平沢洋助 6

 あのあと、落ち合う場所を告げた。駅ならわかりやすいが、交番があって寄りつくのは危険が伴うので、小田原城から睥睨される位置にあった、学舎の前に決めていた。

 一時間ほど路地裏の茂りに身を隠し、約束の時間になると移動した。道路脇に黒い軽自動車が停車していたので、慎重に近寄り、ナンバーが聞いていたものかどうか確認してから、素早く助手席に乗り込む。運転席には、日下ひよりの横顔があった。急いだはずであるのに、それなりの身支度を終えた女の顔だった。

「……免許、とったんだね」と洋助はいった。

「地方だとね、これがなきゃ不便なの」出すね、といわれたので洋助は頷く。そのあとに彼女はいった。「ニュース見て、すごく驚いた」

 そうだろね、といって、「六年ぶりに見た友人は、犯罪者としてテレビのなかだったんだから」

「ううん」と首をふられた。「そうじゃないの」

「ちがう?」

「うん」ひよりは微笑んで、ちらりとだけ助手席に顔をやった。洋助は少しだけどきりとした。「なんだか勇敢なことするようになったなあって。それに、顔つきも大人っぽくなったよね」

 わたしすごく驚いた、と、もう一度彼女はいった。

「犯罪は勇敢なことじゃないよ」

「もちろんわかってる」ごめんなさいと添えた。

 何秒かおきに通過する橙色をした街灯が、車内をちらちらと照らした。

 洋助は、「よく連絡してくれたね」といった。「アドレス、消してなかったの?」

「そんなことしないよ。でも洋助くんは、消しちゃったでしょ」

 ごめんと謝罪する。六年まえにデリートした記憶がある。

「ううん。きょう、ちゃんと返事くれたから許します」それから、「お久しぶりですね」と冗談っぽく彼女はいった。

 洋助は、「会えて嬉しいよ」といいかけたが、照れが邪魔をして声帯まで届かなかった。ならば、「奇麗になったね」ではどうだろうと考えてみるが、それこそ柄じゃないのでやめておく。

 それからしばらく沈黙が続いたので、ひよりがCDを鳴らした。ピアノによる、インストロメンタル・ジャズの音色が車内に浮かぶ。ひよりはビッグ・バンドを好んでいたので、この手の音楽をよく聴かされたものだ。

「いま、いるの?」と訊かれる。

 なんのことだかぴんとこなかったので、恋人? と返す。するとひよりは左手を振りまわし、「ちがいますっ、ちがうよっ」となにやら慌てた。

 その間に洋助は理解ができて、ああこれか、とポケットに視線を落とす。ひよりはうんといった。

 洋助はズボンをぽんと叩いて、「いるよ。咲音クミ」

「見せてもらえる?」

 液晶を抜いてカーナビの隣に直立させた。クミはまず洋助に手をふって、それからひよりのほうを見た。

「こんばんは」と丁寧に頭をさげる。礼儀がなってきた。「ヒヨリさんが、助けてくれると、ききました。ワタシ、ボーカロイド、咲音クミ。とても助かります。あやまりたい、です」

 そんなそんなと彼女は恐縮したあとに、「本当だったんだ……」と、吐息まじりでしみじみ語っている。「でもどうして誘拐なんか」

「コンサートに行ったんだけど、そこでどうにも複雑な展開があってね」

「教えてもらえるの?」

 うんと答えてから洋助は事情を説明する。黙って運転していた彼女は、そっか、とだけ最後にいった。

 ひよりがクミに訊く。

「ええっと、なんて呼べばいいですか? 咲音さん、かな」

 クミは何秒か考える様子をみせたが、「セーカイ、ないのです」と答えた。

「会社ではなんて名づけられているの?」

 訊かれた彼女はつらつら喋った。

「ハヤマロイド社・ミュージッククリエートソフト・ガールズモデルボーカロイド・ファーストナンバーマリオネット・フルネームコード咲音クミ」

「……クミちゃんにしようね」

 それ好きです、とクミはニコニコする。「でも、チャンとは、なんですか?」

「それはわからないけど、よろしくねクミちゃん」

「よろしくも、好きです」くるりとまわった。

 なんだか可愛いね、とひよりも笑う。微笑ましい反面、意外と冷静なんだな、と不思議だった。それはクミのことにしても、誘拐の件にしても、この邂逅にしてもそうだ。しかし考えてみれば、この手の不安を莉那の家でも抱いていた気がする。だがそれも結局は杞憂に終わっているのだから、もしかしたら皆、こちらの心境を気遣って大袈裟な態度をとっていないだけなのかもしれない。洋助はそのように解釈した。

 いくつかカーブを進んだので液晶を支えた。電車とはまた違った振動に、クミは驚いている。視界が開けたまま車に乗ったのははじめてになるだろう。

 道がゆるやかになると、またジャズ・ミュージックが時間を埋めた。クミは膝をかかえて瞳を閉じ、顔をほんの少しだけ左右に揺らしながら音を聴いている。口の端があがっているので、気に入っているのだとわかった。彼女はなんでも学んでいく。いずれ咲音クミが、楽譜から解放されたジャズ・ソングを歌いこなすボーカロイドに育ちきれば、誰にも手がつけられなくなりそうだ。そう思うとぞくぞくした。

「いつまで逃げるの」と訊かれた。

「捕まるまでだろうね」

「……そう」

「迷惑はかけない。朝まで世話になるだけだよ。いままでもそうしてきたんだ」

「そんなこといわないで」彼女の横顔は拗ねていた。「それは他人だったからでしょ。わたしは……違うじゃない。友達でしょ。それに、まえは洋助くんの」数秒あって、「恋人だったんだし」

 真横を流れる景色に目をやった。「……だからこそだよ」

「もう四時だよ。朝までなんて何時間もない。たったそれだけを乗り切るために連絡してきたの? そんなのって、へんだよ」

 なにもいえなかった。たしかにそんなわけもないのだ。

「隠れていなよ、わたしの家に。両親もなにもいわないよ。洋助くんのこと結構気に入ってたし、そもそもこのニュースのこと知らないみたいだし」

 なにもいわずにいると、しぶといですねえ、とひよりは吐息をついて、

「ならこうします。出て行くんなら、この車は警察署への直行便。家からいなくなっても、すぐに通報してやるんだから」

 ふっと洋助は笑った。「明るくなったね、ひよりは」

 昔を思い出したのか、ありがとう、という返事は静かだった。

「わかったよ。警察署への直行便は困るから、とりあえず保留にしとく」

 ひよりが笑う。今度のありがとうは爽やかだった。


 小路に入るといくつか折れながら進み、いずれ瓦屋根をかぶった平屋で減速すると、そこの敷地にある車庫へと駐車した。

「いい家だね」

「それは三十年まえの話」いまはもうぼろぼろ、と苦笑した。

 こんな時間なので家に明かりはなく、近所にも灯りらしいものは見えない。ここに洋助が訪れたことなど誰もわからないだろう。移動してくるにはちょうどいいタイミングだったかもしれない。

 『真鶴』は海に囲まれているので、微風のなかに潮が香った。なにかの旅番組で観光地であると聞いたことはあったのだが、先ほど見かけた真鶴駅は、別段栄えているようには見えなかった。隣接する駅は湯河原、さらにひとつ進めば熱海があるものだから、印象が薄いのかもしれない。でもそれが好きなの、と、いつかひよりがいっていた。そして必死に、港があるとか、魚がとても美味しいとか、大きなお祭りがあるとか、遊覧船で内湾をクルーズできるのだとかを説明している姿が微笑ましかった。

 洋助は彼女の部屋に通された。六畳の和室だ。入ってみるとたしかに築年を感じたが、逃亡犯が屋根のしたにある茵で眠れること自体が贅沢なので、問題はない。

 まず、「助かったよ」という。

「犯罪の片棒、担いじゃった」

 ひよりはそういいながら座布団を出してくれた。

「そうだね。ごめん。出ていけというなら、すぐにでもそうするよ」

「やだ、冗談なのに」真面目な顔で平手をふられた。もっとも現実的には冗談ではないのだが。「警察には気づかれていないかしら」

「大丈夫だと思う。乗るところは見られていないし、むこうで携帯の電源は切った。仮に見られていても、道中、Nシステムの類も見かけてない」

 よく観察してるのね、といわれた。「いまの会社より警察官にでもなればよかったのに。坂井田さんといいコンビになれたかも」

 ひよりは坂井田のことを覚えていたようだった。恋人をしているとき、会わせたことがある。

「もしそうであっても、未来で誘拐におよぶわけだから、三日まえに首が飛んだよ」

「洋助くんがボーカロイドにご執心なのは、そこで生じた分岐点の先にあったものでしょ。むかう道はまたべつだったのよ」

「どうだろう。偶然目にしたミュージック・チャンネルで一目惚れしたかもしれない」

「一目惚れ、ね」不愉快そうにいわれた。「そうかもねえ。ツインテールにミニスカート、ニーハイソックス。咲音クミはベリーキュートだもん」

 苦笑してから、「ボーカロイドは嫌い?」と尋ねた。

「そんなことないよ。ハヤマ・ロイド社の雑誌はちょくちょく読むから、愛着あるの」

「そうなんだ。うれしいよ」

「さすがに、わざわざCDを買うことなんてないけど、有線とかで聴こえてくる歌は好きなやつもあるし、音楽としてはなかなかのクオリティだと思ったりもするもの。……ポップスよりジャズが上、娯楽小説より純文学が高尚、正直いうと複雑な気持ちなんだけど、もうそんな時代じゃないんだよね」

 液晶をミニテーブルのうえに立ててから、だってさクミ、と声をかける。彼女は珍しく考えごとをしていたようで、視界が開けるとはっとした。どうやら聴こえていなかったようだ。しかし尋ねられているので、「たぶん、セーカイです」という。理解ができていないときにはこれをいう節がある。

 ひよりが缶ビールを持ってきてくれた。自分にはレモンチューハイだ。彼女は居酒屋でも甘いものしか飲まなかった。

「お茶のほうがよかった? あ、それよりも、もう休む?」

「ううん、いただくよ。よく眠れるかもしれない」プルタブを鳴らし、缶をくちに運ぶ。朝五時に飲むビールは意外にも旨かった。「きみこそ休んだら? 遅くに、いや、早くに? 無理をさせてしまったから」

 彼女は首をふった。「寝ません。積もる話、あるもの」

「明日もあるよ」

 じっと見られた。「……本当に? ここにいる?」

「通報されたら困るからね。だから、きみは休めばいいよ」

 いーえ、と悪戯な笑顔をつくられた。「だったらますますいいじゃない。時間たっぷり。お仕事休みだし、寝坊もできます」それに、といって「なんといっても、ここには咲音クミがいるんだよ。たくさんお話してもらわなきゃ」だれにも自慢できないけどね、と残念そうにする。

 わお、とクミはいった。「ヒヨリさん、お話し、できますか?」

 洋助はひよりに、咲音クミは談話が好きなのだと教えてあげた。すると、こちらこそお願いしますと彼女は笑った。

 きょうはお話したくさんです、とクミは嬉しそうにしている。

「音楽雑誌で読んだんだけど、クミちゃん、暗い部屋で管理されてるんだって?」

 この質問は洋助にむけられていた。

「うん。電脳ってやつはまだ曖昧で、視界情報が多いとなにがあるかわからないからね」

「こうやって楽しそうにしているじゃない。きょうまでなにかあったの?」

「トラブルらしいことはないんだけど、まず、それ自体が結果論なんだ。こうやってみないと、わからなかった。たしかに最近は安定していたらしくて、大丈夫ではないかという声もあったみたいだけど、咲音クミを失うかもしれない賭けなんて、なかなか実行できない。彼女ひとりで大会社が成立してしまう経済力を生んでいるんだから」

 ひよりが、彼女にそういう自覚ってあるのかな、といいながら液晶を見ると、クミはこっくり首をかしげた。

「ねえクミちゃん、いつも暗い部屋でなにしてるの?」

「髪の毛で、遊んだりしますが」ふたつ結いを握って揺らしてみせる。

 ひよりは吹きだすように笑った。「それ楽しいの?」

 眉をさげて答える。「はじめ、楽しいでした。でも、遊びすぎて、飽きました」

 可愛いなあ、とひよりは微笑んだ。「じゃあ、ここ何日かは楽しい?」

「はいっ」手をばたつかせながらブイフェイスで答える。「ヨースケ、います。たくさんのひと、会えます。色々なもの、見れます。楽しいです。うれしいです」

 よかったね、と顔を覗かれたので洋助は頷いた。

 六年ぶりなのだから話すべきことはたくさんあったが、向かう先のないような雑談ばかりしていた。それが楽しかったからなのか、意識的だったのか、自身でもわからない。

 そうしているうちに空が白み、いよいよ瞼が重くなる。それを察したひよりが、ミニテーブルを片付けて布団を敷いてくれた。

「ごめん、客室があるにはあるんだけど、物置きになってて」

 いいよと洋助はいう。彼女は隣にもう一枚布団を敷きながらごめんねといった。

 明かりを消してお互いの布団に横になる。液晶の淡い光だけが室内を照らす。いきなりしんと静かになってなんだか居心地が悪かったが、それはひよりも同じだったらしく、おやすみ、とわざとらしい声をだした。

「ひとつ、いいですか? いけませんか?」

 クミがいった。なあにとひよりが返事をする。

「コイビト、とは、なんですか?」

「え?」

「さっき、ヒヨリさん、いってました。ヨースケ、まえは、コイビト。考えましたが、わかりません」

 思い出してみれば、クミは部屋についたときなにやら考えごとをしていた。

 ああ、といって、「ええっと……」洋助のほうをちらりとだけ見た気配があった。「まあ、仲良くしましょうってこと」

「そしたら、コイビト、ですか?」

「うーん、それだけじゃなくて……ほかのひとより長く一緒にいましょうってこと……かなあ?」

 気まずそうに洋助に訊いてくる。黙っているつもりだったがそうもいかなくなり、寝返りを装って背をむけてから、まあそうかもね、と曖昧に答えた。

「ながく、一緒」クミが首をかしげたような気がした。「ワタシも、たぶん、仲良くしてます。長く、一緒にいます。コイビト、ですか?」

「うーんと、まだそれは、友達かな」

「お友達、わかります。そうですか、ワタシ、お友達、ですか」

「恋人は……もっとずっと一緒、な感じかな」

「コンヤクと、同じですか?」

「ち、ちがうちがうっ」莉那と似たようなリアクションだった。「婚約はもっともっとずっと一緒で、ええっと……」

 なんだかむずかしいです、とクミはいった。

「……そうだね」吐息のようにひよりは呟く。「むずかしいね」

 ヨースケ、とクミに呼ばれた。背をむけたまま、ん、と返事をした。

「いま、コイビト、いますか?」

 枕が擦れた音がしたので、ひよりが顔をこちらにむけたのだとわかった。

「……いないよ」と洋助はいった。

「いりませんか?」

「……もう寝よう、クミ」

 何秒かあって、はいと彼女はいった。

 部屋がまたしんと静まる。洋助はしばらく、こうやってひよりの隣で寝ていた時期があったことを思い出しながら、真っ暗の空間を眺めていた。

 中野駅からバスで十分ほど走った場所にあるマンションだった。彼女も都内のアパートに部屋を借りていたが、よく洋助のところに出入りをしていた。居酒屋『ちはなっち』を辞したタイミングだったので無職だったし、ひよりも週に二回ほど小さな弁当屋でアルバイトをしているだけだけだったので、長く一緒に居ることが多く、ちょっとした同棲生活のような雰囲気を味わえていた気がする。

 生活費は、独身貴族の父から与えられていたので、無職でもマンション暮らしに困ることはなかった。それ以上に小遣いをせびるようなことはしたくなかったので特別に裕福ではなかったが、それがかえって変な遊びに手を染めることを許さず、金の匂いを頼りにした悪友を引き寄せることにもならずに、平凡でありながらも安寧がある暮らしができていた。坂井田と出会ったのもその時期になる。ひよりにビッグ・バンドを教わり、なにげなくジャズ・バーに立ち寄ったとき、カウンターの隣席にいたのが彼だった。何度か通った頃、また横に腰かけることになり、洋助を覚えてたいたらしい彼のほうから声をかけてくれた。仕事をしていないと知ると警官の彼は訝かしんでいたが、しだいに気にすることもなくなっていったようだ。

 その頃、ひよりとも一度会っている。洋助と同じくらい女性に免疫のない彼は落ち着きがなくて、彼女はくすくす笑っていた。

 洋助は瞳を閉じた。脳内でひよりが笑顔でいるうちに眠ってしまおうと思った。


 つぎに目を開くと、もうお昼過ぎだった。よほど疲れていたのか、それともこの家だからなのか、数日ぶりに熟睡感がある。

 間もなくひよりが顔を出し、「顔洗ったら朝ごはんにしよう」といった。もう昼だけど、ともいって笑う。

 おはよう、と返して身体を起こした。枕元に置いてあったはずの液晶が見当たらなかったので、「クミは?」と問うと、「ここにいるよ」とひよりは右腕をあげた。

 その手を見ると、液晶が握られている。「わたしと一緒に目を覚ましちゃったから、ごはん作りながらお話してたの。大丈夫、両親には見られてない。まあニュース知らないから、どのみち本人とはわからないだろうけど」

 クミが手をふってきた。それから彼女は思いなしか、自慢げにいう。「タマゴ、こわします。フライパンで、焼きます。シオ、かけます。メダマヤキと、いいます」

 正解です、と返してから、おはようクミ、といった。

 ひよりは、「それより」といって、「洋助が来てるってこと、お父さんもお母さんも驚いてたよ。はやく会いたいって」

「ああ、まずは挨拶しないとね」

 洋助はすぐに顔を洗い、居間へと出向く。彼女の両親はすでに定年退職しているので、ふたりでゆったりとお茶を飲んでいた。顔を出すとあらあらと笑って洋助にもお茶を淹れてくれる。はじめて会った時と変わらない、柔らかな態度だった。

 ひよりが東京にいる頃、部屋に両親が訪ねてくるということで誘われたことがあり、それを受けたのだ。気恥ずかしかったが、彼女とは将来のことも考えていたし、どのみち乗りきらなくてはならない壁だと思ってのことだった。

 洋助は会社員だと嘘をついたこと以外は、素直な自分で接した。外で食事をしながら、過去の話もした。すると、自身ではなにがよかったのかはわからないが、両親は洋助をとても気に入ってくれた。正直、同情の類ではないかと疑いもしたのだが、ひよりをお願いしますと深く頭を下げられたときに、どうやら本心なのだと察することができた。

「しばらくね、元気でした?」と母親がいった。

 はいと答えた。

「会社は忙しいかい」と父親がいう。

 とてもと答える。以前は嘘だったが、いまは現実となっているので気持ちが楽だった。

 父親が続けた。「そうか。まあ、ゆっくりしていきなさい。きょうは天気がいいから、海でも覗いてみたらどうだね。ここははじめてだろう?」

「そうです」

「美味しいものもたくさんある。娘に小遣いをやっておくから、散策してくるといい。さあ、行きなさい」

 あなた、と母親がいう。「ゆっくりお茶くらい飲ませてあげなさいよ」

「なにをいう。六年ぶり、それも夜中にいきなり訪ねてきたんだから、なにか事情があることを察しなさい。ここにいれば、それを訊きたくもなる。洋助くんも話さなければならないと悩みもする。そんなことはしたくない」

 たしかにそうね、と母親は微笑んだ。「洋助くん、わたしたちのことは気にしなくてもいいから、遊んできてね」

 ありがたいと思いながら洋助は頭を下げ、居間を辞する。いまは、なにも訊かれないことがなによりありがたかった。やっとひとつの嘘が消えたのに、また増やしたくはない。

 ひよりとふたりで部屋にもどってから、「あいかわらず、いい夫婦だね」と伝える。

 ありがとう、と彼女は自慢げに笑う。

「それにニュース、やっぱり知らないみたいだね」

「そうなの。わたしが見たのも一度きりだし、どうしてなのかしら」

「それがずっと不思議なんだ。でも、好都合ではあるよ。誘拐犯だとわかれば、さすがにきみの両親も、いまのように冷静ではいられないだろうから」

 うちの親はどうだろう? と彼女は首をかしげてから、「とにかく、ごはん食べて出掛けましょう。ああいってくれているし」

「おいおい、ぼくは指名手配犯だよ」

「とはいっても、こんなに天気がいいのにずっと家のなかにいたんじゃ怪しまれるよ」

「怪しまれる?」

「だから……その、部屋でへんなことしてるとか」

「へんなこと?」いってから気づいてしまい、恥ずかしくなった。「……そ、そうかもね」

 ひよりは洋助より恥ずかしそうにしていた。

「いや、その、それだけじゃなくって。単純に、どうして外出しないんだろうって考えられると、勘づかれる可能性もゼロではないと思うし、だから……」

 はやく話題を変えたくて言下に答えた。「そうだね。でも、近場だけにしてしてほしい」

 もちろんと彼女はいった。「海まですぐだし、近所に小さな定食屋もあるから」

 テーブルに目玉焼きとソーセージ、白米と味噌汁が並んだ。それをつついていると、部屋の戸から白い三毛猫がするりと入ってきて、ひよりの膝を休み処にした。

 こらミイちゃん、とひよりが笑う。

「猫にしたんだね」と洋助はいった。死に目が嫌だから飼いたいけど飼えないの、と話していたが、この六年の間に決断したらしい。

「捨て猫なの。ミイちゃん」頭をなでながらいった。「去年、弱ってたから連れてきちゃった。元気になったらどこかに行くかと思ってたんだけど、そのままうちに」

 膝のうえでみゃあと鳴いた。動物を見ると、どこかほっとするものがある。

「みゃあ」と声がした。クミのものだった。「それは、なんですか?」

「猫、しらないの?」ひよりがいう。「動物っていうんだけど」

「ああ」とクミは頷いた。「動物、ネコ、そういえば、ワタシの歌に、出てきます。そうですか、それ、ネコですか」

 ミイはその声に反応したようで、顔をテーブルのうえに持ち上げて、耳をぴんと立て、液晶に見入った。そしてまたみゃあと鳴いた。

「みゃあ」とクミは笑った。「はじめまして。ワタシ、咲音クミ。あなたは、だれですか? ネコですか?」

 ミイちゃんだよ、とひよりが教える。

「ミイちゃん、こんにちは」とクミはいった。

 みゃあとミイは鳴き、ぴょんとテーブルに上がって、液晶に顔を近づけた。鼻をひくひくしている。「いつもは叱るのよ」とひよりがいった。テーブルに乗ったことだろう。

 クミが手を伸ばしている。ミイを触ろうとしているのだ。「ミイちゃん、かわいいです。お友達、なれますか? なれませんか?」

 ミイはクミを気に入ったのか、毛並みを画面に擦りつける。液晶が倒れそうになった。

「へえ、怖がらないんだね」とひよりがいう。洋助も意外だった。動物は鏡に写った己にさえも警戒するというのに。

「なにか、お話、しますか?」とクミがいった。

 ひよりがミイを持ち上げ、お辞儀のように動かしてから、「こんにちは」という。

 クミは、「ヒヨリさんの、声です」と、首をかしげた。

 ひよりはくすくす笑ってから、「ごめんね」と謝る。「猫はお話、できないの」そういってから液晶のそばにもどす。ミイはまた顔を近づけて鼻をひくひくさせていた。

「言葉、しりませんか?」

「そうなの」

「そうですか。でも、ワタシも、そうでした。たぶん、勉強すれば、大丈夫です」クミはそういって手を伸ばす。「話せませんが、とても、かわいいです」

 洋助は、「気に入ったのかい?」と尋ねる。

 はいとクミはいった。しかしミイから目を離さず、一生懸命に手を伸ばしている。まるで溝に落としてしまった大切なものを掴もうとしているかのようだった。

 クミは洋助を見上げて、「なんだか、心、楽になります」と笑う。そっか、と笑顔を返した洋助だったが、どうも不思議な感覚もあった。もっとも、なぜであるのか、このときはわからなかったのだが。

「ところで、いいですか?」

 クミがいう。ふたりで、「なに?」と返す。

「部屋でヘンなこと、とは、なんですか?」

「出掛けようクミ」と洋助はいった。

「ほら見ていい天気」とひよりが続いた。

 クミは不思議そうな顔をしたが、「行きます」と、ニコニコした。

 海は五分も歩かない場所にあった。港はここから遠いようだが、ここからも漁に出るらしく、いくつか舟もあった。

「夏休みの時期にはね、海水浴のお客さんで少しだけ賑わうの。小さな砂浜だけど、期間中は海の家も建つんだよ。ちょうど終わっちゃったね」無人の砂浜を見まわしながら彼女は話し、流れついたらしい流木に腰かける。陽射しと潮風にさらされて、からからに乾いていた。「なにもないけど、魚釣りだったらできるよ。わたしは苦手なんだけど、洋助くんはそういうのできる? なんなら今晩のメイン・ディッシュ、頼んじゃおうかな」

 一度もやったことないよ、といいながら隣に腰をおろす。液晶も流木に立てて、海のほうへと向けてやった。

 わお、とクミがいう。画面越しまで乗り出している。「水が、たくさんです。洋助、これは、なんですか?」

「そっか、これもはじめてなんだね。これは海だよ」

「ワタシ、ですか?」

「きみはクミ、こっちはウミ」

「こっちはウミ、ですかあ」目を見開いている。「とても、広いです、大きいです」

 なぜか有名な童謡を思い出した。

「海という歌詞も、クミの曲にあったと思うよ」

「そうでしたか」眉をさげて照れ笑う。「ワタシ、たくさんのひとが作った曲、歌います。ですから、たまに忘れます。あたま、悪いです。あやまりたいです」

 クミちゃんいじめちゃだめよ、とひよりがいう。いじめたつもりはなかったが、ごめんごめんと謝った。当の彼女は海に夢中だ。

 波が鳴った。静まってからひよりがいう。

「……でも、やっと連れてこれたね」

 何秒か考えて、そして思い出した。「たしかにいったね、海、見ようって」

 彼女が近所に砂浜があるというので、いつか一緒に見たいねと話した。

「見れたね」

「見れた」

 あの時とは違うけど、と、ひよりが呟く。洋助は黙っていた。

 ここから昨夜の続きのように、クミを交えて雑談に華を咲かせた。ほとんどはクミの質問責めに答えているだけであったが、それはそれで楽しくて、長い間を流木で過ごした。出てきたのがお昼を過ぎていたのもあって、もうじき夕暮れだ。この時間になると空腹感もあったので、近くにあった観光客を相手にする定食屋で夕食を済ませる。アジの叩き丼が名物だといわれたが、それは昨日つついたので違うものにしたいとひよりに頼んだところ、彼女は迷うことなく、まかせて、といって注文した。なにが出てくるのか楽しみにしていると、変哲のない刺身定食だったのだが、盛られているのはマンボウの刺身だといわれて驚いた。

 それを肴にして、ひよりと軽く酒を飲んでから外に出ると、もう暗かった。洋助は視力が強くないのでいつも星は拝めないが、空気が澄んでいるのか、ここでは点々と小さな穴が開いたような夜空を眺めることができた。

 月がはっきり見える。昨日見たものより丸みを帯びていた。

 ――もう一度海が見たい。と洋助はいった。このとき、クミも同じようなことをいったので言葉がかぶってしまい、三人で笑った。

 砂浜にもどると、日中のあいだ座っていた流木に腰をかけた。夜の海というのは、視界が淡いにもかかわらず綺麗に感じられる。波がはっきり見えないので、いきなり水のはぜる音がして、何度もびっくりした。

 クミが鼻唄を奏でている。なので、なにか歌ってよ、と声をかける。

「いいんですか?」彼女は嬉しそうにした。

 もちろんというと、わたしも聴きたい、とひよりがいう。プロに頼んでいいのかわからなかったんだよね、ともいった。

「なに、歌いますか? 自由、ですか?」

「あれはどうかな。夜の海に合うと思うけど」

 タイトルを告げると、かしこまりました、とクミはブイフェイスで応えた。

 洋助はリュックからパソコンを出す。いつトラブルが起こってもいいように、また、いつでも逃げ出せるように、ずっと持ち歩いている。

 住吉のところでしたように、画面を立ち上げてから曲の設定をする。再生を示す右矢印をクリックすると、音楽が流れはじめた。

 ――クミがくちを開いた。波風が歓声の代わりをするように騒ぐ。

 いい歌、と、ひよりがいった。「でも、クミちゃんが世界に轟くトップ・アーティストなんて、実感わかないな」

「みんなそういうよ。クミは話してみると、こんな調子だし」

 そうなのよ、といって、「ねえ、例えばこの独占ライヴ、相場いくらになるの?」

「数万円じゃできないよ」

「じゃあ百万円?」

 洋助はまさかと笑った。「先日のコンサートは武国館でやったんだけど、その費用は一億円を超えてる」

「いちお……冗談でしょ?」

「冗談じゃない。武国館は柔道なんかの試合をやるために造られた施設だから、ライヴコンサートをやると高いんだ」

「とはいっても、そんなにするの?」

「まあこの場合、チケットとかグッズの生産、宣伝、照明演出、警備費用、ミュージシャンのギャラなんかも含まれてるから、海辺で一曲ならもっと安くなるよ。でも」

 ひよりは肩を上げ下げした。「どのみち、わたしたちの蓄えじゃ無理そうね」

 そういったあとに彼女ははっとした。

「ごめんなさい。わたしたち、だなんて。もう他人なのに」

「……いいよ」

 クミの歌声と波音が流れる

「あのさ」とひよりがいった。

「なにかな」

「……どうして、返信くれたの? たぶん困ってたんだと思うけど、そりゃそうだと思うけど、それだけなのかな……って」

「………」

「わたしの、うぬぼれ……かな」

「……わからない」

 なによそれ、と、ため息をつかれた。「なにもいわずに、マンション引っ越して、いなくなって、ずるいよ……。わたし、わからなかったんだよ。いまもわからない。さよならもなかったのに、それは別れたことになるの? いまはもう恋人じゃないの?」

 彼女は顔を伏せた。

「いつか婚約したいって、あれ、嘘だったの?」

 じきに詰問されるとわかっていた。遅すぎたくらいだ。ここまで来る途中、車のなかで責められると思っていた。

「――怖かったんだ」と、洋助はいった。

「どういう意味?」

「……なんでもない」

 またひとつ吐息があった。「わたしの気持ちが変わってないことくらいわかるでしょ? 待ってたこと、わからない? それでもまた、いなくなっちゃうの? いま、こんな距離にいるのに?」

 何秒かあって彼女は、ごめん、といった。

「なんだかみっともない女だね。しつこいね。ごめんなさい」

「……ぼくは」

「いいの。洋助には洋助の人生があるもの。せっかくいい会社に入れたのに、こんな田舎娘と婚約する必要なんてないのよ」

 波がはぜた。そして静かになった。

「ケンカ、してますか?」

 クミがいった。いつの間にか歌を終えている。

「あ、あ、ちがうの」ひよりが慌てていう。「やだ、わたしなんだかへん。先に帰るね。布団敷いておかなきゃ。洋助、近いから家の場所わかるよね? それじゃあ」

 振り返らずに駆けて行く。洋助は途中まで背中を見つめていたが、じきに海へと顔をむけた。ひよりの姿が闇に霞むと、彼女がどこかへ行ってしまいそうな気がしたのだ。

 足音が消えて一、二分が過ぎた頃に、やっと洋助は声をだした。

「いい歌だったよ。さすが咲音クミ」

 はい、と彼女は答える。あまり嬉しそうな声ではなかった。途中であんなことになってしまったから、彼女も気にしているのだ。

「ごめん」と伝える。「でもちゃんと聴いていたから」正直半分は怪しいのだが。

 クミがいった。

「……朝、ヒヨリさんと、お話をしました」

「うん」朝食を作りながら会話をしたといっていた。

「ヨースケのこと、たくさん訊かれました。ワタシ、知ってること、答えました。ヒヨリさん、うれしそう、でした」

「……そう」

「ヒヨリさん、ヨースケのこと、大切です。たぶん、好きです。これ、少し、習いました。普通の好きと、違います。ワタシが、ファンのかたを好きなのと、違います。これ、レンアイといいます。習ったとき、よくわかりませんでした。でも、たぶん、これです」

 波がはぜた。

「そして、ヨースケも、ヒヨリさんが、好きです。レンアイ、とても、いいことです。仲良くしないと、だめです」

 ――でも、と、クミはいった。

「やっぱり、不思議な気持ち、です。ワタシ、カンショク、嫌でした。だから、逃げてました。そのはず、でした。でも、どうしてですか? ヒヨリさん、ヨースケが好きです。これ、わかったとき、なんだか、少し、ワタシ……」

 彼女は瞳を伏せ、胸元を右手で握った。

「……クミ?」

「ワタシ、楽しく、なかったです。どうして、ですか? どうして、不思議ですか?」

「………」――嫉妬?

 洋助は内心、驚愕していた。自分に対してそのような感情に至ったことではない。そのような感情が生まれたことだ。それは、咲音クミにはない感情なのだから。

 ――そうか、と思った。

 殺人、逃亡、出会い、眺望。そのすべてが、彼女の感情を急激に成長させている。

 洋助は頭を抱えた。なにかがひっかかる。そんな妙な違和感。ずっと感じている、いびつな違和感……

「――あれ?」目を開けてクミがいった。「ワタシ、へんなこと、いいました。洋助、嫌な気持ちに、なりましたか?」

「……そんなことないよ」

「あやまりたい、です」

 彼女の声には元気がなかった。なので、「帰って三人で、楽しいお話をしよう」と洋助はいった。

「はい」頷いてクミは笑う。「します。お話、好きです」

 日下家にもどると、笑顔のひよりと両親が待っていた。彼女はさっきのことを忘れてしまったかのように、明るく接してくれた。

「ねえ洋助、明日は近くの港でお祭りなの。行くでしょ?」

 両親が続く。

「近くといっても車で少しあるんですけどねえ、わたしも旦那と踊るんですよ。舞台があって」いいながら手をひょいひょいと動かす。盆踊りの類らしい。

「洋助くんも、ひよりとおいで。もう祭りも最後の時期だから、いい思い出になる」

 はあと洋助は答えたが、ひよりが行こうよと袖を握ってくるし、正面で両親に誘われているのだからとても断れそうもなく、ただ頷くしかなかった。

 両親が去ってから、「さすがにお祭りはまずいよ」と洋助はいったが、「大丈夫よ。ひとが沢山だから紛れるもの」と彼女はいう。

 部屋に帰ると、布団が敷いてあったのですぐに横になった。そしてひよりとクミの会話を聴いていた。

「クミちゃん楽しかった?」「とても、楽しいです」「海どうだった?」「ワタシ、ですか?」「あなたはクミ」「ああ、ウミ、ですか。ウミ、たぶん、この部屋より、広いです」「大きなお世話っ」「あやまりたいです」「それより明日はお祭りだよ」「お祭り、知ってますが、なんですか?」「そっか、歌詞に出てくるけど見たことないんだね」「セーカイです」「広くて楽しいよ」「この部屋より、ですか?」「まあそうだね」「この部屋より、狭いもの、ありますか?」「大きなお世話っ」「スミヨシさんの、家ですか?」「ごめんね、だれかな?」

 昨日なら笑っていたところだが、本日はそんな気分になれなかった。

 しばらくすると部屋の明かりは消え、隣にひよりは横になる。洋助はずっと寝たふりをしていたので、いまさらおやすみというのも気まずくて、そのまま黙っていた。

 彼女が起きているのも、なんとなくわかっていた。

「余計なこと、もういわないからね」

 十分が経った頃、ひよりがいった。謝罪のような、切実な口調だ。

 こちらが起きていることがわかっているのか、聴いてもらえなくても構わなかったのか、それはわからなかった。


 後日、目を覚ますとクミはミイと遊んでいた。また一生懸命、手を伸ばしており、ミイは何度も鳴いていた。そしてそれを、布団にうつ伏せたひよりが眺めている。クミとミイのやりとりが可愛くて、くすくすと彼女は笑っていた。

 この日、両親が踊りのリハーサルでいなかったので、夕暮れまで室内で過ごした。しかしひよりともクミとも、あまり会話はなかった。

 お祭りに向かう時間になってもクミはなかなかミイから離れようとしなかったが、なんとか説得して連れてきた。そして、ひよりの車で港まで向かう。十五分くらいと聞かされていたが、十分もないくらいで駐車場には着いたと思われる。しかし混んでいたのでなかなか駐車できなかったが、ようやく場所にありついて降りることができた。

 地元民ではない洋助にはどんな概要を持った祭事なのかわからなかったが、それなりの規模を誇る会場だ。港をすべて巻き込んでいる。

 出る頃にはまだ西の裾に明かりがあったが、もう空はまっ暗だった。的屋のライトと、灯籠だけが光源だ。

「両親の踊りは最初のほうだから、もう行こう」

 簡単にうんとはいったが、洋助は警戒しながら進んだ。

「大丈夫よ」とひよりがいう。「こんな人混み、見つかるはずない」

 そうかもしれないとも思うのだが、「そりゃ誘拐はぼくが悪いんだけど、こんな環境で安心もしていられないよ」

「でも、せっかくだから」

 するとポケットから、「ケンカ、いけません」とクミがいった。ふたりでごめんと謝る。なんだか娘に叱られたような感覚になって、きまりが悪かった。

 クミが続けた。「それより、いいですか? いけませんか?」

 なに? とひよりがいう。

「お祭り、ひと、たくさんです。どうして、こんなことしますか?」

「それは、ええと」彼女は洋助を見た。「なんで?」

「たぶん、『祭り』は『祀る』に繋がっていて、大漁や豊穣への感謝や祈りなんだよ。その土地柄が、娯楽さを交えながら様々な進化に至ったんだろうね」

 クミは首をかしげながら、「つまり、楽しくて、難しい、ですね」といった。

 正解ですといったのだが、ひよりと声が重なってしまい恥ずかしかった。

 駐車場から会場に歩きはじめた。クミにはポケットから覗いていてもらうが、声は出さないようにお願いした。

「もう今年の夏祭りは最後だね」と洋助はいう。

「うん。秋祭りなんてのもあるけど、まだ早いし、きょうだったらここくらいなものじゃないかな」

 焦げた醤油がふわりと香った。小さな頃、両親に連れてこられた記憶がある。父はお金を持っていたので、ねだることをしなくてもたくさんの食べ物を買ってくれた。しかしそれゆえになのか、次々と与えられる品々はあまり美味しくは感じられず、小さな子供がリンゴ飴を欲しがり泣いているのを見ても、どうして欲しいのか不思議なほどだった。

 舞台が見えてきた。人だかりができている。開けた場所にあるので、シートを敷いてくつろいでいる輩も多い。ちょうど、和服を着た踊り手たちが上がりはじめてきるところだった。しっかり女性司会者がついており、つぎにはじまる踊りの説明をしている。

「あ、ほら、あれ」ひよりが指さす。両親が真剣な面持ちで舞台の上にいた。「やだ、ふたりとも緊張してる。あとでからかってあげなきゃ」

 四方五メートルほどのバックスクリーンに題目が表示された。洋助はその鮮明な映像を見て、硝子スクリーン? と呟く。

「ガラス?」横から訊かれる。

「うん。ハヤマ・ロイド社の特殊スクリーン。咲音クミ専用に作られたんだけど、いまは一般販売もしてる。あのサイズでもなかなか張り切ったものだと思うよ、それなりの値段がするからね。買うのは映画館とかがメインらしいし」

「ああ、なるほど。なんか部落で揉めてることがあるってお母さんがいってたけど、たぶんこれだね。普通のやつでいいってひとたちと一悶着あったみたい」

 だろうね、と苦笑した。拘るにしても、手抜きをするにしても、きりがない分野だ。

 踊りが終わってから、照れ臭そうな両親と話をした。ひよりはからかってやるとはいっていたが、すごくよかったよ、と笑っている。

 その後、両親は気をきかせて去ってしまったので、引き続きひよりと会場を散策した。袋に入った綿菓子と、烏賊焼きを買って石段に座る。綿菓子の袋には奇遇にも咲音クミのデフォルメがプリントされていた。こういうアイテムでも稼いでいるらしい。

 ぱんぱんに空気が入れられているので、開けるのが勿体ないとひよりはいっていたが、烏賊焼きのほうは手が汚れてしまいそうなので、結局は封を切ってくちにはこんでいる。彼女は、甘い、とだけいった。洋助も少しだけ食べてみと、たしかに、ただ甘い。

 お面をした子供たちが数人、正面を走り抜けて行く。それからひよりがいった。

「荷物、まとめていたわね」

「うん。もう二日目。いつまでもいるわけにはいかないから」

「わたしのせい?」

「どうして」

「昨夜のこと」

 ああといって、「ちがうよ。ぼくは逃亡犯、逃げるのは当然でしょ」

「謝っても、行っちゃう?」

「きみは大切な友人だ。犯罪者にするわけにはいかない」

「友人?」

 洋助は頷いた。「そのつもりでいたというのが本心なんだ」

「なら、きょうまではそれでいい。じゃあ、だったら、また恋人になることはできるの? そしたらここにいてくれる? わたしが、まだ別れてないって駄々こねれば、いい?」

 洋助は首をふる。ひよりは続けた。

「それがだめなら、わたし、告白する。わたしは洋助が好き。……せめて、これに答えてから行って」

 舞台のほうから和太鼓が聴こえた。

「なんてね」と、ひよりがいう。「ごめんなさい。もうこんなこと、いわないつもりだったのに」

「ひより……ぼくは」

「いいの。さて、おしまい。お祭りを楽しみましょ」

 このとき、

 ――ヒヨリさんが好きです。

 と、声があった。ふたりではっとする。

 洋助は液晶をポケットから抜いた。「……クミ?」

「これ、ヨースケの、気持ちです」彼女はニコニコしていた。しかしすぐに眉をさげる。「ワタシ、わかりません。ヒヨリさん、とても、いいひとです。ヨースケのこと、好きです。ヨースケも、そうです。でも、コイビト、ではない? コンヤク、ではない? これ、たぶん、正しくないです」

 ふたりとも黙っていると、「ワタシが、正しくない、ですか?」と問われる。

 ううん、とふたりで首をふる。

「では、ヨースケ、ヒヨリさんと、コイビト、なりますか?」

 ひよりとゆっくりと顔を見合わせた。彼女が、「答えてくれる?」といった。

 何秒かあって、洋助は顔をそらす。液晶を見ると、クミは背中を向けていた。それでも、彼女にも気配というものを感じるのか、「いわないと、正しく、ないです」と声がする。「不思議な気持ち、まだ、あります。でも、ワタシ、ボーカロイド、ニセモノ。たぶん、しかたない、です」

 洋助はまっ黒な空を見上げた。

 しかしその瞬間、視界の端にある人物を捉え、はっとして正面を見据えた。

「こんばんは。洋助さん」

 ぞっとした。「――七峰、さん」

 はいと彼はいった。洋助はすぐに駆けだそうした。しかし、見据えるべき視界は正面だけではなく、左右、背後にも至っていると認識する。数えてみると八人もの男が、周囲を取り巻いているのだ。

「だれ?」と、怯えた声でひよりが訊いてくるので、「ハヤマ・ロイド社の社員だよ」と答える。彼女は驚くことはせず、どこか諦めたように顔を伏せただけだった。

「どうしてここが」と洋助は訊いた。

「それはともかく。咲音クミは無事ですか」

 洋助は両手で液晶を握り、莉那がしていたように抱き締めた。

 七峰はやれやれと首をふり、「もう終わりにしましょう。こちらも忙しいのです。さあ、こちらへ」

 それでも洋助は抱き締めたままでいた。

「そんなことをしても意味がないことがわかりませんか? 時間の無駄です。手荒い真似はしたくはありませんので、すみやかに渡していただきたい。いますぐにでもトラブルがあるかもしれないのですよ」

 わかっている、と、強く思う。

 ヨースケ、とクミの声がした。液晶を覗くと、彼女が淋しそうに笑っていた。

「お迎え、ですか?」

 うんと答える。

「クミさん」七峰がいう。

 彼女ははいと返事をした。

「もう逃げられないことは、わかりますね」

 あやまりたいです、とクミはいった。

「さあ洋助さん」といわれる。「もう会場の周囲も固めてあります。逃亡は不可能です」

 不可能……たしかにそうだ……。もう、逃げられない……

 それをいわれて、「わかったよ」と返事をした。そして立ち上がる。不思議と冷静でいられていた。

 すると七峰はようやく安堵した様子で、「すぐに報告しろ」といって部下を動かす。その命を受け、何人かの男たちは携帯を取り出して、どこかへ歩いて行った。

 ――洋助は、そのタイミングを逃さなかった。相手の油断を待っていたのだ。

 消沈した面持ちと姿勢をたてなおし、穴があいたスペースを走り抜けた。

 すぐに反応した七峰の右手が肩をかすった。そして正直、この距離ならすぐに捕まると覚悟した。しかし、逃げてっ、というひよりの声を聴いて振り返ると、彼女が七峰に組みかかっていた。それを部下たちが引き剥がそうとしている。

 ごめんと心のなかでいう。そして洋助は走り続けた。ひとが多いので、あまりスピードが出ない。しかしそれはお互い様のはずなので、この間に確実に距離を稼ぎたかった。

 だが、わかっている。もう、ここで終わりだ。七峰がいうように、会場の周囲を固められているのなら、逃げることは不可能なのだ。

 洋助はひとまず隠れる場所を探した。なかなか見つからなかったが、人混みを掻き分けて進み、ステージの袖に身を潜めることにした。裏方作業をしているスタッフには驚いた顔をされたが、関係者ですというと頷かれる。お祭りの会場なんてこんなものだ。

 息を整えながら、「ごめんクミ」と謝る。「油断したよ」やはりお祭りなど、危険でしかなかった。

「いいんです」と首をふる。

「よくない。たぶんもう、ぼくは逃げきれない。そしたら……」

「いいんです」ともう一度いって笑った。「ワタシ、帰ります。ヨースケ、悪くないです。それ、ワタシです。あやまりたい、です」

 ごめん、と洋助はいった。

「ワタシ、帰ったら、いいます。ヨースケ、正しいと、みんなに、話します。だから、大丈夫です。悪いの、ワタシだけ、です」

「そんなことしなくていい。ぼくこそちゃんと話すよ。クミは悪くないって」

 クミは首をふった。「人間、ホンモノ。ボーカロイド、ニセモノ。消えるの、たぶん、ニセモノ。これ、正しいです。ですから、ワタシ、ヨースケ、助けます」

「きみはニセモノじゃない」

「そうだとしても、です。なぜなら、ワタシ、レンアイ、しています。不思議な気持ち、たぶん、これです。ワタシ……」

「クミ、ぼくもきみが好きだ。とても愛しい。でも、それは」

 わかります、と彼女はいった。「ヨースケ、レンアイ、してるの、ヒヨリさんです。たぶん、そういうことです。でも、いま、とても大切、といってくれた、気がします」

 クミは両手を広げてユースマイルをつくった。

「ありがとうヨースケ。大好きです」

 目を伏せて、ありがとう、と洋助も返した。

「ヨースケ、お願い、あります」

「なに?」

「ワタシ、消されるかも、しれません。だから、歌いたいです。できますか? できませんか?」

 そうか、と思う。「この舞台で?」

 はいと答えた。「あれ、ガラススクリーン、といいます。洋助、そういってました。ワタシ、入れます。そしたら、歌えます」

 ――わかった、と洋助は頷いた。

 ちょうど和太鼓の集団がはけてくる。スタッフも手伝っているので、そのひとりを捕まえて尋ねた。

「このつぎの題目はなんですか?」

「え? あの、どなですか?」

 同じように関係者と名乗り、再び尋ねる。

「いや、しばらくないんですよ。いまから花火あがるんで、ステージは休憩なんです。出場者もゆっくり見たいって苦情がありまして」

 なるほどと頷く。願ったりだ。「スクリーンに繋がっているのは……そこですよね?」

「はあ」といわれる。

「音楽はどうやって流していますか? パソコンを繋げるシールドか、変換ジャックはありますか?」

「いやその、あなたなんですか?」

 いいから、と凄むとスタッフはごめんなさいといってから答えた。

「シールドもジャックもないんです。音楽はCDかMDを入れて、スピーカーから」

 音源か、と舌をうつ。そんなものは持ち合わせていない。パソコンを繋げないのであれば音が流せない。それではアカペラになり、最善とはいえない。

 見まわしてみると、他のスタッフがアンプをステージに運んでいる姿が視界に入った。

「アンプがあるんですね」

「はいまあ。花火が終わったら、バンドとか、そういう演奏もあるんで」

 洋助ははっとした。先日、とある部屋のなかで生まれた言葉を思い出していた。

 すぐに携帯の電源を入れる。そして、紙切れを出して番号を入力し、電話をかけた。

 これが繋がったのならば、奇跡としかいいようがない。しかし、不思議とそれは起こる気がしている。咲音クミのステージは実現する気がしている。

「はい」と女性の声がした。慌てて取ったのがわかった。「もしもし洋助?」

「亜衣だね」

 うんといって早口で続ける。「洋助あんた、まだ無事なの?」

「アンコール伴奏が終わる寸前だよ。そろそろ閉幕さ」

「なに? 閉幕がなんて? いまどこにいんの?」

「こっちが訊きたいんだ」と洋助はいった。しかし、通話口からもれる喧騒で予想はできている。「亜衣、きみは神奈川にいる」

「え?」

「そしてそれは、真鶴のお祭り会場だね」

「あんたどうして……」電話のさきで彼女が見まわしている気がした。

「きみはいっていた。お祭りのステージをバンドメンバーと一緒にまわるって。そしてこの時期、もうなかなか祭事はない。東京から簡単に来られる場所を推測するなら、ここにいることは十分にありうる」

「いや……うん、そうだけど」

「すぐにステージに上がってほしい」

 はあ? といって、「出番まだだよ。バンド組は花火のあとらしくて」

「頼む。いいから上がってくれ。咲音クミがステージに立つ」

 あいつが? と怪訝そうに亜衣はいう。

「うん。きみは演奏できるよね」できるけど、といわれて、「メンバーは?」と問う。

「先日から遊びがてら練習させてるから、あの夜に弾いてたやつ一曲だけなら」

「助かった」最低ギター一本を覚悟していた。「説明してる時間はないんだ。急いでくれ」

 吐息が聴こえる。事態が不明瞭すぎて呆れるのも無理はない。

「わかった行くよ。よくわかんねえけど、ギャラもらうからな」

「もちろん。なにせきみは今夜、ボーカロイド、咲音クミのリードギター担当だ」

 メンバーの奴ら痺れそう、と亜衣は笑い、「みんな聴いて」という声とともに通話が切れた。牽引力のある彼女なら上手くまとめてくれるだろう。

 洋助はリュックをおろし、武国館から盗んできた咲音クミ専用シールドを出すと、液晶のアウト・プットに繋いだ。そして反対側を硝子スクリーンへ続くイン・プットに挿す。

「クミ、話は聴いていたね」はい、と返事がある。「――出番だ」

 彼女は頷いた。「行きます」

「リハーサルは無しだけど。大丈夫?」

「平気です」彼女は真剣な顔つきで返事をした。「ワタシ、咲音クミ。いつだって、完璧を届ける、ボーカロイド」

 プロの瞳だった。その物言いに洋助はぞくりとする。コンサートの直前には、毎回こんな彼女が現れているのかもしれない。そう思うと嬉しかった。

 スタッフが不思議そうに洋助の作業を見ている。なのでやはり、関係者ですから、で乗りきった。どこまでも便利な言葉だ。

 接続がうまくいっていることを確認してからステージを覗いた。いつの間に上がったのか、舞台ではすでに亜衣たちがセッティングを終えている。聞いていたとおり、ギター、ベース、ドラム、キーボードの女四人組みだ。

 彼女と目があった。長い髪をかきあげて、生きてんじゃん、と亜衣はいった。

 チューニングは? と問うと、OKと合図をするように片目を閉じる。洋助は首肯だけで応えた。状況を説明したいが、いま話にふけっている時間はない。

 スクリーンに咲音クミがフェイド・インされた。

 その瞬間、舞台まえにいる来場客は波がひくように一斉に静かになり、そして数秒後、今度は波が押し寄せるようにどっと歓声をあげる。聴いているかぎり、さすがに若者の声がほとんどであるが、それは仕方がない。

 とりあえずここまで実行できて、洋助はほっとしている。もっとも、いよいよ責任者らしいスタッフも現れて危ないところだったのだが、彼らも舞台袖からスクリーンを唖然として眺めるしかなく、詰問を回避できたのだった。

「こんばんは」とクミはいった。「ワタシ、ボーカロイド、咲音クミ」

 会場から驚愕と困惑が入り混じった歓声があがる。バンドメンバーも信じられないような顔つきでスクリーンを見上げていたが、亜衣に、こら集中しろ、と叱られている。

 クミは瞳をゆっくりと伏せる。すると何秒かあって、少しずつ声が収まっていく、それから、「――歌います」とだけクミはいった。

 咲音クミの代表曲が奏でられはじめる。前奏が過ぎ去ると、彼女はくちを開いた。

 会場を近未来へ連れ去るような、異次元的ともいえる歌声が響く……。彼女は手足を自由に動かし、ときに舞いながら歌を発する。観客の声に耳を傾け笑顔を返しもする。まるで違和感などない、完全なるアーティストのライヴだ。

 間奏に入ると、クミが空にむかって指をさす振りつけをした。その瞬間、もちろん偶然のタイミングではあるのだが、花火が打ちあがった。しかしそれは、ステージから目をそらす存在にはならず、むしろ彩ることになっている。

 舞台が様々な色に照りつけられた。

 クミは自分こそが驚いたらしく、空を見上げていた。声には出さず、くちだけで、「キレイ」といったのがわかった。

 花火は咲き続ける。じきに、その炸裂音に彼女の歌声も重なった。

 いくつもの音を咲かせ、人びとに与する――

 まさに咲音クミのステージだといってもよかった。――美しい、と、胸が震える。

 数分の曲は、あっという間だった。咲音クミは、音が止むと目を伏せる。彼女の歌声に魅せられてステージに訪れたひとたちから、大合唱のような声援が続いていた。

 じきに、咲音クミはフェイド・アウトして液晶にもどってきた。いまだ歓声が止む気配はないが、続行は不可能なので亜衣たちは撤収を始めている。どこかからスタッフが飛んできて彼女たちを怒鳴っているが、亜衣は舌をだして反抗していた。

 拍手が聴こえた。会場からではなく、背後からだ。洋助は振り向く。

 そこには男がひとり立っていた。満足感に溢れた表情で何度も頷いている。

「見事なラストだよ。ここまで劇的になるとは考えてもいなかった」

「――あんた」なぜここに、と呟く。

 社長さんです、と、クミが恐る恐る教えてくれた。もちろん知っている。

 代表取締役三代目、羽山重樹……。社員から報告を受けてこの地に来たのだろう。もっとも、どうしてハヤマ・ロイド社の連中がこの会場にいるのかは、いまだにわからない。

「まだ逃げるかい?」と問われた。

 洋助は、まさか、といいながら近くにあったパイプ椅子に座る。そして、「やめとくよ」と投げやりにいった。「じきじきにおでましとはね、父さん」

 ふんと重樹は笑う。「社長室にも飽てきたところだ。それに、せめて息子の不始末くらい我が身で対応せねばと思ってね」

 クミを渡しなさい、といわれて洋助は液晶を手渡す。もう抜け穴はない。逃避行は終わりだ。

「――トウさん?」とクミがいった。

 重樹が、かかか、と笑う。「洋助は私の息子だ。意味がわかるかな? 親族はことごとくハヤマ・ロイド社の社員だ。つまり、もちろん彼もその一員だということだ」

 クミにじっと見られた。「ヨースケ、が? 会社の、ひと?」

「そう」と重樹はいった。「わからないのかね? おまえに知能を与えた技術者のひとりだというのに。見覚えくらいあるだろう」

 クミは黙っている。

「まあ、はっきりと覚えていないのも無理はない。なにせ彼は、咲音クミに知能を与えてしばらくした頃、プロジェクトから退いている。まだおまえの自我も未熟だったからね。以後、顔を合わせていないのだから、曖昧でも仕方がない」

 クミにじっと見られた。

「しかし、そんなおまえでも、考えればわかった。なにせ感植メンバーの名前は、普段から呼び捨てにするようにプログラムされているからね。まあ、差別化という技術者たちのプライドさ。――何日も過ごしていてわからなかったのか? こいつだけ呼び捨てにしている自分に」

 カンショク……と、淋しげにクミは呟く。

 洋助は静かに謝罪した。「ごめん、黙ってて」

 クミは顔をそむける。ごめん、と、洋助はもう一度いった。

「ヨースケ、会社のひとでも、べつにいいです。それは、かまいません」

 ――でも、といって、「どうして、こんなことしますか?」

「こんなこと?」

 クミは頷いた。「……ワタシ、たぶん、いま、ぜんぶわかりました。ヨースケ、ワタシに、嘘、ついていたんです」

 いったいなにを? と尋ねる。

「ワタシ、いいませんでしたが、正直、不思議なことありました。どうして、捕まらないんだろう、と、何回も思ってました。なんだか、いつも逃げれて、おかしいでした。でもこれ、当然、です。たぶん、カンショク、だったのですね? ヨースケと、会ったときから、いいえ、会うまえから、はじまっていたのですね? これ、お勉強、なんですね?」

 ちがうよ、と洋助はいった。重樹が、かかかと笑う。

「サツジン、ありました。でもあれ、恐怖の、お勉強です。だってヨースケ、いってました。ニュースが、ありません、世間が、騒いでません。……それも、そのはずです。たぶん、あれ、演技だったんです。サツジン、なかったんです。誘拐も、きまっていたんです。つまりワタシに、黙っていたんです。……ヨースケ、たくさんのひとに、会わせてくれました。たくさんのもの、見せてくれました。電車、遊園地、海、お祭り……でも、これらもすべて、感情のお勉強です。外でのお勉強です」

「まさかっ、そんなことないよっ。だって、亜衣の部屋で報道があったじゃないかっ」

「DVD、です」とクミはいった。「お話、聴こえてました。亜衣さん、ビデオクリップ、買ったといってました。これ、DVD、といいます。あれには、映像、入ってます。知ってます」

 洋助ははっとする。

「あの中身は、ニュース、ではありませんか? 洋助が、持っていたのでは、ありませんか? ……でも、あれを流したの、アイさんです。ヨースケ、そのとき、いませんでした。つまり、アイさんも、ワタシを、騙してたんです。ヒヨリさんも、チチさんも、そうです。なぜなら、ニュース見た、といってました。でもニュース、ありません。だから、どちらも、ワタシを騙しました。そして、サカイダさんもです。ケーサツ、サツジン、しりません。なのに、ヨースケ、追われていると、いってました。あれ、嘘です。たぶん、みんなもそうなんです。ヤナギハラさん、スミヨシさん、リナさんも、すべて、カンショクです」

 なるほど、と楽しそうに重樹がいう。クミが続けた。

「そうとしか、思えません。だって、やっぱり、ケーサツは、来ません。そして、どうしてここに、社長さん、来ますか?」悲しそうな瞳をむけられた。「ヨースケ、呼んだのでは、ありませんか? 会社のひとなら、カゾクなら、できるのではありませんか?」

 洋助は力が抜け、椅子のうえでぐったりとうなだれた。正面では重樹が、「だいぶ発声が流暢になった」と感心している。「思考力の発達も素晴らしい」ともいった。

「……父さん、これも計算のうちかい」地面を見ながら訊く。

「まさか」と鼻で笑う。「咲音クミが独自の推理を展開するなんて考えてもみない。――言い訳をしなくていいのかね?」

「……べつにいいよ。なにも変わらない」

「そうか。では東京へもどるとしよう。ご苦労だった。――ああ、おまえも私の車で帰るかね? よく冷えたヴィンテージ・サロンを何本か用意してある。成功を祝って抜こうじゃないか」

「これのどこが成功なんだ」

「それは己の無知を呪いたまえ」

 くそ、と地面を踏みつけた。

「ヨースケ」クミが呼んだ。ますます切ない面容だった。「ワタシ、恨んでません。でもこれ、忘れないでください。いまワタシ、楽しくないです。一番学んだ気持ち、悲しい、と、淋しい、です」

 水色をした雫が、瞳から落下していく。はじめて見るモーションだった。

「おやおや」これには重樹も驚いたようだ。「最近プログラムされたティア・ドロップというフェイス・モーションでね。しかし、感植メンバーがいくら泣かせようとしても上手くいなかなかったんだ」

 痛々しい気持ちになった。

「そんなことまでやってたのかよ」と睨む。

 ニセモノ、キモチワルイ……社員から聴きとったというこの言葉は、その過程で吐かれたものかもしれない。

「ご執心がすぎるぞ洋助。咲音クミはボーカロイドだ。実在しない偽人だということを忘れていないかね」

「そんなことはないっ。彼女は存在し、ちゃんと生きてるっ」

 重樹は嘲笑するように唇を歪ませた。「まあいい。感謝するよ。泣かせてくれて、ね」酷薄な笑みでいう。しかしそんな皮肉にたいして、なにもいえなかった。「予想よりも、さらにいい曲が完成することだろう」

 重樹の背中が離れて行く。やがて、興奮がいまだ冷めず、スクリーンに歓声を飛ばし続ける客たちのなかへと消えた。いつしかステージのまえは祭り人で溢れかえっている。クミ、という声援を聴いて、どこか切なくなった。

 ひよりが舞台袖にやってきた。スクリーンに咲音クミが映ったので、近くにいると予想したのだろう。だいぶ探したのか、肩が弾んでいる。

「洋助くん……クミちゃんは?」

 脱力ぶりになにかを察したのか、控えめな声だ。

「もういないよ」と返す。

 そっか、と静かに彼女はいった。「あのね、洋助くん、わたし」

「いいんだ、ひより。もうわかってる」

「……ごめんなさい」

「ぼくが悪いんだ」

 洋助は立ち上がった。そしてどこへ行くわけでもなく、歩きはじめた。

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