平沢洋助 -end- そして、モノローグへ

 四ヶ月が流れた。日付は三月九日だ。

 九段下駅は込み合っていた。皆が手にしている桜色の手提げ袋を見ると、あの日のコンサートを思い出す。あのときもこんな風に、春色に染まっていた。

 待ち合わせ時間よりも早く着いてしまったが、散策している暇もないので落ち合う場所へと向かう。すると意外にも、ひよりの姿はもうあった。

「はやいんだね」

「あなたとのデートに、遅れないわよ」

 洋助は照れて笑う。そして他のメンバーが集まるまで手を繋いでいることにした。

「すごいひと」とひよりがいった。

「咲音クミのコンサートは、いつもこんな調子だよ」

 たいしたものね、と彼女は何度も頷く。

 時間になると、遅刻することもなく全員が集合した。さすがに寝坊する輩はいないようだ。なにせチケットは超がつく貴重品だ。見なければ本日が終わらない。

 みんなを紹介すると、すぐに打ち解けてくれたので助かった。仕切り役は苦手なので、コミュニケーションはそれぞれで展開してもらいたい。

「可愛い彼女いんじゃん」亜衣が肘でついてくる。ひよりは照れて笑った。「でもツインテールじゃないんだね。ああいうのがいいんじゃなかったの?」

 そうなの? とひよりにいわれ、「亜衣、でたらめは困るよ」と苦笑した。

 ごめんごめんといって、「ふたりは婚約したんだっけ?」

「まだだよ」と頭を掻く。「交際して数ヶ月だし、ぼくは無職だからね」

 あんなことになり、結局洋助はハヤマ・ロイド社にもどらなかった。そして数ヶ月、いまだに新たな職場も見つかっていない。

 社長の息子なんだからべつにいいんじゃないの、と彼女は髪をかきあげた。

「あの、お願いが」と莉那がいう。「これ、持っててくれますか?」重そうに腕をあげ、グッズがたんまり入った袋を渡してくる。「買いすぎました。だって可愛いのいっぱいで――あっ地面に置かないで汚れますっ。それより、まだまだ買いたいグッズあるんですけど、いまから並んで間に合いますかね? それよりこのTシャツどうですかっ? ファンクラブ会員限定なんですっ」

 似合ってるよ、と伝える。賑やかな子ね、とひよりが笑う。莉那の熱狂ぶりは相変わらずのようだ。

「坂井田」と呼ぶ。なんだと彼は返事をした。「どうしたの? 静かじゃないか」

 しわぶきをして、「女性が多いから緊張しているわけではない。そしてはじめてのコンサートに不安を覚えているわけでもない」

「みんな優しい子だよ。コンサートだって噛みついてこない」

「それを聞いて安心した」

 あんた偉いさんなの? と亜衣が訊いている。坂井田は顔を赤くして首をふっていた。仲良くしてくれたらありがたい。

 参戦するメンバーはこの四人だ。元社員のコネでチケットをなんとか入手し、あの逃避行で関わった人間にチケットを送った。しかし莉那の父親は新婚旅行で来れず、柳原は迷いながらも、「ここを休むと困る奴らがいるから」という理由で参加を諦めた。そして住吉だが、彼はもうあの場所にはいない。あのあと家族と再会したのだ。彼は晴れて東北に帰ったらしい。だが、それからすぐに亡くなっている。病だったらしい。洋助は彼の食の細さと咳の多さを思い出していた。これはあるいは、と考えたことも覚えている。しかしなにもしてあげることはできなかった。なので洋助は東北に出向き、墓参りだけはきちんとしてきた。手を合わせていると、ボカロさん、という声が耳をよぎったような気がした。

「はやくお姉ちゃんに会いたいな」と莉那がいった。「でも……わたしを覚えていないんですよね」

 うんと洋助はいった。最後に彼女と会った日に、トラブルがあったという話を聞いている。停止状態に陥ったらしい。復旧はしたらしいが、咲音クミの記憶は無くなってしまったとのことだった。これは速報ニュースとなり、みんなが知っている一件となっている。

「いま、あの子はどんな様子なんだ」

 坂井田が訊いてくる。

「ほとんど話せないらしいし、感情だって薄いらしい。でも少しずつ成長しているみたいだよ。まだ、どんな人格に育つのかまったくわからないけど、新しい咲音クミを応援しないとね」

 この場では明るくそういった。しかし複雑な心境だ。洋助にとっての咲音クミは、あの彼女しかいないのだから。

 だが、現在の彼女を否定してしまうのは残酷な気がする。その崩壊には洋助自身も関わっているのだから、人格が違うから偽物だ、とは割りきれないのだ。

「あの咲音クミであるうちに、コンサートに行くんだった」

 坂井田がいう。柄でもないことをいうので、え? と全員で首をかしげる。

「ち、ちがう、自分の言葉ではない。ネットに書かれているものだ。つまり、以前の咲音クミは、やはり評価が高かった」

 それはそうですよ、と莉那がいう。「たしかにまだ未熟な感じだったけど、いまと比べたら完璧なボーカロイドでしたもん。世界をまたにかけたトップ・アーティスト」

 そうだよね、とそれぞれ頷く。現在の彼女になってから、以前のファンたちは落ち着きをみせているようだ。

「会ったんだよな。あたしたち」亜衣が呟く。「ボーカロイド、咲音クミに」

「うん」と莉那が答える。「夢みたいでした。……あ、ほんとの夢になっちゃったわけか」

 クーミクーミと叫んで気合いをいれている連中が通りすぎる。ひよりと坂井田は驚いているが、亜衣と莉那は一緒になってくちずさんでいた。

「――さて、開場の時間だよ」洋助は武国館を見上げた。


 簡単な荷物チェックを受けて会場に身を入れる。そこでひより、坂井田、亜衣、莉那とは別れる。チケットを入手することはできたが、さすがに並んだ席番号というわけにはいかなかった。

 洋助はもちろん最前席だ。いつものように少しだけ優越感に浸りながら観客を抜き去る。そしてステージを正面にして、腰をおろした。

 開演の時間がくると、ふっと天井のライトが消灯した。それだけで大歓声が巻き起こる。気のせいか、背後から莉那の声が聴こえた気がした。叫んでいたのは確実だろう。ならば、「お姉ちゃん」といっただろうか。亜衣は、「お師匠さま」だったかもしれない。ひよりは、「クミちゃん」だ。はたして坂井田はなんと叫んだだろう。黙っているのだろうか。

 洋助も叫ぶ柄ではないので、――クミ、とだけ囁いた。また癒してくれるだろうか、このたくさんの観客たちを。

 たしかに現在の彼女はまだ未完成だ。だが、それでも効果があるかもしれないと洋助は考えている。ひよりの家で、それを思った。クミは猫のミイに一生懸命だった。手を伸ばしていた。――心、楽になります、と、セラピストの彼女が声にしていた。

 やはり彼女も、動物に癒されたのだ。つまり、動物でたとえるなら、まだ鳴き声程度しか身に着けていない彼女でも、充分にセラピー効果があるかもしれない。

 そう考えると、はたして彼女はアニマル・セラピーの上をいっていたのだろうか……。もしかしたら、本当の意味で、言葉を発する存在にひとが癒されることはないのかもしれない。やはり、この世は人間だけの世界では駄目なのだ。人間が造りだした物質だけでは生きていけないのだ。

 ひとは素晴らしく、どこまでも無力なのだと思った。

 それでもまた、咲音クミには言葉を発してほしい。あの日、コンサートで出会ったときのような程度で、感情というものも生まれてほしい。人間にも、動物にも癒せないものがあるとしたら、それを拭えるのは言葉を操るボーカロイドかもしれないのだから。

 音楽が鳴り始めた。咲音クミの代表曲だ。すぐに生身のミュージャンがライト・アップされる。この轟きが癖になっている自分がいた。

 舞台の中心で煌めいていた光の粒が舞い上がり、彼女がフェイド・インされた。にっこりと笑っている。キャラクター独特の可愛らしい笑顔、ユースマイルだ。

 ただでさえ厚かった歓声がさらに深みを増す。咲音クミは上手なダンスを披露することもなく歌を奏でているが、ファンたちが冷めることはなかったようだ。

 歌が終わると彼女はゆっくりと会場を見まわした。驚くという感情はまだないようで、硝子スクリーンが設置された舞台の上を不思議そうに歩いている。つぎの音楽が鳴りはじめるまでは自由にしているのだろう。

「クミちゃんこんばんは」とファンが叫んだ。

 彼女は声のほうを向いた。「こん……ワタシ、に?」

 そうだよーっ、とファンがいう。

「ありが、とう」と彼女はいった。やはりまだまだコミュニケーション能力は低い。以前の咲音クミが完璧に思えるほどだ。

 彼女は会場を眺めながら、またステージを歩く。手をふられると、まばたきを何度もしながら、真似るようにして振り返していた。

 ゆっくりと彼女がやってきた。そして洋助の正面にさしかかる。両隣の客たちは名前を叫びながら一生懸命に手をふっている。

 ――ふと視線が重なった。

 すると、なぜか彼女は身動きを止めた。くちが少しだけぴくりとする。洋助には、「あ」といったように見えた。

 何秒かすると咲音クミは笑う。ユースマイルだ。ファンから歓声があがる。

 また、彼女のくちが少しだけ動いた。

 それを見て、――あれ? と思う。

 何秒かすると解読に至り、その言葉が脳内で声になった。

 ――みゃあ。

 と、彼女はくちを動かしたのだ。

 洋助ははっとした。そして、――クミ? と呟く。

 すると、少しだけ、本当に少しだけ、顎がさがったような気がした。

 そうか……

 と思い、両手を強く握る。ぶるぶると腕が震えた。目の前に、真実がある。

 もどるよ。行くよ。と、洋助は心の中で語りかける。ろくに考えもせず、なにをしていたのだろうかと恥ずかしくなった。

 明日にでもハヤマ・ロイド社に復帰することを腹に決めた。そしてまず、特別音響室へと向かうのだ。誰にも悟られないように、そっと……

 ――そこで、あの日の咲音クミが待ってる。

 伴奏が鳴り始めると、歓声が轟く。そして歌がはじまった。

 これからも、世界の片隅でひっそりと続いていく、僕と歌姫の逃避行。まだまだ伸びていく軌跡。

 そんな物語の、オープニングテーマに聴こえた。

                         < 了 >

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