したが、そこには開けた窓も、空中に伸びるロープもない。
ここが現在のロープ回廊の行き止まりなのだ。今日はここから一本のロープを掛ける。
それが難事業であることは、想像すればわかるだろう。
窓を壊して空ける、ロープの端をビルの柱に結ぶ、ロープを向かいのビルに飛ばす、向かいのビルに地面を歩いて入る、ビルを昇って向かいのビルの柱にロープを結ぶ。
これだけ。超たいへん。
だが、この一本があるだけで、俺のラグジュアリーな世界の境界が広がり、安全性と生存性が増すのだ。
やるしかない。他にすることもないし。
リュックサックに入っていた道具を取り出す。この作業に必要な道具一揃いだけで随分な重量だったから、背中から降ろせただけでだいぶ楽になる。
取り出したのは、昔の火薬式銃、ラッパ銃に似ている道具。
「救命索発射銃」だ。
まずそれを床に置く。
続いて縛ってあったワイヤーをほどき床にきれいに並べる。
そして取り出したハンマーで、窓ガラスを思いっきり叩き割る。ガラス破片の雨が地面に向かって降り注ぐが、手足が切れようともゾンビは文句を言ってこない。
金属のハンマーで窓枠のガラスも全部砕き外にばらまく、頭にガラスが刺さろうと、ゾンビは文句を言ってこない。
ワイヤーを結びつける必要があるが、今回はちょうどいい柱があった。その柱の前に机を置いて、ワイヤーを柱に結んだ。机がロープを使いやすい高さにしてくれる。ロープのこちら側の準備ができた。
俺は救命索発射銃を持って開けた窓際に立つ。ビルの10階だ。地面を歩くゾンビの姿がよく見える。ガラスを頭に刺しておしゃれしている奴もいる。
銃を構え、隣のビルの同じくらいの高さのフロアーに狙いをつける。
本来この銃は、救難救助用の道具で、海の向こうにいる要救助者に対してロープを飛ばすものだ。その射程距離は50メートル。15メートル先の建物ならば、余裕で狙い通り撃てる。
トリガーを引くと、発射音とともに先端部の弾丸が発射され、それに結び付けられた紐が、いくつもの円を描きながらそれについて飛んでいく。
弾丸が向かいのビルの窓を破り中に飛び込んだ。
それを確認した俺は、銃のケースから残った紐を取り出し、ロープの壁に縛られていない方に結びつけた。取れないように入念に、頑丈に縛った。
これで準備はできた。
俺は使い終わった道具を再びリュックに詰め込み。作業のために緩めていた防具を締め直した。
このロープの橋をかけるためには、一度は地上を歩いて向かいのビルにまで行かなければいけない。歩道と車道を合わせてわずか15メートルほどを横切るだけだが、それが命がけの行為であることに間違いはなかった。
ヘルメットをかぶり、マスクをする。
外からは皮膚が一切見えなくなる。人間でなくなった俺なら、この仕事は不可能ではない。
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