ハヤマ・ロイド社の動向 7
社長室で報告を待っていると、朝になってやっと七峰が現れた。昨夜から、自宅にも帰らずに待機している。慌てている姿を社員に見られたくなかったので、椅子で一晩過ごしたが、内心、何度も技師たちのもとへ尋ねて行こうかと考えていた。
「どうなった」と早口で尋ねる。
「無事です」
これを聴いてようやく安堵の吐息をつく。昨夜からずっと呼吸を止めていたような気さえした。咲音クミが消滅すればハヤマ・ロイドは終わりなのだ。
葉巻に火をつけてから尋ねた。「いま、どんな様子かね」
「記憶を、失いました」
「すべて?」片眉をあげる。
「いえ、限りなく真っ白に近い状態、といったところです。幸い、半端な自壊だったらしく、もちろん以前とは比べものになりませんが、真顔で受け答えしたり、ひとりで笑ってみたりと、そんな動きはみせています」
ふん、と笑う。「奇妙な娘だ」
「そしてお喜びください。彼女は歌を覚えています」
思わず乗り出した。「なんだとっ」
「鼻唄を奏でているのをスタッフが見つけたので、ためしに音楽を流すと、くちを開いたらしくて。まだ音程が不完全ですし、振りつけも忘れていますが、これはなんとでもなります」
七峰は力強く頷いた。
どさりと椅子にもたれかかった。なんという奇跡だと口元が緩む。これで短期間のうちに活動を再会できる。
「コンサートに間に合うかね」
「作詞作曲は不可能ですが、咲音クミが出演することは十分に可能かと」
ゆらりと煙を燻らせてから、また吐息をついた。神に祈ったのはいつぶりだっただろうかと考え、そして祈ってよかったとも思った。
さすがに、あの事態には胆が冷えた。歌を忘れたとき以上の衝撃だ。
息子である洋助を音響室から連れだすように指示し、聴こえてくる音から連れだされたことを察した、その瞬間、七峰が叫んだのだ。
――社長っ、と耳が痛いほどの声がした。――咲音クミがっ、という言葉も聴いた。
なので、すぐに音響室へと向かったのだ。
ボーカロイドはスクリーンのなかで、静止していた。じっと一点を見つめ、なにを尋ねても反応しなかった。
すぐに技術者たちを召集し復旧メンテナンスにあたらせたのだが、なかなかいい報せはなく、そこからが待つ苦しみの始まりだった。なんとかしてみせろと怒鳴りつけ、社長室にもどったのだ。
そして、つぎの報告がいまだ。
「記憶を無くしたが、歌うことはできる。なにも問題はない」
「はい。デリート作業の手間がなくなっただけで、予定となにも変わりません。むしろ良いくらいです」
さて、と立ち上がる。「やっとあのコンサートから落ち着くことができたね」
「申し訳ありませんでした」
彼は深く腰を折った。
「構わんよ。ご苦労だった。いやあ気分がいい、食事にでも行こうじゃないか」
ご機嫌ですね、とからかわれた。
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