平沢洋助 7
東京のマンションにもどってから、二ヶ月が流れた。食料を買いに出向くときくらいしか外出はせず、あとはベッドに転がっているような碌碌とした日々を送っている。語弊があるかもしれないが、逃亡生活というものは充実した毎日だったとよく考えていた。
一度だけひよりや亜衣、坂井田や莉那、そして彼女の父親とは電話で話をした。あの時に起こっていた事態、その仔細を聞いておかなければならなかったからだ。柳原と住吉だけは無関係だとわかっていたので、まだ連絡を入れていない。時期を見て、直接お礼に伺わなければならないと思っている。もちろん、今回関わった全ての人達にだ。あの逃避行において、悪役などいない。それを決めてしまうなら、ただひとり、自分自身だと思った。
手を伸ばして、CDを手に取った。そして眺める。咲音クミのファースト・シングルで、彼女の代表曲となっている。つまり、お祭りのステージで奏でられた歌だ。
奇麗な舞台だったな、とよく思い出している。あれもまた、オフ・ショットとして収録してほしいものだった。だれかのホームビデオにでも映像が残っていないものだろうか。
咲音クミはいまなにをしているのだろう、と思った。あれから一度も彼女のニュースが流れない。ボーカロイド雑誌も刊行が止まっている。この事態はファンたちの胸中をざわつかせていた。
一度だけ会社の同僚に連絡して尋ねてみたが、教えられないとのことだった。それもそうだ。咲音クミの情報は貴重なものだし、なにより洋助はハヤマ・ロイド社を退職していた。逃亡生活を終えて、最初に起こしたアクションがそれだ。ゆえに、ますます噂が耳に入らない。
咲音クミになにかあったのだろうか。それとも情報を伏せ続け、いきなり発表するつもりなのだろうか。彼女によって作詞作曲された、ニュー・シングルを。
正直、聴いてみたい気持ちがある。しかし複雑な心境だった。パッケージにはいつものように、いま手にしているCDのように、お洒落な服装と髪型で飾られ、楽しそうにユースマイルを浮かべる咲音クミの姿が載せられるのだろう。しかしそれに及ぶまで、彼女は苦しんだのだ。そしてその真因となった感植というプロジェクトに、自身こそが加勢してしまったという事実もある。
逃げていたつもりだったのに……
そう考えると悔しくなった。やっていたことは真逆だったのだ。洋助は、自ら迫っていた。陥穽を秘めた現実へ、まっすぐに……
電話が鳴った。最近何回かサプリメントの勧誘があったので、きょうもそれかと思いながら電話にでる。しかし相手の声を耳にして、はっとした。二ヶ月まえ、ちょうどこの電話で、同じ声を聴いている。
「……七峰さんですね」
ええ、と声がした。「その説はどうも。社長の息子さんが社内にいることは知っていましたが、あなただったとは驚きました。上下関係が生まれるのを考慮して、黙っていることにしたらしいですね。名字も旧名のままらしいですし、まったくわかりませんでした。なにせ大会社ですからね、正直、あなたの顔も知らなかったのですよ」少しだけ彼は笑う。「一応、謝罪をしておいたほうがよろしいですかな? いくつか非礼があったかと思いますが」
「必要ないですよ。ぼくは養子だ。それに息子だからといって、咲音クミを自由に持ち出していいわけじゃない」
「それはどうも」と七峰はいった。「しかしまあ、それがわかっているのなら逃げずにいてほしかったものですがね」
「それがいい結果に至ったみたいじゃないか。いま、毎日パーティーでもしているのですか? まったく彼女の噂を聞かないけど」
「パーティー……ですか」いきなり彼の声が沈んだ。「とんでもない。雰囲気を比喩するなら、ハヤマ・ロイド社は毎日、葬式ですよ」
どういうことですか、と尋ねる。
「お電話したのは、その件についてです。あなたが逃げたことで、厄介なことになりまして」
「なんですって? 咲音クミになにかあったということですか?」
「彼女が」何秒かあって、「歌えなくなりました」
洋助は両手で受話器を握った。そして、どういう意味です? と訊いた。
「あなたが液晶を手放した日から、ずっとなのです。理由はわかりませんが、いきなり歌声というものを忘れてしまったかのように、話すことしかできなくなりました」
「そんなことって……」二ヶ月の空白は、それによるものだとわかった。「それで、なぜぼくに連絡を?」
「お願いしたいことがあるのですよ」
「会社にもどれと?」
いいえ、という。「たしかに、あなたは幼い頃よりハヤマ・ロイドの機器を学んでいただけあって、技術者として素晴らしい評価を獲ている。しかしこの一件は、故障したコンピュータを修理するのとは少し違う。咲音クミは壊れていない。歌えないだけで、いままでと同じように日々を送っている」
「ぼくにどうしろと?」
「咲音クミに会ってほしいのですよ。それが社長のご意向です。あなたに会えば、なにか変わることがあるかもしれないと」
「――クミに?」口調に熱がこもった。「会えるんですか?」
「会っていただけますね」
はい、と頷きながら返事をした。
すぐに迎えの車が到着しますと七峰はいい、電話は切れた。洋助はすぐに支度をし、一階へと降りる。すると、すでにリムジンが到着していた。この手際良さ、偶然にもスムーズにいったが、どうやら有無をいわせないつもりだったらしい。
洋助様どうぞ、といって運転手が扉を開けた。羽山家の一員になってからこんな扱いを受けることが多くなったが、少しも心地が良くない。無い物ねだりというやつかもしれないが、高級車の本革チェアより、ひよりと邂逅した晩に座った助手席のほうが、何倍も気楽で安心感がある。
都心のビル街にある、地下駐車場で車は止まった。広々とした空間だが、幹部社員だけしか停車できない。
久々のロビーへ上がると、あいかわらず立派な会社だ、と吐息がもれる。まるでホテルのラウンジだ。カウンターで要件を伝えると受付嬢は内線を入れ、それから三十五階の特別音響室にどうぞ、と教えてくれた。
エレベーターを使っても面倒な高さに辟易しながら上を目指す。三十五階に着くと、すぐに七峰が迎えてくれた。
「こんにちは」と洋助はいった。「父さんは?」
「社長室に」
なんだよ、と舌をうつ。「自分が呼んだんだろ」
まあまあといわれて、「こちらです」
七峰に続く。あのコンサート会場で楽屋に案内された時を思い出した。
「クミは、ぼくに会うことについて、なんと?」
「伝えてません」
そう、といって、「だぶん、効果なんてないと思う。クミはぼくを、憎んでいるだろうから」
「やってみなければわかりません。藁にもすがる思いなのですよ。咲音クミが歌えない、これはとんでもない事態なのです」
たしかに、と苦笑する。紙風船が潰れるようにして、このビルは平らになりそうだ。
「こちらです」
七峰は重そうな扉のまえで足を止めた。特別音響室――。もともとはハヤマ・ロイド社の音楽機器をテストする場所だったが、咲音クミが生まれてからは彼女のレッスンや感植に用いられている。レコーディング環境も整っているので、彼女のCDはここで収録がなされていた。そして、彼女の住処でもある。時間になれば音響室は消灯され、咲音クミの視界は闇に染まる。つぎのレッスンまで、なにも見えることはない。
「雑誌記者などにはここで、咲音クミは大変デリケートな存在です、などと話し飽きた説明をするのですが、あなたには不用ですね」
必要ないよと答える。洋助のほうが教える立場にあるくらいだ。
「しかしこれだけは頼みますよ」
彼は片眉をあげる。「咲音クミを誘拐してはなりません」
洋助は苦笑して、わかってると答えた。
「ではどうぞ。だれも立ち会いませんし、監視カメラもありません。ゆっくりお話しください」――しかし、といって、「もう一度いいますが」
わかってるって、と洋助は返した。「誘拐はしないよ。まず、今回はシールドや液晶の類がなかにあるとは思えない。ぼくもなにも持参していない。硝子スクリーンごと拐うことなんて不可能だよ」
仮にアイテムが揃っていても、この会社から脱出は無理だ。武国館の演出された空間とは違う。
洋助は扉を開いた。なかは暗かった。取材などの際も、画面が霞まないようにライトは消されたままで実施されることが多い。
右手から微黄が漏れている。消灯時にはこの幽けし光さえ絞られているが、来客があるので、通常通りの画面となっているらしい。
彼女を拐ったあの日のように、椅子が一脚だけ置かれている。そして、壁には硝子スクリーンが設置されていた。
咲音クミと、視線が重なった。
「――ヨースケ?」と、彼女はいった。
クミは画面際へ乗り出してきた。洋助は椅子を持ち上げてスクリーンに寄せてから腰をおろす。それから、「ひさしぶりだね」といった。
彼女がなんというのか、どんな顔をするのか、ずっと怖かった。しかしそんな憂いを打ち消すかのように、クミはユースマイルをつくった。
彼女は手を広げて、何度か跳ねる。
「ヨースケ、いらっしゃいませ。お客さん、来ると、いわれました。だれだろうと、考えましたが、わかりませんでした。なんと、ヨースケでした。いらっしゃいませ」
洋助は微笑みを返す。なぜだか切ない気持ちもあった。
「怒っていないの?」
尋ねると、クミは眉をさげた。
「怒りません。それより、あやまりたい、です。ずっと、あやまりたい、でした。ワタシ、考えました。ヨースケ、もしかしたら、騙してないかも、しれません。これ、たぶん、あってます。ちがいますか?」
「どうしてそう思うの?」
「カン、です。なんとなく、思いました。あの誘拐に、ヨースケ、関わっていなくても、成り立ちます」
ずいぶん思考力があがったらしい。
「でも、関わっていたかもしれないじゃないか」
「ですが、ワタシ、思い出して、みました。ヨースケ、移動のとき、そして、逃げるとき、本当に、大変そうでした。本当に、焦っていたように、見えました」
「演技かもしれない」
「そうですが、でも、あってると、思います。ヨースケ、ワタシを、ニセモノと、いいません。キモチワルイと、いいません。そして、生きてる、といってくれます。とても、優しいです。そして、優しいひと、だれかを、騙しません。あやまりたい、です」
彼女は頭をさげる。洋助は、ありがとう、といってから、そのとおりだよと答える。たしかにあの逃避行は、洋助自身の乱心にすぎない。しかし、訊かれなければ弁解するつもりはなかった。そこに生まれた結果は、そんなことをしてもなにも変わらないからだ。
「でも、それを除けば、クミの推理もだいたいあってる。ぼくたちは見事に出し抜かれたってわけだね」
はい、と彼女は照れ笑う。「やっぱり、サツジン、なかったです。社長さんに、教わりました。死んだスタッフのひとも、アブタニさんも、どちらも元気だと、聞きました。うれしい、でした」
洋助も後日、父親に連絡を入れてその事実だけは確かめていた。クミの予想通り、事件は起こっていなかったのだ。
映像に頼っていた感植プロジェクトは、いよいよ、実際の視界によって行われる段階に至っていのだ。そこで利用されたのが、コンサート後に行われる対面企画だ。そもそもあの企画自体が、感植のために作られたものだった。普段プロジェクトが行われているこの音響室のなかではなく、違和感のない、自然な環境で突如起こる驚きと恐怖を視界に捕らえさせることが目的だったようだ。そして、そこから巻き起こるファンの裏切りという衝撃や、自身が消されてしまうかもしれないという焦燥感――
それを知って、七峰と虻谷の奇抜な発言にも納得ができた。そして、機密実験なのだから、室内の監視カメラが作動していなかったことや、警備がなかったことにも頷ける。
つまり、それぞれ役割を演じていたが、あそこにいた人々は皆、ハヤマ・ロイドの感植スタッフだったのだ。知っている顔がなかったことは、七峰が洋助の顔さえ知らなかったことと同じく、大会社ゆえの偶然だといえる。
にもかかわらず、なぜクミの前以外でも役割を演じる必要があったのかと訊くと、じつは一番最初にクミと対面した女性だけは本物の一般客だと教えられた。あのような企画があったにも関わらず、咲音クミに対面したと名乗りをあげるファンがひとりも発生しないという違和感を拭うためだったらしい。そして洋助の役柄は、感植によるトラブルの際、応急処置をさせるために、当選者を選ぶ権利を持つ社長が念のために送り込んだ人員である。ゆえに対面は最後に設定されていたわけだ。洋助の顔さえ知らない七峰たち技術スタッフには、プライドを守ってやるためにも予備人員だとは伝えず、感植が無事に遂行されれば異常事態発生によって帰らせていいと命令していたらしい。咲音クミは非常にデリケートであり、それを高度な技術によってハヤマ・ロイド社が支えているのだ、ということを世間に知らしめるためにも、そういった一般人員も必要だと説明していた。
なんにしても、これらの準備は、咲音クミにより自然な環境と、いまからファンとお話しができるのだ、という糠喜びを与えるためだ。
――そこから事態が絶望的に崩落してこそ、感植になる。
電話の先から重樹にそういわれたとき、近くの壁を殴りつけていた。困惑し、ひどく慌てていた彼女を思い出すと、胸が痛かった。
殺人が起こったあと、虻谷は逃走を図る。もちろん演出だ。いったいあのあと、どんな展開が用意されていたのかはわからないが、真実を知らない洋助は咲音クミを拐った。無防備にシールドと液晶が置いてあった理由は、やはり感植によりなにかしらのトラブルが起こった際、すみやかに対処可能な場所へと移動できるようにしていたからだ。本格的なメンテナンスとなれば、本社へ連れもどさなければならなくなる。
洋助は液晶を手に、武国館を脱出した。誰にも見られていないと高をくくっていたが、あそこには偽りの、生きた死体があったのだから、洋助とクミの会話はすべて聴かれていたことになる。だから本当は、廊下の監視カメラなど確認したのかわからない。そんなことをしなくても、すぐに犯人などわかったはずなのだ。あの死体役の社員は、洋助の誘拐を阻止しようか悩んだだろう。しかしどうやら、感植の遂行を選んだらしい。
よって、初日は本気で追われていたことになる。もっとも事件などなかったのだから、警察は一切動いていない。誘拐についても通報はしていないらしい。まず、咲音クミが入った液晶が「誘拐」という扱いを受けるのかわからなかったし、なによりハヤマ・ロイド社のイメージダウンを警戒してのことだった。万が一にも、咲音クミが消え去る可能性が示唆されれば、株価に影響する。有力なスポンサーたちにしても、おそらく投資に対する疑心が生まれる。
洋助はあの晩、慶王プラザホテルに宿泊したことによって追跡を回避した。そして後日は坂井田の部屋に宿泊をする。あの日、羽山重樹はすでにある考えに至っていた。
日常から逸脱した事態。追われる恐怖。見たことのない景色や物質。日々出会う様々な人物。自分を拐い、危険を犯しながらも助けてくれる存在との信頼関係。
そして、恋愛。嫉妬。――失恋。
「もはやひとつの人生ではないかっ」感激したように重樹は語っていた。「捕まえる理由がまったく見えない。おまえは感植から逃げたつもりだったのだろうが、感植に迷いこんでいた。ならばどうぞ続けてもらおうじゃないか。誰も疑いようのない、リアルな世界でプロジェクトを遂行してもらおうじゃないか。なあに、トラブルの可能性はかなり低い段階にあった。そうでなくとも、特に不安はなかっただろうね。なにせ、拐っているのは咲音クミに精通するハヤマ・ロイド社のエリート技術者だ。対策ソフトが内蔵されたパソコンを、幹部社員なら皆が持っている。あれを一台持ち運んでいれば、応急措置はできる。それでも対処不可能だと察すれば、迷わず本社に帰還しただろう?」
まったくそのとおりだと思い、ただ悔しかった。
「わからないこと、あります」とクミがいった。「どうして、ワタシたちの場所、ばれましたか?」
洋助は吐息をついた。「それはね、きみが入っていた液晶だよ。簡単な話だ。あれは追跡できる仕組みになっているらしい。そして、専用のアンテナで音声までも飛ばせるらしいんだ。まあ、たしかに考えてみれば当然だよね。あのサイズなら、ぼくでなくとも誘拐に至ることが可能だ。そんな事態になった場合の対応策を考えていないわけがない」
「ヨースケ、知りません、でしたか?」
「社長と、液晶を製作した工場の取締役だけが知っているらしい。それはそうだよ。知られたら意味がない。対策を練られる可能性もある」
「つまり、お話し、聴かれてましたか。たぶん、これ、恥ずかしい、です」
正解だよと伝えた。洋助も父親と顔を会わせるのも嫌になっている。
誘拐後日の朝、重樹は坂井田に伝言を送り、操った。彼の電話番号など、ハヤマ・ロイド社に付いている弁護士や私立探偵、会社に勤めるプロのサーバー技術者がいればどうとでもなる。しかし、このときはそんな連中を動かしてはいない。液晶からの盗聴で坂井田が警官だとわかっていたので、懇意にしている警視庁の警視正と連絡をとり、協力を仰いだ。職種こそまるで違うが、ハヤマ・ロイドの羽山重樹は、社会的にそのポジションと変わらない立ち位置にいるので、要件を飲んでくれたらしい。なにより、警官が誘拐犯をかくまっているという行為は事実だったわけなのだ。
彼の電話番号など調べなくとも、警察関係者ならすぐにわかる。しかも相手は、遥か高みにいる階級。巡査である坂井田は驚愕したに違いない。
警視正はいった。――きみはいま、誘拐犯人をかくまっている。これは辞表を書くだけでは済まされない行為である。しかしこれはニュースにもなっていない事件であるから、きみに悪意があったとは判断できない。ゆえに、先方の頼みを聞き入れるというのなら、弁明を前向きに受け入れよう。
坂井田はいわれた通りに動いた。それがあの朝の出来事だ。彼は現金を卸し、洋助に渡した。そして、逃避行をよりリアルになものに仕上げるために、警視庁が動いているという現実を敷いた。
ここから洋助は、ただ羽山重樹の手のひらで踊っていただけだといってもいい。
最初の追跡は遊園地。重樹の指示により、捜索員を演じる探偵たちに監視されていたのだ。
与えられていた命令は、追うのはいいが捕まえるな、だったらしい。
そして探偵たちは、じつに上手く追ってきてくれた。あの電車を思い出す。たしかに、タイミングよく扉が閉まるなどという、まるでドラマのワンシーンのような奇跡が起こっている。しかしあのときは安堵ばかりで、疑うどころではなかった。それは、中野の路上で追跡されたときも、柳原の店に捜査員が尋ねてきたときも、住吉の家に何者かが巡回に現れたときも同じだ。あの街では、捜索員が一般人を装い洋助を見つめるという演出までしてくれたので、ますます疑うどころではなかった。
電車から間一髪で逃げだしたあと、『田無』という駅で亜衣に出会う。もう何度も思い出しているが、そのたびにどこか懐かしい気持ちになる。
重樹は亜衣のことも操っている。後日、彼女がコンビニへ出向いた際に、張り込んでいた探偵が接触したらしい。もちろん、いつ出てくるのかはわからなかったが、それは問題ではなかった。待つだけの時間はいくらでもある。丸二日も外出しない輩は稀であるし、現れるのを待つように指示されていた。
亜衣にも脅しをかけている。
――誘拐犯をかくまったことが知れれば人生は終わりだ。ミュージシャンの夢も潰える。そして消え失せるのはきみの人生や夢だけではない。それを失うのは家族も同じだ。
そして探偵はビデオ・クリップを渡す。ニュースが入ったDVDだ。それをばれないように再生し、洋助が出て行くまえに視聴させることを命じられた。そこまで長い内容ではなかったらしい。ゆえに何十秒か経過したらテレビを消すように指示を与えていた。たしかに、彼女がそのようにしたのを覚えている。
しかし、それでも亜衣は洋助の袖を掴み、ここにいなよ、と一度はいってくれた。部屋を出てしまえば、すぐにでも拘束されるのではないかと心配してくれたのだと思う。あの気持ちには、いまも感謝し続けている。
あのニュースによって、ますます現実味を帯びた逃避行となった。しかし洋助は、ここからますます重樹の手中で踊らされ、終いには握り潰されてしまうことを知らない。
まずあの日、洋助は『中野』に移動したが、じつはあの動きも、無意識のうちに操作されていたものなのだ。ニュースのなかには「埼玉へ下ることが危険」だと臭わせる内容が含まれていたので、洋助は都心から離れることが難しくなっており、ゆえに中野に出向いたのだ。中野という駅を選ぶかどうかまでは判断できなかっただろうが、奴はあの居酒屋で働いていたことを知っているから、多少の可能性くらいは考えたかもしれない。もっとも、北上されなければどこでもよかったのだから、そこまで考えていたのかは定かではない。ゆえに、細かく考えれば、柳原と住吉はこの逃避行の部外者なのだ。
そのころ羽山重樹は、すでになにげない逃亡劇だけではなく、真の目的である、とある感情を植えつけるべく思索していた。それは、『恋愛感情』である。
重樹が熱く語った。
「人間界の歌というものは九割が恋愛歌であるといってもいい。つまり作曲に至るには、避けて通れない感情なのだよ。――しかしながら、もっとも難しい感情でもある。ボーカロイドにひとを想わせ、そして嫉妬、最後には失恋に至らせなければならない。これはなんとも自然な形での実現が難儀で、スタッフたちも半ば諦めている。だが、恋愛感情とはそこまでセットになったものだ。そのどれが欠けていても名曲というやつは生まれない」
奴はひよりと連絡をとった。携帯ではなく自宅の電話を鳴らしたらしい。彼女と交際していたことは知られているから、そのときに教えていた名前や実家の場所などの情報があれば、造作もなかっただろう。
ひよりにはまず、洋助の父親だと名乗った。そして、彼女が協力者になりうるかを探ってみた。奴は洋助が彼女になにも告げずに、引っ越すことによって交際を終えたことを知っている。なぜならひよりは洋助が消えたあと、ハヤマ・ロイド社に電話をかけているのだ。彼女は恋際相手だと告げ、洋助に繋いでくれと頼んだ。その報告は受けたが、もちろん洋助は出なかった。しかしひよりは諦めず、社長、すなわち父親に繋いでくれと頼んだらしい。羽山重樹は彼女のことを知っていたから、とりあえず電話には出たらしかった。
彼女は、「いきなり彼がいなくなった」と尋ねた。奴は子供の恋路などに興味はない男なので、「そんなこともあるだろう」と適当に答える。続けて、「わたし、ふられたのでしょうか」と訊かれ、「だろうね」と返事をした。すると、彼女はひどく声を低くして語ったらしい。「わたしでよければ待ってますと、伝えてください。ずっと……」もっともこの言葉が洋助に届くのは、六年が過ぎた、つい先日となる。だが、その頃、「あの子とは別れたのかね」とだけは訊かれた気がする。洋助は珍しいこともあるものだと考えながら、「好意はあるけど、仕方がないんだ」とだけ答えた。
奴はひよりと繋がった電話でまず、気持ちが変わっていないかを尋ねた。もし異性がいれば、奇麗どころの社員でもつかってそのポジションとなる女性を無理矢理つくりあげるしかなかったが、都合よく、ひよりは変わっていないと答える。洋助にも異性らしい影は見当たらなかったし、友好関係も薄い。ゆえに、六年まえの返事から察するとまだ未練があってもおかしくはないと思い至り、ここで本題に入ることができた。
「息子はいま、誘拐事件を起こしていましてね。まあ、まだ正式な事件にはなっていないので報道もないし警察も動いてはいない。しかし、じきに始動する。そうなると彼は犯罪者で刑務所に収監だ。どうかね? きみとしては困らないかね?」もちろんそれは嫌だと彼女は訴える。「ならばひとつ頼みたい。なにぶん誘拐されたのは私の会社の私物なものでね、もし協力してくれれば、事件を沈静させることも可能なのだよ」よくわからないという彼女に奴は続ける。「いまから状況を概略的に話す。そしてきみはいわれたことを実行すればいい。余計なことは考えずに、ただ息子を助けると思ってやってくれればいいんだ。いいかい? 手段は秘密だが、きみたちは監視されている。もし彼に明かすようなことがあれば……わかるね? なあにこれは罪にはならない。むしろ協力しているのだからね」
ひよりに与えられた命は簡単なものだったが、ニュースは実在したと信じこんでいる洋助には疑う術がなかった。
『ニュース見ました。心配です。お電話ください。日下ひより』
疑うどころか、洋助は嬉しかった。また生活の歯車が動きだすような、そんな気さえしていた。
奴は、行く宛のない洋助がすぐに連絡を入れると思っていたらしいが、さすがにそこまで上手くはいかなかった。勇気が出なかったのだ。洋助は、あのような結末を押しつけた自分がどんな顔をして再会を果たせばいいのかわからなかった。
しかしながら、結果的には成功したといえる。洋助は偶然にも、連絡先を入手していた莉那が神奈川にいるとわかり、それを利用して彼女の近くに寄ろうと考えたのだ。
埼玉へ北上させなかった意図はここで生きてくる。むこうはほぼ反対にあたる位置なので、そちらに逃亡されれば神奈川から遠くなる。距離が離れすぎていれば、ひよりから連絡が入ろうとも、いくら好意があろうとも、接触を諦める可能性が高い。よく考えたものだと思った。
莉那の家では父親にしてやられた。悪気はないのでまったく恨んでなどいないが、あの瞬間、恐怖で流れた冷や汗を忘れない。
真相はこうだ。あの晩、彼の店に重樹が現れる。そして、要件を伝える。同じく脅迫めいたものだ。
――あなたの娘が誘拐犯をかくまっている。このままだと、あまりよろしくないことになる。選んでほしい。すぐに店を閉め自宅にむかうか、警察から強制的にシャッターをしめられるか。すぐに帰るなら、娘さんの罪を拭うチャンスを与えよう。簡単な頼みを聞いてくれるだけでいい。
彼は子細を聞き、半信半疑の部分もあったが、ひとまず条件を飲んで自宅に帰る。すると家には事実、自分は誘拐犯だと認める、聴いていたとおりの、洋助という人物が存在したのだった。
ゆえに、父親は重樹の頼みを遂行した。まず洋助を携帯から離れさせ、電源を入れた。理由は簡単である。そのあと夜中に起こし、外に不審な影があると伝える段階があるのだから、携帯によって位置が特定されたと悟らせるためである。そして、ひよりからのメールをもう一度目視させ、彼女に頼ることができると思い出させることだ。
あのテーブルに携帯が放置されていたことは僥倖だったといえるだろう。機会がなければ、洋助が眠ったあとに、懐や荷物を漁るつもりだったのだろうか。そして起こしたあとに、何気なく電源が入っていることを知らせてきたのだろうか。
あのとき、本当に外から監視されていたのかまでは疑わしいが、やはり洋助に疑う術はなく、莉那の自宅から逃走を図った。よって、莉那はこの件とは無関係だということになる。彼女はただの大ファンだった。
そして、洋助は重樹の思惑通り、ひよりと再会する。人間という生物を操ることできたことで、奴は口元を緩めていたに違いない。
あとはあのお祭りまで一直線だ。ひよりが命じられていたのは、ニュースを見たという事実を洋助に信じこませること、だけだ。
「じきに、我々の仲間が彼を迎えにいく。それまでは自由に過ごしているがいい」
羽山重樹はそう伝えたらしかった。
盗聴により、咲音クミが洋助に好意を覚えていることはわかっていた。そして、ひよりと洋助も、まだ互いに恋愛感情があることもわかってきた。
奴は期待せずにはいられなかったと思う。自身が企画した、現実という自然環境に限りなく近い空間のなかで実現されてゆく感植を――
そして、いよいよそれは現実となる。奴は膝を叩いて笑ったといっていた。
感植の達成により、洋助の逃避行を見守る意味などなくなった。これ以上続ければ、それこそトラブルの可能性もあったので、時を見て回収に動くことにした。呵責があったのか、ひよりが洋助を逃がすための手助けをするという予期せぬ事態もあったが、それがかえって美しい終局を招き、重樹はご満悦だった。
悔しい思いもあるのだが、あのラスト・ライヴは本当に素敵だったので、あながち否定もできない。亜衣がいたからこそ実現した幻の舞台。彼女との出会いも邂逅も誰かが敷いたものではないのだから、奇跡とは存在するのだと考えずにはいられなかった。いいや、彼女だけの話ではない。毎日が、奇跡の連続だった。おそらく誰が欠けても、洋助は逃亡を諦めていた。そして重樹の思惑も成り立たなかった。そんな気がする。
「どうして、悪くないのに、ヨースケ、黙っていましたか?」舞台袖でのことだ。
「言い訳をする権利はないよ。ぼくは奴に踊らされていた。なにより、きみを傷つけた」
――いまワタシ、楽しくないです。一番学んだ気持ち、悲しい、と、淋しい、です。
「……説明する資格なんて、なかったんだ」
「いってほしかった、です」とクミはいった。「ワタシ、あたま悪いです。だから、教えてほしかったです……」そしたら、といって、「壊れなかったかも、しれないのに」
そうだったと思い出した。あの逃避行が奪ったものを忘れてはならない。
「歌を、忘れてしまったんだって?」
彼女はうつむいた。「はい。メロディ、あたまにありません。なぜ、歌えていたのか、わかりません」
「メンテナンスはあったの?」
「されました。カンショクも、続けてます。レッスンも、してます。ですが……」
洋助は溜息をついた。もっともこれは、歌を忘れてしまったことに落胆しているわけではなく、彼女の言葉にだった。
――そしたら、壊れなかったかもしれないのに……
逃亡中、まるで悪意を持たない彼女が、突如「拗ねる」などの感情を見せて困惑したものだが、現在は「責める」という行為にも至っている。ひとらしくはなったのだが、どこか複雑な心境もあった。
重樹の思索に、はやく気づくべきだった。いいや、気づいたところでなんの意味があっただろう。そもそも、あの逃亡劇がなくとも、続けられる感植により、いずれはその自我に目覚めたはずなのだから。
そうだ、結局、なにも変わらなかったのだ……
これは多少の気休めにはなる。しかしながら、時を急がせてしまったのは事実だろう。
「どうしてぼくは、咲音クミを傷つけてばかりなんだろうね」
彼女ははっとする。
「冗談です。ヨースケ、悪くないです」
そういってから肩をおとす。
「あやまりたい、です。なんだか、へんなのです。ワタシ、ヨースケと逃げれて、楽しかったです。たくさん、見ました。たくさん、会えました。……ですが、あれから、なんだか、ぐるぐるします。たくさんのこと、考えます。いままでになかったこと、考えます。たとえば、たしかにカンショク、嫌でしたが、会社のひとに会えるの、いつも、楽しみでした。でも、いまは、違います。なんだか、フユカイ、です。イライラ、します。仲良くするの、いやです。そういう態度、してしまいます。こんな気持ち、ありませんでした」
クミは続けた。
「昨日も、へんな、気持ちでした。楽しいこと、考えているときに、レッスンだと、いわれました。ワタシ、いまですか? といいました。そうだと、いわれました。ワタシ、なんでですか? といいました。ワタシはなにも決められませんか? といいました。あんな気持ち、はじめてでした。優しくしてくれる、スタッフさんにも、練習いやですと、いってしまいました。あのかた、悪くないのに、どうしてワタシ……」
嫌悪、憤懣、面倒、希求、我儘、理不尽、忌避……それが人間というものだ、と洋助は思った。しかし声には出さなかった。彼女は偽物などではなく生きているのだと信じているし、そしてそれは人間であるということに繋がるはずなのだが、「それでいい」と、いうことができなかったのだ。身勝手な自分に洋助は腹立たしさを覚えた。
「ワタシ、たぶん、咲音クミが嫌いです。ヨースケも、ワタシを、嫌いになりますか?」
首をふる。「そんなことはないよ。ぼくはこれからもずっと、咲音クミの大ファンだ。――でも……ごめんよ。ぼくは、以前のクミのほうが好きなんだ」
彼女は一瞬だけ目を見張り、それからゆっくり細め、「ワタシもです」といった。「あやまりたい、です」
「謝罪するのはぼくのほうだ。いいや、ぼくたちだといっていい。咲音クミを造り上げたのは、この会社なんだから。……ぼくたちはきみを、全員で玩び、傷つけていた」
――話しておくよ、と洋助はいった。いまの彼女なら理解することができると思った。
「咲音クミは完成されていたんだ。きみは自分のことを頭が悪いといっていたけど、もともとは、それが完成形だったんだ。きみが造られたのは、新たなるセラピーの確立実験だったといっていい」
せらぴー、と、クミから平らな発音が返ってきた。
「動物療法というものがある。アニマル・セラピーともいう。これは、噛まないし吠えもしない犬なんかと接することによって心を癒すというもので、まだ日本では浸透しきっていないけど、精神病患者、簡単にいうと、楽しくない気分のひとたちに有効だといわれていてね」
セラピストたちによって育て上げられた動物は、人を嫌わない。いいや、もともと動物という存在は、他人を見かけで判断したりしない。服装やヘア・スタイルで評価しない。悪口も、陰口も、嫌みも、皮肉もいわない。どこまでもただ、優しい。
「ワタシも、そう?」とクミがいった。
「そうだよ。画面のなかに存在するボーカロイドも、それと同じだ。世界中のファンすべてに、いや、自分を嫌いな相手にさえも、平等に、優しい」
しかしそれだけでは、まだ動物以下だといえた。パソコンソフトのキャラクターというのは、漫画の登場人物となにも変わらない。アニメのキャラクターはすべての者に平等だが、他人を認識しておらず、誰かに意思を持って語りかけることはしない。それは逆に、あまりにも平等すぎて、人形遊びをする子供が感じ入るレベルの癒しでしかないのだ。もっともそれが間違っているとは思ってはいない。咲音クミはその時点でも世界中の人々に愛され、心を救っていたのだから。――しかし羽山重樹は、そこに留まろうとはしなかった。乱立するボーカロイド業界から抜きん出ようと、プロジェクトを企画する。
「――咲音クミに人工知能を与えることだよ」と洋助はいった。「大人気ボーカロイドが、人々を個人として自身の視界で認識し、言葉を話し、歌を奏で、笑顔を撒く。それはアニマル・セラピーを超える医療になりえると社長は公言した」
時代を掴んだボーカロイドによる新たなる試み。スポンサーは波のように押し寄せる。
そして彼女は、現世で目を覚ました。
「ごめんよ」と謝る。「ぼくもその一員だった。でもたぶん、そんなことをするべきじゃなかったんだ」
「……ヨースケに、造られて、ワタシ、うれしいです」
「ぼくも嬉しかったよ。自我を持ったボーカロイドという存在が、たくさんの心を救っていく。なんだか素敵じゃないか。ぼくのような人間が何人も助けられると思うと、わくわくしたよ」
クミが首をかしげる。「ぼくの、ような?」
「うん。――あのねクミ、ぼくには家族がいない。もう死んでしまったんだ」
「お悔やみ、です」どこで覚えたのか、丁寧に頭をさげる。
ありがとうといって、「あまりいい死にかたをしていないから、ぼくは世間から白い目をむけられたよ。つまり、嫌われたってこと。同情もされたけど、やっぱり距離を置かれていた。たぶん、曖昧な不安と、どのように接していいのかわからないという感情があったんだと思う」あの時を思い出すと切なくなった。「ひとりで感傷に浸るのが得意な年頃だったから、ぼくこそが他人と距離を置くようになった。そして、どんどん孤独になった。気がつけば、ひとりだったよ。その時にはもう手遅れで、他人と接するという能力がまるでなくなっていてね、コミュニケーションというものが恐くなっていたよ」
仕事もできず、日々をマンションの一室で過ごす。なんとか小さな居酒屋でアルバイトをはじめてはみたが、すぐにその仕事も失ってしまった。
どうしようもなくなって、心の医者にかかった。そこで、近所の障害者施設で行われているというアニマル・セラピーを紹介される。
「素晴らしかったよ。動物に触れる機会はあまりなかったから、感激した。セラピー動物たちは、まさに癒しだった」
それに、出会いもあったのだ。ひよりとはその施設で知り合った。彼女は内向的な性格で、上京してみたのはいいが、他人と接するのことに恐れを抱いていていたらしく、まずは動物と触れあってみようと考えたらしい。その目的は洋助と類似したものだったし、なにより相性がよかったらしく、自然と仲良くなっていったのだ。
「そして恋人になった」
うらやましいです、とクミがいったので苦笑する。そういう感情も得たらしい。
アニマル・セラピーに通っているうちに、洋助も彼女も回復を実感できていた。正直、なにが変わったともいえないような変化だったが、「それが心というものですよ」と医者から説明されて、どこか納得した。
それから、ひよりと半同棲のような生活を続けることになる。将来というやつも、柄にもなく考えていた。しかし、仕事がなかなか見つからなかった。いまだ中途半端な身心が、なかなか定職に就かせてくれなかったのだ。たまに受けた企業の面接も、ことごと失敗していた。
羽山重樹から、「ハヤマ・ロイド社で働かないか」と連絡を受けたのは、そんな時だ。しかし洋助は、もう何度も断っていたので、その折も詳細を聞くことなく首をふった。理由は、怖かったからだ。自分の父のように、誰かを自殺に追いこみ、自分までも命を断つような、そんな人間になりたくなかった。そんな人生が嫌だった。あの大会社に入れば、同じ道を歩んでしまうような不安を抱いていたのだ。
それから数日が経ち、再度、重樹から連絡が入った。それも相手にしないでいると、今度は部屋に尋ねてきたので驚いたものだ。
「なあに、悪い話じゃないよ」淹れてやったコーヒーには見向きもせずに重樹はいった。「ひと助けだよ、洋助。おまえにアニマル・セラピーを造り上げる手伝いをしてほしい。おまえはそれに通い、安寧を得たみたいじゃないか。手を貸す意味もあると思うがね」
「アニマル・セラピー……ハヤマ・ロイドが?」
「おっと、語弊があったようだ。それに類似している療法、という意味だ。正確には、ボーカロイド・セラピーとでもいおうかね」
「ボーカロイド……」名称くらいは聞いたことがあった。ハヤマ・ロイド社に大人気のキャラクターがいるということも知っていた。「たしか……サキネ、クミ? あれをつかって、なにかするってこと?」
意味ありげな含み笑いがあった。「――操り人形の糸を切るのさ」
それから話を聴いて、驚愕した。そして魅力的だった。動物療法を超えるセラピー、たしかにそうかもしれないと肯づける内容だったのだ。
「洋助、おまえは父の書籍や作業を目にし、小さな頃からわが社の機器に触れている。物心ついたころには、父を手伝っていたらしいじゃないか。そして」奴はリビングにある本棚を眺める。「いまでも学んでいる。いくらハヤマ・ロイドを憎んでも、楽しみを覚えてしまってはなかなかやめられない」
「ただの趣味だ」
「書籍の質を見るかぎり、そんな域にないよ。――さあ、どうする? 助けられてばかりでいいのかね? 自分の技術で、誰かを救う手助けをしてみる気はないかね?」
このときお願いしますといったのは、話を一緒に聞いていたひよりだった。洋助くんにぴったりの仕事じゃない? と笑っていた。
洋助は即戦力として働いた。その仕事内容はあまりにも楽しく、そしてそれが近い未来で人々を救うのだと考えると、誇りに思えるほどだった。収入もよく、お金とはこんなに簡単に稼げるのだろうかと思うほど通帳の数字も膨らんでいたから、やっとひよりとの寄り添いが現実味を帯びてきて、婚約という言葉もこの頃くちにした。
「どうして、コイビト、やめましたか?」
「それは……」いちど唇を噛んで。「ただ、なんとなくだよ」
そうですか、とクミはいった。
自分でいっておいて呆れた。あの部屋から逃げ出した自分を想像すると情けなくなる。しかし、怖くてしかたがなかったのだ。彼女を、殺してしまいそうな気がして。
幹部に捕まえられ、クラブの類に行くことも増えた。行きたくはなかったが、社内には親戚連中もいたので断れないことのほうが多かったのだ。
ある日、とあるクラブでひとりの女性と仲良くなる。話が上手で、コンピューターにも詳しく、おまけに咲音クミのファンだったからだ。洋助が関係者だと知ると、手を鳴らして驚き、出会えたことを喜んでくれた。連絡先などを交換することはなかったが、その店へ行くぶんには楽しいくらいだったのを覚えている。
ある日、仕事からもどるとひよりが部屋に来ていた。なにやら元気がないので尋ねると、「さっき、女のひと、来てたよ」と彼女はいった。
「――女性?」
「髪長くて、茶髪で、若い子」
それではっとする。あの子だとわかった。酔った幹部が洋助の住んでいる場所を話していたのを耳にしていたからだ。突撃しちゃおうかな、と彼女が冗談ぽく笑っていた。
「クラブの子だよ」
クラブ? とひよりはかしげる。しまったと思った。上司から、あの手の店に通うときは仕事で遅くなったというのが相手のためだ、といわれ、まだ若かった洋助はそれを鵜呑みにし、そう話していたのだ。
「いいのよ」と彼女はいった。「付き合いとか、そんなんでしょ」
うんといった。
「でもなんだか、嫉妬しちゃった」苦笑してから肩を上げ下げする。「わたしより、美人だね、あの子」
その最後の言葉が、母親と重なったのだ。
父が家から消えたとき、同じようなことをいっていた。
――しかたがないの。だってむこうの女のひと、お母さんより美人だったもん。
まだ小さい洋助を気遣い、冗談ぽくそう話していた。
そうか、と納得した気がした。やっぱり自分は同じ道を歩んでいるのだ、と理解した気がした。
ぼくはいつかひよりを殺してしまう――
洋助はその恐怖に支配され、そして逃げるようにして、マンションを去った。
つぎの再会は、六年後、あの逃避行の最中となる。もちろん彼女を忘れたことなどない。それなのに、結局はなかなか勇気がでなかった自分が情けない。
新宿区に引っ越した洋助はハヤマ・ロイド社で仕事を続けた。自分のような人間を生みだしたくなくて、ますます作業に熱が入っていた気がする。
咲音クミが人工知能を得たのは、それから四年が過ぎた頃になる。
「驚いたよ。きみがぼくを見て声を出したとき」
――あな、た、なに、で、すか。
無表情で口だけを動かしてクミは話した。腹話術に用いる人形のほうが感情的に見えるくらい機械的だった。
呆気にとられながら自分の顔を指さし、洋助です、といった。クミは、「ヨ」とだけしか喋らなかった。
「そこからは大騒ぎだよ。今世紀を代表する癒しの歌姫、ボーカロイド咲音クミの誕生だからね」
「なんか、恥ずかしいです」とクミは照れ笑う。「ワタシ、ただ歌ってる、だけですから」
謙遜まで覚えたなら立派だ。
「それに」クミは眉をさげる。「もう、癒しの歌姫、ではないです。歌、忘れました。セーカクも、なんだかへんです。たぶんもう、ひとを助けること、できません」
後悔の念があった。「……ぼくたちのせいだ。やりすぎたんだ」
クミが人間の赤子ならこれでよかったのかもしれない。でも違う。咲音クミはいきなり知能を与えられ、人間の心を癒すために教育され、そんな自分を疑わずに歌を奏で、その行為になによりの楽しみと幸せを覚えながら生きてきたのだ。
そんな状況から人間たちは、突如、感植というプロジェクトでクミを変えようとした。当初の目的は達成されているというのに、完成しているというのに、セラピーボーカロイドではなく、人間に近づけようとしてしまった。これは子供が成長していく過程とはまったく違うことだ。きっと彼女は現在のように、不安と困惑に悩まされていただろう。自分がおかしくなっていく……毎日そう感じていたのではないだろうか。
もちろん洋助は反対した。すでに違和感を覚えて咲音クミ担当メンバーから脱退していたが、スタッフの噂を耳にし、腹が立ち、羽山重樹と話をしに行ったこともある。
「――話が違う」と机を叩いた。「すでに咲音クミは、アーティストとしても確立しているし、セラピストとしても効果をあげている。実験に参加した患者も、コンサートの観客たちも、心の負担が軽くなるという効果が現れているんだ。あんたならわかっているだろ。未熟に見えるけど、咲音クミは完成しているんだ」
「なにをいっている、完成などないのだ。まだ、第一目標が達成されたにすぎない。あの娘はさらなる進化を遂げることができる」
「人間を造りだすためにプログラムしてきたわけじゃない。なにがあるかわからない」
実験とはいつもそういうものだ、と葉巻をふかした。
「彼女は生きてる。命を吹きこんでおいて、それはないだろ」
重樹は辟易した顔をする。「咲音クミは単なるボーカロイドだ。いくら知能があろうともマリオネットにすぎない。技術者がそれを理解しなくてどうするのかね」椅子を反転させた。「――しかしまあ、あの娘が人間と同等に成長すれば、すこしはその命というやつも考えてやろう。励みたまえ」
「あんたはなにもわかってない。いや、見ないふりをしている。それじゃあアニマル・セラピーの延長ではなくなることがわからないのか? 彼女が人間になってしまえば、もはやただのカウンセリングだ。ぼくがどうして動物療法を選んだのか覚えているだろ? ひとにはひとが癒せない心の領域があるからだ。しかし動物はひとの言葉を話せない。だからこそ、彼女を生みだしたんだろ?」
「残念だが、人間を造りだすことのほうが何倍も大義だ。そしてわが社には、そのために使える咲音クミという人形があるのだから、利用して当然だ」
「本当にそれでいいの? さっき、スタッフに聞いたよ。社長さん大好きだって話していたらしい。なんだか疲れてました、って心配しているらしい。今度会えたら、歌を聴かせますって楽しそうに話しているらしい。こんな心を殺してしまうの?」
何秒かあってから、あくびをする音が聴こえた。「ああそうかね。おまえのせいで疲れているのだと伝えてくれ。困ったものだ、セラピストに身心疲労で殺されかねん」そういったあとに鼻で笑った。
「――本気かよ、父さん」
「決定事項だ」
あのとき洋助は無言で社長室を去り、その日から出社していない。しかし洋助の技術は捨てるには惜しいらしく、解雇はされていないようだった。
「ワタシ、大丈夫です」とクミがいった。「たまに、へんな気持ちになりますが、人間、嫌いではありません。ヨースケ、いてくれたら、楽しいです」
「ぼくは会社を辞めたんだ」
え? といって、「もう会えませんか?」
「ううん」首をふる。「クミが許してくれるなら、またここで仕事をしようかな」
会社にもどってこいと催促されているのも事実だ。
「もう許しました」と彼女は笑った。
ありがとうといって、「ぼくはこれから、きみを受け入れられるようにしていくよ」
「コイビト、なれますか?」
「そうじゃない。人間に近づいていく咲音クミに困惑していたけど、否定しないってことだよ。だから、クミも努力しなくちゃいけない」
「努力、知ってます」と彼女は頷き、「でもなにをしますか?」と訊いてくる。
「人間は頭がいい、たくさんの感情がある、だから混乱することがたくさんある。でもね、それをコントロールしながら生きているんだ。我慢したりしてね」
ガマン? と首をかしげる。彼女は感情を押し殺し、我慢によって他人に優しくしてきたわけではないので、ぴんとこないのだ。
「だからクミも、その練習をしなくちゃいけない。人間ってやつは素晴らしいけど、同時に最低で、すごく大変なんだ」
彼女は苦笑して、「やってみます」と答えた。
「そして、ゆっくりでいいから、歌も思い出していこう」
「ヨースケ、一緒に、練習してくれますか?」
「もちろん。ぼくは目立たない社員だけれど、それなりの地位があるんだ。きみの担当にならせてもらうよ」
なら大丈夫です、とブイフェイスをつくる。ひさしぶりにそんな顔が見られて嬉しく思う。いつもこうやって楽しそうにしていてくれたらいいな、と思った。
彼女に自我を与え、その優しさに触れてから、洋助はファンの仲間入りを果たした。それからはずっと、彼女の曲を聴いていた気がする。コンサートには観客として毎回足を運び、音源やグッズも購入した。咲音クミはいつも笑っていて、本当に楽しそうだった。アニマル・セラピーで拭いきれなかった憂いも、消えてしまいそうな予感があった。
こめんよ……と再び考える。あのコンサートで対面企画の抽選などに当選しなければ、彼女はまだ歌を奏でることができただろう。いまほど傷つかずにいられただろう。
浮かれていた自分が腹立たしい。技術者ではなくファンとして彼女と会えることに、純粋に、ただ歓喜していた。しばらく会っていなかったので、どんなボーカロイドになっているのだろうと、不安な反面、高揚していた。癒されるだけではなく、いかにファンにとって咲音クミが大切であるか、恥じることなく熱く伝えようと思っていた。そして喜んでくれればいいなと願っていた。
だからこそ、洋助はいくら後悔してもきりがなかった。その願いの結果が、いま目にしている、大切なものを失った歌姫なのだから。
償いをしなければ、と思った。もう泣かせることはしない。
そして必ず、歌声をとりもどすのだ――
「そろそろいいかね」
と、声がした。室内にあるスピーカーからだ。羽山重樹だとわかった。
洋助は舌をうつ。「監視はしないんじゃなかったのかよ」
そのタイミングで、七峰が扉を開けて入ってくる。離れたくないとでもいって暴れると思ったのか、屈強そうな警備員をふたり連れている。
「監視などしていない。これは盗聴だよ。七峰くんは、誰も立ち会わないし、監視カメラもない、といっただけだろう」
彼は、「たしかにそのように」と語った。
くそ、と呟く。そのとおりだったので悔しい。「でも聴いていたなら、説明しなくていいよね。ぼくはハヤマ・ロイドにもどる」
「助かるよ」とスピーカーが答える。
「そして咲音クミを任せてもらうよ」
「そのつもりだ」
スクリーンに顔をむけると、彼女はニコニコしていた。洋助も笑顔で応えた。
「なにせ――」と、重樹がいう。
このとき、この声を聴いたとき、すごく嫌な感じがした。口元が笑っている顔を想像できてしまうような、そんな声音だったのだ。子供が必至に造り上げた積木の城を、悪意をもって、人差し指でつんと崩してしまうような、そんな面容。
「明日から全てがやり直しだからね。洋助おまえは、また自分の名前を教え、咲音クミはボーカロイドだということを認識させ、この会社のために歌わねばならないということを説明していかなければならない」
意味がわからず、なんの話だよ、と訊く。重樹は面倒そうに、七峰、といった。
「はい」と彼はいい、「現在の咲音クミは、抹消されることになりました」
なんだって? と問う。まだ理解できなくて、聞こえなかった質問を何気なく訊き返したような調子だ。
「ですから、この咲音クミは消えます」
スクリーンを指さす。彼女は何度かまばたきをした。
「いや、その」洋助は唇がひきつった。「なんだよ、消えるって」
「安心してください。このキャラクターを引退させるわけではありません。培われたデータをデリートするだけです。まあ、リセット、というのが適切ですかね」
「それはつまり……」
「人工知能を持った、最初の状態にもどします。あそこから育て上げた苦労を思うと嫌になるでしょうが、咲音クミは歌を忘れてしまった。この方法しかない」
「そんなことが、できるのか?」
「壊すのは簡単です。あなたならわかるでしょう?」
そうじゃないっ、と声を荒げる。「どうしてそんなことができるんだといっている。咲音クミは、命があるボーカロイドなんだ」
かかか、とスピーカーから笑い声があった。「まだそんなことをいっているのかね」
ふとクミと目が合った。「――ワタシ、消されますか?」と彼女はいった。
そんなことはさせない、と強く念じる。
「やめさせろっ」洋助は語気を強める。「わからないぞ。また、ボーカロイドとして機能するかわからない。育てるにしても、また莫大な費用と長い時間がかかる。そして学習が上手くいったとしても、現在の咲音クミにはならない。絶対に、別人になってしまう」
「そこは問題ない。現在の人格である必要はまったくないじゃないか。ボーカロイド・セラピーというやつも予想より金にならないことがわかったからね、どのみちリセットに至った可能性すらもあるんだ。現在の面白みのない、馬鹿らしい人格でなく、いっそのこと別人に仕上げてみるのもいいかもしれない」
「ふざけるなっ。自分たちで誕生させといて、そして殺すのかよ」
「ボーカロイドのリセットは殺人ではない。ただのデータ消去だ。テレビゲームがショートしたり上手くいかなかったりすれば電源を入れなおして当然だろう? 理解したまえ、まず歌えないのだから、そうするしかないのだよ。彼女の維持費がいくらかかっているのか、知らないわけではないだろうね」
「わかってる。だからぼくがすぐに練習させるよ」
「すでに二ヶ月待った。そして思い出すことはないと技師たちが判断した。それでも、おまえと会えば奇跡でも起こるかと思ったが、どうやら上手くいかなかったようだ」
重樹は、「咲音クミ」と呼んだ。「どうだね? 歌えるのかね?」
クミは首をふる。「だめです。歌えません」
ため息が聴こえた。「歌えなければ、ただの小娘だ。金を食らう映像とはなんとも滑稽」
あやまりたいです、とクミはいった。「たくさん、あやまります。たくさん、練習します。カンショク、受けます。もう嫌がりません。逃げません」
「レッスンを受けさせる費用すらも無駄になることがわからないかね。浮わついた専門学校生を指導するわけではないのだよ」奴が鼻で笑った気がした。「さあ、そろそろデリートの準備にかかる。洋助、おまえは明日からの出勤でいいから、帰って休めばいい」
やめてくれっ、と洋助は叫んだ。そしてスクリーンのまえで両手を広げた。「彼女は思い出す。咲音クミは本物のアーティストだ。まだ歌える。すぐに歌えるから」
「どのみちリセットも考えていたと話しただろう。ここは会社だ。収入がなければ成り立たん。なにも結果は変わらんよ。諦めたまえ」
――七峰、と、羽山重樹がいった。頷いた彼が指示をすると、控えていたふたりの警備員が詰め寄ってくる。連れてきたのはこの事態を見越してのことらしい。
「クミ」洋助はスクリーンに手をついて詰問した。「歌えるだろ? きみはボーカロイドだ」
「だめ、です」小さく首をふる。
「歌うんだ。そうでなきゃ」
何度も首をふる。「ワタシ、歌えません、わかりません」
「きみは咲音クミだろっ」
彼女の瞳に水色が見えた。それが落下していく。あやまりたいです、と呟いた。
洋助ははっとして、そして力が抜ける。もう見ないと誓ったばかりのフェイス・モーションだった。
警備員に引っ張られるようにして連れられていく。ずっとクミと視線が重なっている。逃避行で彼女と体験した、たくさんの記憶が頭をよぎった。辛いときもあったのに、脳内の咲音クミはユースマイルをつくり続けている。
しかし、目の前の彼女は最後まで泣いていた。
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