平沢洋介 5

 小田原に着くと、干物が香ったような気がした。駅の時計を見ると、十一時まえだった。

 半ば開き直って長距離移動に及んだが、なんとか動く密室から生還できたようだ。東京から離れたとはいえ、世間に監視され、捜査員に追われているという現実はなにも変わらないのだが、なんとなく都会とは空気の流れが違っていて、思いなしか不安が軽くなるのを感じた。

 クミは先ほど、特急が通過したはずみで液晶が膝元に転がってしまい目をまわしていたが、程なく回復して景色を眺めていた。現在はいままで通り、ポケットから少しだけ顔を覗かせて構内を観察している。

 観光地でもあり、電車の乗り換え地点でもある駅なので、重そうな荷物を抱えた人々が目立った。まずは人目につかない場所へと思い、隅のほうへ移動する。通行人にちらりと視線を配られただけで、いちいち胸が跳ねた。通報があれば、またぞくぞくと捜査員が集まってくるだろう。もう昨日のような事態は勘弁してほしかった。

 さらに帽子を深くさげ、十一時を待った。引き続き携帯の電源は切ったままでいたかったので、会ってくれるならば改札まえに来てくれることになっている。来るか来ないか、それは一晩のうちに決めてほしいといってあった。第三者目線で状況を俯瞰すれば、確率は低い。彼女とはコンサートで三十秒たらず言葉を交わしただけなのだ。しかし洋助は、来ると考えていた。おそらくではなく、確信に近い。だからこそ躊躇なく、この地まで渡ってきたのだ。

 だといっても、待つという行為はさすがに結滞したが、十一時をまわると一分も待たずして女性が声をかけてきた。来ることを確信していても、少しは迷うだろうと思っていたし、しばらく立ち尽くしていることを覚悟もしていたので、これは意外だった。

「洋助さん、ですよね?」と彼女はいった。

「はやいね」ちらりと見たあとに、つばを下げたまま答える。その顔は覚えていたものと同じだった。莉那だ。

「遅いと、帰っちゃうかと思って」

 なるほどと鼻で笑った。気持ちはわからなくもない。

 洋助は周囲に目を配る。「ひとりかい?」

「もちろんです……信じてください」

 首肯してみせる。「わかった。信じるよ」

 莉那も頷いた。「よかった。……それで、あの」

「立ち話はまずいんだ」洋助はもう一度見まわした。「頼んでおいた場所に行きたい」

 ああ、と彼女は頷いた。「近くにあります。奥まった席があって、他人の目が気にならないお店。ちゃんと、決めておきました」

 助かるよと洋助はいう。

「あの、これだけ質問させてください」

「なにかな」

「本当なんですよね……その」

 うんと答えた。ここにいるよという風にポケットを叩く。おおっ、とクミの驚いた声がしたが、莉那には届かなかったようだ。クミには十一時をまわるまえに、しばらく顔を出さないように伝えてある。無駄な騒ぎを招くような、そんな嫌な予感がしたからだ。

 彼女に案内されて近くにある飲食店に入った。『相模湾食堂』という名前からわかりやすく、海の幸を売りにしている店舗で、駅から何分もしない場所にある店だった。

 観光客相手の広い店内だ。そこの一番奥にふたりで座った。

「喫茶店かなにかのつもりでいたんだけど、食堂とはね」洋助は本心をいった。たしかに奥の席ではあるが、客席は観光客で溢れかえっている。

「でも、こんな店って、ほかのひとのことなんて意識してないし、かえって静かなところよりいいと思って……」

 そこは同じ考えだ。だからこそ、ここまで入ってきた。

「わかった。ここでいい」

 中年の女性店員が寄ってきて、ご注文は、と尋ねてきた。帽子のつばを下げ、ぼくはなにも、と答える。すると莉那が、食堂でそれはまずいですよっ、と小声でいってきた。ああそうかと思いながらも、いきなりのことでメニューを探すのが精一杯だったが、なにやら呆れた様子の莉那が代わりオーダーしてくれた。冷静な口調だった。

「わたし、かまぼこ定食。ええっとこの人は、じゃあ、アジの叩きと生ビール」

 はあい、と店員は返事をして、伝票を見ながら離れていった。

「ビールって」と苦笑する。

「だって」彼女は客たちをちらちら見た。「観光客の人は、そうなんです」目を配ると、たしかにそうだった。「そりゃそうですよ。小田原といったらかまぼこ、相模湾といったらアジですから。なるべく自然なものがいいと思って」

「なるほど。おそれいったよ」

「まず、いま考えてみればオーダーも洋助さんではなくわたしがするって決めておくべきでした。店員さんは、注文者のほうが印象に残りますから。……洋助さん追われてるんですよね? もうすこし考えたほうがいいと思います」

 この思索、なかなか力になってくれそうな少女だ。あの頭が悪そうなハイ・テンションは咲音クミが関わったときだけらしい。

「どうやら、ぼくを疑ってはいないみたいだね」

 いいえといって、「ごめんなさい。疑ってます」はっきりいってくれた。「クミちゃんに会えるなんて、そんな夢みたいな話……。それに、昨夜の電話の内容、なんでしたっけ? あのあと武国館で殺人があって、洋助さんが誘拐した? でしたっけ? そんなの、ただのエンターテイメント小説です。わたしあれからもニュースを確認しましたけど、そんな報道は一度もやってないし……」

 やはりあれから、ニュース報道はないらしい。

「……でも本当なんだ」

 莉那は身を乗り出してきた。「だったら会わせてください。クミちゃんに。そしたらわたし、洋助さんを助けます。約束します。でも、本当にできますか? わたしたちファンにとって、咲音クミがどんな存在かわかっていますか? もし嘘なら、わたし怒ります。誘拐もすべて嘘ってことになりますけど、それでもわたし、警察に訴え出てやります」

 ここまで話して彼女ははっとした。

「あ……ごめんなさい。クミちゃんのことになるとわたし……」吐息があった。「よく友人たちには馬鹿にされるんです」

「よくあることだよ」と洋助はいった。

「答えになってません。どうなんですか? やっぱり嘘なんですか?」

 責めるような口調ではない、嘘という言葉が事実になることを恐れている物言いだ。

 定食とアジの叩きが運ばれてきた。生ビールも一緒だ。かまぼこは、蒸し、焼き、揚げの三種類をおかずにするスタイルで、ご飯にあいそうないい匂いがした。アジも朝に揚がったと素人でもわかるような、鮮やかな血合いが美しかった。

「食べてください」といわれた。「料理を眺めているのも不自然ですから」

 ああと頷いてくちに運ぶ。腹身を売りにする大型魚のように、ねっとりとしていて旨かった。最近は接待でよく割烹屋に出入りしていたが、それに劣らないものがある。

 飲みこんでから話した。

「咲音クミはいるんだ。でも、ここで見せるわけにはいかないよ」

「どうしてですか」

「ぼくがいうと気持ち悪いかもしれないけど、クミは話してみるとびっくりするくらい可愛いんだ。そしてきみは、超がつく大ファンだ。たぶん、この大衆のど真ん中で叫んでしまう。それは困る」

「本当に……いるん……ですか?」

 思いなしか瞳が潤んだ気がする。洋助は頷いた。彼女は早口で続けた。

「捕まったらクミちゃんに迷惑がかかるんですよね? だったらわたし、大丈夫です」

 だめだよと首をふる。「こんな不審人物であるぼくに、平気で、しかも時間きっかりに会いに来たんだ。どれだけ高揚しているのかわかる。たぶん我慢できない」いじわるや駆け引きではなく、本物の不安だった。

 ――咲音クミに会えるといったら、ぼくを助けてくれる?

 この言葉を伝えた直後の展開はあまりにもスムーズすぎた。

「はい助けます。洋助さんを助ければいいのですか?」「正しくは、咲音クミとぼくをだ。その過程で、彼女に会わせることができる」「助けます。いまから行きます待っててください。どこにいるんですか?」「いや、まずは事情を」「必要ありませんすぐ行きます」「もう夜だ。お互い、明日しか動けないよ」「甘いこといわないでっ」

 落ち着かせるのに数分間を要した。そのあと彼女は冷静に、そしてやはり訝しげに事情を聴いてくれたが、どれくらいのファンなのかは理解できた。そしてその過程が、彼女が必ず来ると確信していた根拠でもある。

「だから、昨夜話したとおり、不安もあるかもしれないけど、よかったらまず自宅に」

 莉那はうつむいた。「そうですね。そうかもしれません。……でも、たしかにひとを家に招くのは問題ないんですけど、やっぱり、すこしは不安なんです。――いえ、洋助さんはいいひとそうですから、身の危険とか、そんなんじゃなくて」

 その不安、つまりは咲音クミの存在有無。

 騙されている確率のほうが高いのだ。こんな調子で自宅でも引っ張られ、一夜が開ければ理由をつけてとんずら。それも充分にありうる。デメリットもないが、そこまで奇妙な客人を迎えるとなれば不安にくらいはなるはずだ。

 しかたがない、と思った。「クミ、挨拶だけ頼むよ」

 液晶を抜いてテーブルに置いた。坂井田の部屋でしたように、ふたりから見えるようにして置く。クミは退屈そうに座っていたが、明るくなるとはっとして立ち上がった。

 莉那が画面を見て、それから洋助を見た。洋助は人差し指をくちに立てる。なぜかクミがそれを真似た。そしてそれを見た莉那も真似た。つまり三人で、人差し指を唇のまえに立てた。あまりにも怪しい光景となったので、一応周囲に気を配る。

「リナさん、いらっしゃいませ」ユースマイルでクミがいった。「ボーカロイド、なんと、疲れません。すごいですか?」

「クミ、挨拶を」と苦笑する。

 あやまりたいです、といってから、「ワタシ、ボーカロイド、咲音クミ。はじめまして。これ、最初の挨拶、知ってます」

 何秒かあって、あーなるほど、と、莉那が真顔で呟く。――これはまずい、と思った。彼女が静かすぎる。これは嵐のまえの静けさだ。

 液晶を隠し、「いいかい?」と、きわめて冷静に洋助はいった。「まず、いま吸いこんだ息を吐くんだ。けっして声帯を揺らしてはいけないよ。そしてぼくはお会計をする。莉那さんはその間、黙っていなければならない。できるかい?」

 やはり真顔で彼女はいった。「もうすこしだけ……」

「自宅で、好きなだけ話せばいい」

「好きなだけ……」理解したらしく、莉那は小刻みに何回も頷いた。「できます。わたし黙ってます。あなたを自宅に連れていきます。いいえ、拐っていきます」

 きょうは洋助が誘拐される番らしい。

 料理も半端なまま退店し、タクシーで移動した。莉那は興奮しながらも、車内では冷静に運転手に指示をだしていた。


 自宅のイメージはできていなかったが、二階建ての洋宅だった。小さな家だが、ここ数日のうちに宿泊した個人宅では一番立派だといえる。

 来るまでに聞かされていた通り、自宅には誰もいなかった。

 うずうずした顔で、「どうぞ」と彼女の部屋に招かれた。二階の一室だ。見事に咲音クミのポスターが張り巡らされている。

「お母さんはいないし、お父さんはバーを経営してるから、もうお店の支度に出たみたい。帰ってくるのも遅いから、ゆっくりしていってください」

 そういう家庭だったか、と思った。語りなれた口調に淋しいものもあったが、これならたしかに、友人を呼ぶのも簡単である。両親になんといって宿泊しようと考えていたが、問題はなさそうだった。

 よかったと一息ついた。なんとかまた、屋根があり、なおかつ宿主と意思疏通が図れる寝床を確保できたようだ。来て正解だったとしみじみ思う。それは、今夜を凌げるということだけではない……

 床に腰を落ち着けるとすぐに、「クミちゃん」といって莉那は両手を伸ばしてきた。「いまさら偽者でした、なんていったら……殺しますよ」

 あながち冗談でもなさそうだった。

 洋助は液晶をポケットから抜いた。「でも、いくつか注意してもらいたいことがあるんだ」クミはデリケートな存在なので、注意点がある。

「なにをいってるんですか。わたしは洋助さんと同じ大ファンです。だから知ってます、わかってます。むしろわたしのほうが詳しいはずです」

 それもそうかもしれない、と思い液晶を床に置く。興奮のなかで壊されてはかなわないので、触れないようにと頼んだ。いつまで我慢できるかわからないが。

 彼女は液晶に詰め寄った。腹にためこんでいた叫び声があがった。慌てて洋助は静かにと注意する。こんな声が続けば、何事かと思った近所に一一○番されそうだ。

 きゃーっといって、「咲音クミちゃん、なんですよね? 本物なんですよね?」

 液晶ははいと答えた。「ワタシ、ボーカロイド、咲――」

 その続きは莉那の叫びで聴こえなかった。クミの肩が跳ねた。

「どうしてそんなに可愛いんですか? 顔ちっちゃいんですか? わたしが見えてるんですか? いつもなにしてるんですか? わたしをどう思いますか? ファンは恋愛対象になりますか? 女でもおっけーですか? あっこれはまずいかっ。じゃあスリーサイズはいくつですか? ああっこれもまずいかっ。楽しかった思い出はなんですか? 自分ではどの曲が気に入ってますか? いまの日本をどう思いますかっ?」

 まだいくつか質問は続いたが、早口ゆえになにをいっているのかわからなかった。しかし彼女の人格がボーカロイドにより倒壊することだけはわかった。クミは不思議そうに、首をかしげたり、洋助に視線をやったりしていたが、質問が終わると、「たぶん、それ、セーカイです」と無茶苦茶いっていた。まったく的を射ていないが、莉那はきゃあ可愛いと叫び、手足をばたつかせている。

 そのあと莉那は急に泣きだしてどこかに行ったきり帰ってこなくなったり、なにやら笑いはじめて呼吸困難になってみたり、なぜか謝り続けてみたりと大パニックを披露していたが、しばらくしてやっと落ち着きをみせはじめた。ほとんど彼女ひとりの世界で展開されていたので、悪気はないのだろうが、クミは退屈そうにあくびのモーションをしていた。

「というわけで、はじめましてクミちゃん。本当にうれしいです。わたし大ファンなんです。こんなことしかいえなくて、ごめんなさい。でもでも、まさか本人に会えるなんて思ってなくて」

 やっと会話らしい言葉が生まれた気がした。はじめまして、という語句は何十回とくちにしていたので、ここまでの記憶が曖昧なのだと思われる。

 やっとクミは莉那のことを、自分とお話をしてくれる人間、だと解釈したようで、笑顔になった。

「あやまるの、ワタシです。迷惑、かけます。ファンのかた、大好きです。リナさん、ずっとまえから、お友達です」

 クミがそういうと莉那はまた泣きそうになったので、また手がつけられなくなるまえに洋助は声をかけた。

「あらためてお礼をいうよ。本当に助かる。ありがとう」

 いえいえと高速で平手をふる。「お礼なら、わたしこそです。……でも、やっぱり真実だったんですよね。殺人も、誘拐も」

 洋助は無言で首肯した。

「わたしは洋助さんが悪いとは思いません。逃げて正解です。クミちゃんが、殺人キョウサ? なんて……」ちらりと液晶を見る。そしてにやにやした。咲音クミがそばに存在するという現実を思い出したらしい。そんなだらしない顔のまま、「そんなこと、するわけないですよねえ」と液晶にいった。

「信じて、くれますか?」とクミはいった。しかし莉那は、「可愛い」と呟いて液晶を胸に抱きしめている。「見えなく、なりました」とクミの声がした。すると、「きゃあ可愛い」と莉那は叫んだ。まるでパズルゲームの連鎖のように止まらない気配があったので、また洋助は声をかけることにした。

「迷惑はかけない。明日には出て行くから」

 莉那ははっとして、どうしてですかっ、といった。「行かないでくださいっ。ずっといてくださいっ」

「そんなわけにもいかないよ」

「だったら、クミちゃんだけでもっ」彼女は座ったまま迫ってきた。「世間は洋助さんが誘拐したって思ってるんですよね。なら、わたしに預ければ見つかりませんっ」

「罪になる」と洋助はいった。

「構いませんっ。クミちゃんのためだったらわたしっ」

 やれやれと首をふった。「そんなことを簡単にくちにしたらだめだよ。まず咲音クミはそんなことを望んでない。たしかに理屈はわかるよ。だけど、なぜぼくがコイン・ロッカーに彼女を閉じこめていないのか考えてほしい。つまり、彼女にトラブルがあったらどうするんだい? ぼくはコンピューターにつよい。いざとなれば、ハヤマ・ロイド相手にリモート・デスクトップでもなんでもつかって対処法を探せる。だけどきみはできない。それは彼女を殺すことだ」

「わたしだって、ボーカロイド雑誌読んでるし、すこしなら」

「いいかい? ぼくはパソコン一台を簡単に組みあげることができる。それが可能かい? もちろん、咲音クミのプログラム対応には、そのほか様々な分野を含む、それ以上の知識と技術が必要だ」

 莉那はさすがにうつむいた。

「……じゃあ、洋助さんもいてください。たぶんお父さん、なにもいわないし、大丈夫です。ここにいればいいじゃないですか」

「迷惑はかけられないよ。一泊なら誰にも気づかれないだろうけど、重なればわからない」

「でもわたし、クミちゃんといたいです」

「わかるよ。だけどぼくは莉那さんの人生も大切だ。クミもきっと同じだよ。わかってほしい」

 いやだっ、と彼女はいった。そしてまたクミを胸に抱きしめた。見えなくなりました、と液晶から聴こえる。「クミちゃん連れていかないでください。離れたくない。洋助さんもわかってください。わたし、大ファンなんですよ。こんなの奇跡なんです。夢そのものなんです。与えておいて、奪わないでください。お願いします。罪もなにもかも、一緒に受けとめますから」

 やれやれ困ったな、と思った。こういう事態を先見していなかった。

 多少でも気持ちがわかるのが辛かった。自身もわがままをいえる学生時代にこんな日常を迎えれば、同じ言音を吐いたかもしれない。

「リナさん」彼女の胸でクミがいった。莉那は液晶を覗いた。「お話し、してくれますか? 時間、いっぱいです」

「しますっ」莉那は叫んだ。「ずっとずっとっ」

 しかしクミは首をふり、それからいった。「朝まで、です。そしたら、ワタシ、ヨースケと、逃げます。淋しいです。でも、行きます。なぜなら、迷惑、かけます。それ、正しくないです」

「クミちゃんわたし……」

「お願い、します。リナさん、大好きです。ずっといたいです。でも、たぶん、ヨースケ、困ってます。それ、ワタシも、困ります」

 莉那に拗ねたような睨みをむけられた。「洋助さん、仲がいいんですね」

「もう数日間、一緒だからね」

 ふうん、とやはり拗ねられる。

「でも、リナさん」とクミがいった。「ワタシ、約束、まもります。だから、お願いします」

「――約束?」と首をかしげた。

「ワタシ、リナさん、知ってます。手紙、くれました。写真も、ありました。ファンレターと、いいます。これ、知ってます。あってますか?」

 ああ……、と、彼女が声をもらす。クミが続けた。

「人間には、チチ、ハハ、います。知ってます。でも、リナさん、ハハ、いません。書いてました。セーカイ、ですか?」

「クミちゃん、あれ読んでくれたの?」

 はいといった。洋助も、そういえばと思った。名前のことだ。彼女が莉那と名乗るまえから、クミはリナさんと呼んでいる。それに、ずっとまえからお友達、ともいっていたことにも疑問を覚えていた。

「たまに、会社のひと、見せてくれます。そのなかに、ありました。リナさん、淋しい、と、書いてました。ほかにも、たくさん、書いてましたが、ワタシ、ボーカロイド、あたま、悪いです。わからない言葉も、ありました。あやまりたい、です」

 莉那が無言で首をふる。

「でも、これ、覚えてます。――ハハ、ほしい……。この意味、しってます。カゾクといいます。とても仲がいい、かけがえのない、お友達です。セーカイ、ですか?」

 正解です、と、泣きそうな声があった。

「ですから、ワタシ、リナさんの、ハハ、なります。いまから、カゾク、です。いつか、会えたら、カゾクなろう、これ約束、と、ワタシ、読んだとき、思いました。だから、まもります。これ、いいですか? いけませんか?」

 莉那は両手を顔にあてただけだった。

「ですから、お願いします」とクミは続けた。「カゾク、いつか、また会えます。ずっと、カゾクです。だから、明日、ワタシ、逃げます。あやまりたい、です」

 だめっ、と、莉那は鼻をすすりながらいった。

「だめですかあ……」クミは眉をさげた。

「ちがうちがう」といって彼女は首をふる。それから瞳をぬぐって、「クミちゃんの設定、十七歳でしょ?」

 なんとそうです、と答えた。知っているらしい。

「それ、わたしのひとつ上なだけなんです。だからさすがに、母親は無理があります」

「あやまりたい、です……」

「そうじゃなくて」莉那は液晶に詰め寄った。「わたしのお姉ちゃんになってください。それならぴったりです」

 クミは首をかしげながらいった。「ワタシ、それなら、カゾク、なれますか?」

「はいっ」シスターのように平手を組んだ。「なって……くれますか?」

 わお、といって、「もちろん、です。オネーチャン、なります。リナさん、カゾク、です。これ、セーカイです」

 クミがブイフェイスでくるりとまわると、莉那は、レア顔っ、と叫ぶ。それから何度か目をこすって、洋助にいった。

「なんか……家族になっちゃいました」

 そうみたいだね、と微笑みを返した。

「これ、現実ですよね? わたし、まだ死んでませんよね?」

「現実だし、きみは生きてる」

 莉那は安心したように笑った。「やっぱり淋しいけど……家族なら……いいや。また会えるし。だから一晩だけ、ゆっくりしていってください。――あ、でもでも、行くとこに困ったら、わたしの家にきてくださいねっ。だって家族なんだしっ」

 助かるよ、と洋助は答えた。正直、こんな場所まで逃げてきたのだから、数日ここに留まっても大丈夫な気はしている。だがやはり、なにがあるかわからないという未来が恐かった。実際、昨夜は捕まる一歩手前の危機を経験しているのだ。確率を思慮するなら、駅で莉那と一緒にいたところを見られている可能性もある。小田原で通報があり、この地に絞って捜索がはじまったのなら、この家だってわからない。

「お姉ちゃん」と莉那が呼んだ。

「ワタシ、ですよね?」とクミが答える。彼女が頷くと、クミも笑顔で首肯した。「はい、こちら、オネーチャン、ですが」莉那はニヒヒとにやけて、「お姉ちゃん」ともう一度呼んだ。「それ、セーカイです」とクミは楽しそうに答えた。

 ふたりはそんな向かう先のなさそうな遊びを続けていたが、日が暮れた頃に莉那が夕食を作ってくれた。アジフライと味噌汁、それにライスだ。なかなか上手だったので褒め言葉をくちにすると、自分でやらなきゃ誰もしてくれないから、という返事があった。ごめんと洋助は謝った。

 いいんです、と彼女はいって、「いまはもう、お姉ちゃんがいるから」同情したことを忘れてしまうほど彼女はにやついていた。憧れのアーティストが家族と名乗ってくれたのだから、当然の反応かもしれない。

 食後、シャワーを借りたあとにベランダで涼んでいると、莉那がアイス・コーヒーを持ってきてくれた。お礼をいって受けとると、彼女も洋助と同じように柵に両腕を乗せて身体をあずけた。

「クミと遊んでなくていいの?」と尋ねる。

「可愛すぎて気絶しそうなので、頭冷やしに」

 なるほどと苦笑した。たしかに先ほどから、住吉に伝授された世にも奇妙なしりとりをして遊んでいたのだが、莉那はあれがツボだったらしく、丸太のように笑い転げていた。

「夕食、おいしかったよ。きみは立派な高校生なんだね。母親の変わりがちゃんとできてる。家のなかも、庭も綺麗だった。お風呂場もしっかり掃除されている」

「タオルもいい匂いだったでしょ?」莉那は無邪気に笑った。

「そうだったね。ああいう気遣いは、女性にしかできないと思う」

「とても嬉しいです」彼女は誇らしげにはにかむ。でも……といって、「じつは立派じゃありません。たぶん気づいてますよね、きょうは平日です」

「うん……」にも関わらず、莉那は昼間に迎えにきた。「学校、行かないの?」

「たまにサボってしまうんです。時間がほしくって。ほら、わたしは家事があって忙しいから遊べないけど、みんなは放課後、カラオケに行ったり、喫茶店に行ったり、すごく楽しそう。すごくうらやましい」

「たしかに休めば、自由な時間ができるね」

「よくないってわかってます。私立だから、学費だって安くないし……」

 お父さんはなんて? と尋ねる。

「気にしてないみたい。ううん、呆れてるんだと思う。お店の閉店、二時なんですけど、最近明け方まで帰ってこないんです」

「繁盛してるんじゃないのかな」

「ちがいます、わたしが学校休むと遅くなるんですから。きっと家に帰りたくないだけなんですよ。でもいいんです。わたしが弱いんだってわかっています。母親がいない家庭なんてたくさんあるんですから」

 涼風がゆっくりと流れた。

「ごめんね。ぼくはなにもしてあげられない」

「いいえ、洋助さんは責めないでいてくれました。それだけで嬉しいです」

「きみが嬉しいと感じることをいうことが、世間にとって正しいことかはわからないけど」

 平等なんですね、と莉那は苦笑した。

「でもぼくはの考えは、やっぱり莉那さん寄りだと思う。休みたくもなると思うよ」

「それは、かくまってくれているから?」

「ぼくも親がいないから」

 えっ、といってこっちをむいた。「あの……お母さん?」

「どっちも」

「そんな……」彼女は口ごもったあとに、「なんだかごめんなさい」と静かにいった。「……でも、どうして? ――あ、わたしのお母さんは、小さい頃に病気で」

「そう。辛かったね」

「あまり覚えていません。だから新しいお母さんがほしいなんて思ってしまうんでしょうね。最低です」

 だれも悪くない、と洋助はいった。

「それで……その」

「自殺だよ。ぼくが小学生のとき」

 莉那は瞼をぴくりとさせただけでなにもいわなかった。

「親戚が大きな会社を経営していて、父がそこの社員だった。幹部だったみたいだし、お金があったんだろうね。養育費なんて捨てるように払って、べつの家へと消えた。母はいい暮らしに慣れていた専業主婦だったからね。困惑があったんだと思う。仕事も見つからないまま、命を絶った」

 語ってみるのとはちがい、現実はこんなに簡単なものではなかったが、わざわざ彼女にそのときの苦しみを分かりやすく伝える必要もないので、これでよかった。

 洋助は続けた。「いま思えば、きっとそれはぼくを守る気持ちがあったんだと思う。そうすれば、ぼくは父に育ててもらえるって思ったんじゃないかな」

「そうならなかったんですか?」

「母の家族が、父を訴えた。むこうも大層驚いていたらしい。裁判のほうではなく、母の死をね。……たぶん、償いかたが、わからなかったんだと思う」

「それで、ふたりとも……」

「ごめん」と洋助はいった。「ぼくのほうが不幸だっていいたいわけじゃないんだ」

「わかっています。わたしを肯定してくれているんですよね。……洋助さんも、学校、行きたくなかったんですか?」

「それどころじゃなかったよ。立たされている現実の意味が、わからなかった」

「そうですよね。ごめんなさい」

 洋助は柵から腕を離した。「さあ、部屋にもどろう。クミが退屈する。コーヒー、ごちそうさま」

「――あ、待ってください。よかったら教えてください。洋助さんはそれから、どうされたんですか?」

「とくに不自由はなかったよ。むしろ生活は豊かになった。会社を経営している親戚に拾われたからね」

 よかったと莉那が笑った。


 部屋にもどると、クミは自分のツインテールでなにやら遊んでいたが、こちらに気づくとニコニコしながら、「ヨースケが、現れました」と、モンスターのようにいってきた。莉那はきゃあ可愛いと声をあげながら液晶に近寄り、わたしも現れましたよ、といっている。

 玄関が開く音を聴いたのは、このときだった。莉那がいち早く反応し、あれ? と呟く。

「十一時、か」彼女は壁かけ時計を見上げてもう一度呟く。そして、「はやいなあ」と怪訝そうにいい、部屋を出て行った。

 階段付近まで歩く音が進むと、おかえりなさい、と莉那の声がした。

「ただいま」大人の返事が聴こえる。「ひとが来てるのかい?」

「うん。ずっとまえコンサートで知り合った友達。仲良くしてて、やっと会えたの。きょうは泊まってもらうから」

 そう、と返事があった。

「それより、はやいじゃない」

「今晩は商売あがったりだったから、はやめに閉めた」

 ふうんと莉那が鼻を鳴らす。「ごはん、テーブルにあるからレンジで温めて。きょうはアジフライ」

「そうか。楽しみだ。おまえのフライは旨いからなあ」

「ソースかけすぎちゃだめだよ。身体に悪いし、洗うのも大変なんだから」

 はいはいと父親が笑った。会話が止むと彼女はもどってくる。まず洋助は、「なんだか予想していたより、仲がよさそうだね」といった。この年頃の父娘としては、まともなものに聴こえた。

「べつに好きじゃないですけど、わざわざ邪険な態度をとる必要もありませんから。わたし、いつもちゃんと感謝してます。卒業式とか、結婚式とか、そんなときだけ涙してお礼すればいいってものじゃないと思うから」

 テレビCMだとそんなのばっかりですけど、と彼女がいったので、たしかにそうだなと苦笑した。

「そうだ」と洋助はいって、「あれははずれたね。きみが休むと、帰りが遅いってやつ」

「ああ……でも偶然ですよ。店、暇だったみたいだし。こんなこと、はじめてですから」

「心配してるんだと思うよ」

「だったらどうして」すました顔で彼女はいった。「こんなことはじめて、なんでしょうね」

 洋助はまた苦笑した。

 そのあとは咲音クミのCDを流し、それにあわせてクミが歌を披露した。莉那は感動のあまり鼻をすすりながら聴いている。ビッグ・ネームによる、観客ふたりのコンサート。莉那も、そして洋助も、この思い出は生涯に渡って誇れるものになるはずだ。

 扉がノックされた。クミがはっとして黙ってしまったので、CDだけが流れる。

 お父さんだけど、と声があった。莉那は、うんどうしたの、といった。

「友達に挨拶くらいはしようと思って」

「ありがとう。でも大丈夫」

「男の子なんだろう? 靴でわかった。はじめてじゃないか。泊まるとなると、父親として一言くらい挨拶するものだよ」

「大丈夫だから」

「とはいっても」

「ごめん、しつこい」

 ――莉那さん、といって洋助は立ち上がった。「ちゃんと挨拶をしよう」

「え、だって、顔見られたら……。一度だけ、ニュースやってたんですよね? お父さん、知ってるかも」

「そうかもしれない。でも、ぼくに気がつけば、すぐに出て行けばいい話なんだ。これじゃかえって不審だし、お父さんも心配するよ」

 莉那は名残惜しそうな目でクミを見て、それから何秒か考え、「わかりました」と答えた。

 父親は風呂に入ったあとらしく、まだかすかに湯気がたっていた。Tシャツにハーフパンツといった軽装だ。ひとり娘はまだ高校生なので、まだ中年とは呼びきらない面容をしていた。ジェルをきかせてバー・テンダーの装いをする姿を想像できる。

 彼はまじまじと洋助を観察したあとに、「父です」と頭をさげた。洋助は年相応に見られるので成人している相手だとわかったらしく、丁寧なものだった。

 最初にじっくりと眺められたことに違和感もあったが、それを尋ねるタイミングでもないので、自身も腰を折る。

「山本です」と偽名を名乗る。「こちらから挨拶するべきでした。気がまわらず、申し訳ありません。遠くから来ているものですから、一泊だけお世話になります」

 ええっと、と父親は頭を掻いて。「恋人……でよかったですか」

 いえいえ友達ですと平手をふる。莉那もちがうってばと恥ずかしそうにした。

「それはよかった。この子と婚約する相手まで、ボーカロイド? のファンだと困ります。家中があの、咲音クミ? だらけになりそうだ」わたしのコーヒー・カップもあれのグッズに変えられたのですよ。そういって父は笑う。交際相手ではないとわかったからか、どことなく力が抜けたのを感じた。「では下の客間に布団用意しておきますから、そちらでお休みください」

 そういえばどこで寝るのか考えていなかったと思いながら頭をさげる。明け透けな亜衣なら不思議と同室でも馴染んだが、女子高生となると寝心地が悪そうだ。

 扉を閉めるまえに、「そうだ」と彼はいった。「下でどうです」酒をあおる仕草をする。「うちのはまだ若いし、男子もいません。いっつもひとりでたまらんのですよ」

 どうせ顔は見られているのだから構わないと思い、「おつきあいします」と答えた。「あまり飲めませんが」

 やったお姉ちゃん独り占め、と、横で莉那が拳をにぎる。お姉ちゃん? といわれたが、ふたりでごまかす。父親はじゃあすぐに準備しますといって降りて行った。

「大丈夫みたいだったね」と莉那がいう。洋助は、「さあどうだろう」とだけ答えた。互いの器に酒を酌む、それは話があるという意味にもとれる。

「コンヤク、なんですか?」クミの声がした。

「どうしたのお姉ちゃん」莉那が液晶に寄る。

「聴こえました。コンヤク。それはなんですか?」

 たしかに、その熟語を父親がくちにしていた。殺人があった武国館の一室で耳にしたキーワードなものだから、ふと反応したのだろう。

「結婚するってこと。ええっと、つまり、ずっと一緒にいるってこと」

 わお、とクミはいった。「ケッコン、それ、わかりません。ですが、ずっと一緒、それ、楽しい気分、です」

 そっかと呟いて、「お姉ちゃんは……真っ暗の部屋にいるんだもんね」ファンの彼女は当然のように知っている。

「ヨースケと、リナさん、コンヤク、してますか?」

 莉那と洋助は見合わせた。多感な女子高生の顔は真っ赤だった。それから彼女は両手を振りまわしながらいう。「し、してないっ、そんな簡単に、するものじゃないのっ」

「では、ワタシと、ヨースケ、コンヤク、してますか? ずっと一緒、いますが」

 うーん、と莉那は首をひねって、「上手くいえないけど、それとはちがうの」

「そうですかあ」思いなしか残念そうに彼女はいった。「では、ワタシと、リナさん、コンヤク、してますか?」

「してますっ」はやい返事だった。「ずっとまえからしてますっ、これからもしてますっ、これセーカイですっ」

 洋助はクミに聴こえないよう液晶のマイク穴を指で塞いだ。

 へんなことをいわないように、と告げてから一階に降りた。父親はダイニング・キッチンにあるテーブルにアイス・ペールを準備しているところだった。バーを経営しているだけあって、なかなか小洒落た食器が揃っている。誘われた手つきからみて酒だと予想していたが、洋酒だった。エヴァン・ウイリアムズはバーボン・ウィスキーだっと記憶している。いつだったか、父親が葉巻を燻らせながら飲んでいた。

「やれますか」と訊かれた。洋酒を、という意味だろう。「一応、瓶ビールもありますよ。ブルックリンラガーですが」

「なんとかいけます。ますます飲めませんが」

 彼は微笑して頷き、オールド・ファッショングラスに氷を落とす。いい音色がした。

 テーブルを挟んで座り、まず杯をうける。氷が軋む。むこうのグラスにも琥珀色を少しだけ注ぎ、それから舐めた。乾杯はしなかった。どこへむけたものかわからないからだ。

「オイル・サーディンしかなくって」平たい缶詰めを差し出される。蓋は巻かれていた。「焼きますか? マヨネーズやら七味唐辛子やらのっけてやると、なかなか旨いんですよ」

「このままで充分です。お客さんではありませんから」

 そうですかといい、彼は杯をあおった。それから何秒かの沈黙。つぎに出る言葉は、なんとなく予想がついた。

「――洋助さん、ですよね」

 はい、と答えた。杞憂ではなかったようだ。

「拝見しましたよ。先日」

「ニュースで」

「そう」

 心配はいりません、と洋助はいった。「すぐに出ていきます。通報は勘弁してください」

「いえいえ、構いません」平手をむけられる。意外だった。「なにやら娘も喜んでいる。まあそうでしょうね。報道によると、あなたはボーカロイドというやつを連れているのですから。――娘とはやはり、コンサートで面識を?」

「ええ、先日。それを頼りに、東京から」

「それは大変でしたね。今夜はゆっくりされてください」

 思ってもみなかった対応に、助かります、と頭をさげる。「明日には発ちますから」

「べつに急がなくてもいい」

「どうして」

「娘ですよ。やはり、嬉しそうにしている姿を見ていたい。あの調子なら、学校というやつにも、休まずに行くかもしれません」

 彼女のハイ・テンションを見ていたはずもないのだが、父親というやつはなかなか敏感なようだ。もっとも洋助はあの姿を正面で拝んでみて、逆に液晶のそばから動かなくなるのではないだろうか、という不安にも似た愉快さがあるのだが。

「しかしこの家を巻きこむわけにもいきませんので」

 わかってますと彼はいった。「わたしも、そんな事態を歓迎はしない。ただあなたに任せると話しているだけですよ」

「お気持ち嬉しいです」と頭をさげた。

「それより、お願いがあります。本物のボーカロイドというやつを見てみたい」彼は照れ笑う。「どうして娘があんなにハマるものなのか、気になってしまって。いいかな」

 もちろんですと洋助は答えた。そして二階に一度もどり、莉那の部屋に入る。ずいぶん静かだったので彼女がクミを連れて失踪でもしたのではないかと不安になったが、その解は眠りについているからだった。液晶を抱きしめて、ベッドに倒れこんでいる。寝床に対して真横になっているから眠るつもりではなかったのだろうが、瞼を伏せるとまどろんでしまったに違いない。きっと昨夜も眠れていなかったのではないだろうか。

 洋助はごめんねと声をかけて胸元から液晶を抜いた。もちろんクミは眠っていなかった。明るくなりました、と喜んでいる。

 今夜の気温なら掛け布団も必要なさそうだったので、そのまま一階へもどった。空いていたはずの洋助のグラスが満たされている。

「この子が咲音クミです」とテーブルに置いた。「パソコンソフトのキャラクターでした。しかしその人気によってライヴコンサートの演出に及び、最後は製作会社であるハヤマ・ロイド社によって人工知能をあたえられました。いまや世界にもファンが多い大スターで、ボーカロイド総代でもあります」

 少々熱く語ってしまったので恥ずかしかったが、揶揄する瞳はなかった。そう娘から聞いています、と彼はいった。

「こんばんは」と、まずクミが頭をさげる。いきなり連れてこられたので状況の把握ができていないのか、きょろきょろしている。

「ご本人……なんですよね」液晶にいう。

「ゴホンニン」平たい発音のあと、首をかしげる。「それは、なんですか? ワタシ、ボーカロイド、咲音クミ。なんと、歌えます」

「この子が大スターですかあ……」理解はできているのだろうが、どうも訝しげだ。莉那を除き、皆がこんな目をしている気がする。

 洋助はクミに、「莉那さんの父だよ」と紹介した。わお、と彼女はいう。

「それ、知ってます。つまり、カゾクです。リナさん、大好きです。ですから、チチさんも、大好きです。ワタシ、オネーチャン、なりました。よろしく、できますか?」

 はじめての彼には難解そうだったので簡単に意味を説明すると、なんとか理解に至ったらしかった。ああそれでお姉ちゃんかあ、と頷いている。

「ありがとう。歓迎するよ」彼は笑う。そのあとに洋助を見て、「あの子、発狂してませんでしたか」と尋ねる。「もう本当にファンですからねえ。まさか本人だなんて……おまけにお姉ちゃんだなんていわれると……」

 彼女の人権を尊重して、「すごく喜んでおりました」とだけ伝えた。「――それより、気になりませんか? どうしてぼくが咲音クミを誘拐したのか。まったくお尋ねになりませんね」それに、ひとの善意を疑うことはしたくなかったので考えないようにしていたが、思いなしか冷静すぎる節もある。

 ああ、と彼ははっとした。しかしその瞬間、テーブルに置いてある携帯が光ったので会話が途切れる。洋助のものだった。

 携帯が光る……、それ自体は日常的なことなので、条件反射で本体を手にする。しかしその行為に及んでみると、急に、ぞっ、とした。

 ――どうして電源が入っている? GPSを恐れて、常に切っていたはずなのに。

「携帯を触りましたか?」と洋助は訊いた。

「他人のものに触れないよ」

 彼は平手をふる。たしかにそんなことをする意味がない。もし洋助が邪魔ならば、隠れて警察に通報してしまえばいいのだ。

 ではどうして。いや、だれが……。チャンスがあったのは、もちろん莉那しか残らない。彼女の部屋でも携帯はポケットから出していたからだ。しかし、ますますあり得ないのではないか。彼女は咲音クミと対面を果たした大ファンである。洋助が拿捕されればクミも消える。それではまるでメリットがない。

 そうなると確率は……。洋助は記憶を反芻した。するとやはり、あのときしかない。昨夜、莉那と通話をしたときだ。あのとき、電源を切り忘れていたというのか……

 そのときの視界を思い出そうとするが、むしろどんどん失われていく。さらに被害妄想から作りだされたネガティブな映像が再生され、電源を入れたまま放置する自分の姿が浮かびはじめた。

 もしそうなら間抜けだ、と自分を殴りつけてやりたくなった。

「どうかしましたか」と訊かれる。

「いえ、なにも」

 しかしどうやら事情がわかっているらしく、父親はいった。「無責任なことはいえませんけど、電源くらいなら大丈夫でしょう。ほら、事実、ここに警察は来ていないわけでしょ。GPSで探知されているなら、もうとっくに捜査員が到着しているよ」

 たしかにそうだな、と思う。もっとも、ありがたいのだが、妙なことでもあった。この手の捜査をしていないのだろうかと考えてもみるが、そんなことがあるのかないのか、洋助にはわからず、答えがでない。

 とりあえず、なぜ携帯が光ったのかを確認すると、それは受信メールだった。

『連絡ください。待ってます。ニュースを見てから、とても心配です。夜中でも連絡してください。起きてます』

 日下ひより、と名がある。彼女だったか、と思う。しかしそれ以上眺めている余裕はなく、すぐに電源を落とした。

「落ち着いたほうがいい」と彼はいった。その通りだ。クミも心配そうに見上げている。

 冷静になるために蒸留酒を舐めた。まるで旨く感じることはできないが、それがかえって深い吐息を誘い、心拍の跳ね具合にゆるやかさをあたえる。

「犯罪者なのに、お気遣いをすみません」

「まあ、他人ごとではありませんしね。どうやら娘のお姉ちゃんが関わっているみたいだから」

 彼はそういって液晶を見る。なにを察したのか、セーカイですとクミはいった。

 それからしばらくは、父親と咲音クミの雑談を聴いていた。

「好きな言葉はありますか?」「たぶん、あります」「それはなんですか?」「お話、です」「……。嫌いな言葉はありますか?」「効果音、です」「……。食べ物を見て、美味しそうと思いますか?」「いつも、すごそう、と思います」「……。人間と違う、と理解していますか?」「してます。ボーカロイド、疲れません。これ、ニセモノ、だからです。あやまりたい、です」「……。そちらの空間は広いのですか?」「会社のひと、ロクジョウくらい、といいました。広いですか?」「狭いですね」

 そういったあとに、「外に出たいですか?」と父親は訊いた。

 クミは眉をさげて笑う。「それ、考えてはだめ、といわれました」

「一度もないんですか?」

 彼女はうつむいてから、顔をあげた。苦笑している。「たぶん、あります。でもそれ、正しくないです。ですから、こう考えてます」彼女は踊るようにくるりとまわり、両手を広げた。「ここから見える世界、すべて、ワタシの世界。ヨースケ、リナさん、チチさん、みんな一緒。とても楽しい。淋しくない」

 クミはそういって片目を閉じた。彼は微笑を浮かべながら何度も頷いていた。ファンが熱を帯びた口調でその偉大さや経済効果を訴えなくても、彼女の魅力が多少は伝わったような気がした。


 深夜がまわったころに客間で休ませてもらった。父親はまだ酒を舐めていたが、洋助はそれ以上アルコールと付き合えそうもなかったので場を辞したのだ。

 寝そべってみると、来客寝具はふかふかしていた。客間は和室になっているので、ちょっとした民宿気分だ。

 それから瞳を閉じて、どれくらい経ったか……

 いつの間にやら寝入っていたが、自分の名前を呼ばれた気がして目を覚ました。

 洋助は、――クミ? と呟いて液晶を見てみる。が、彼女は膝を抱えて眠っていた。

 反対に顔をむけると、客間の扉から一歩ほど入ったところに、父親が屈んでいた。声の主は彼だ。そっと呼びかけたことがわかりやすい、クラウチング・スタートのような姿勢だった。

「洋助さん、起きてください」と彼はいった。

 なにやら部屋にある窓のほうを気にしている。これは良い報告が続く面容ではないな、と察し、素早く身体を起こす。

「どうかされましたか」

「うん。いま、近くにある自動販売機へ出掛けようと思って外に出たら、不審な車が何台かあってね……」

「――捜査員」

 おそらく、と頷いた。「いくつか人影もありました。わたしに気がつくと車内にもどったから、観察していたのはうちであったと思う」

 洋助は布団のうえに立ち上がった。行儀を気にもしていられない。「いま、何時ですか」

「二時半。やはり携帯のGPSで探知されていて、夜中を待っていたのかな」

 そうかもしれないと思った。もし暴れられでもして咲音クミが入った液晶に破損があれば、それは人質の生死に関わる。

「まだ飲んでいたのですか」洋助は尋ねた。

「ええ。うちの閉店は二時だから、普段ならまだお店だしね。それがなにか?」

「たぶん、家に明かりがあったので消灯を待っていたのではないかと」

 なるほどと彼はいった。「――それより、逃げるんでしょう?」

「もちろんです。行きます」

「荷物は娘の部屋からこちらに移しました」たしかに荷物類がまとめられている。これならすぐに発てる。「あとは裏口のほうから出ればいいかと」

「助かります」洋助はリュックを背負い、液晶を手にした。

 音に反応したのか、クミが片目を開く。そしてきょろきょろした。

「クミ、追っ手だ。逃げるよ」そう告げると彼女は不安げな顔をした。「莉那さんにもお礼をいいたいのですが」

 彼は首をふる。「まだ実感がわきませんが、咲音クミというボーカロイドが我が家に存在するという現実は、世間がひっくり返るくらい貴重なことだとわかりました。きっと泣きながら袖を引かれます」

 液晶を抱きしめる彼女の姿が浮かんだ。それについての説得は済ませてあるが、あの熱烈ぶりなので、いざとなるとわからないかもしれない。

「……そうですね。ではあなたに、ふたりぶん」そういって頭をさげる。「ぼくを起こす必要など、なかったのに」

 彼は複雑そうな表情でもう一度首をふった。「さあはやく」

 ダイニング・キッチンの脇に裏口はあった。そっと開くと、人らしい黒子は見あたらない。すでに携帯の電源を切っているので、この家にいると確定できていないのかもしれない。いくら警察であろうとも、他人の敷地に踏みこめば不法侵入だ。

「行きます」と洋助はいった。

 待ってくださいといわれて、「こんなときですが、ひとつだけ訊いてもいいですか? あなたは娘と打ち解けているように見えた。心のうちを知っているかもしれない。だから訊いておきたいのです。明日にでもと考えていましたが、こんな事態になりましたから」

 洋助はかしげて応える。

「彼女には母親が必要でしょうか」

「――お母さん?」

「そうなんです。私には最近、交際している女性がいます。もちろん再婚を視野に入れています。相手もこちらの事情をわかってくれたうえで、頷いてくれました。しかし、見苦しいかもしれませんが、恐いんです。新しい女性など連れてくれば、娘は怒るのではないかと……」

 そういうことだったかと理解した。

「莉那さんが学校を休んだ日には、仕事のあと、その方とお会いしていたのですね」

「え、はい。なぜそれを……。そうなんです。やはりあの子はまだ高校生一年生。家事などを理由に休むたびに、まだ母親が必要なのではと思い悩み、話をしていたのです」

 大丈夫ですよ、と洋助はいった。「彼女は母親を求めています。うまくいきます」

 そうですかっ、といって彼は表情を明るくした。

 洋助は行きますと再度いったが、――チチさん、という声がポケットからあった。視線が液晶に集まる。

「チチさん、ありがとう。これ、お礼といいます」

 こちらこそと彼はいった。「大スターに会えて光栄だよ。これからは、きみがイラストされたマグ・カップで飲むコーヒーが楽しみになりそうだ」

 クミは少しだけ照れ笑って、「リナさんに、いってください」と続けた。「ワタシ、逃げます、あやまりたいです。でも、オネーチャン、カゾク、ずっと一緒です」

 父親は微笑みながら深く頷いたあと、さらに何度も小刻みに顎をひいた。

 表を確認している余裕はなく、洋助は外に出ると、指示をうけた裏道を駆ける。地図にも記載されていない道らしく、そこを進んで抜ければ、この家からずいぶん離れることができると説明された。もっとも、、そこから先は洋助の判断となる。この地は見知らぬ場所であるので、不安はまだ拭えない。

 十分もすれば裏道を抜け、市街に出た。息を切らしながら見まわしてみると、意識の片隅にある風景だとわかり、つまり駅のほうへ逃げてきたのだと理解できた。

 莉那の自宅があったほうを振り返ると、また他人の世話になったな、と感慨深い気持ちになる。あまりに早い出発となってしまったな、とも考えた。しかし、語弊があるかもしれないが、今夜はこれでよかったと思っている。あの環境は居心地がよく、安全で、莉那や保護者の理解までが得られていた。そしてそれは、むしろ彼女たちが望んでいる状況ですらあったのだ。もし捜査員が現れなければ、明日、はたしてあの家を発てただろうか、と、いまでも答えがでないほどだ。

「逃げれ、ますか?」クミが洋助を見上げた。

「うん。きっとまだ捜査員は家の外。しばらく距離をかせげる」

 だとしても警戒は必至だ。街にも巡回が展開されているだろう。

 それから少し進むとT字路にぶつかった。さてどちらにしよう、と思う。呼吸を整える時間もほしかったので、何気なく彼女に尋ねてみることにした。

「どっちに行こうかな」

「ドッチ?」

「左右はわかる?」

 なんとわかります、と自慢げな声があった。「ミギは、右のほう、です。ヒダリは、左のほう、です」

 そりゃそうだと思いながら、「どっちに行こうかな」と再度訊いた。

「左のほう、です」クミは即答した。根拠はないだろうが構わない。どうせ答えなどないし、深呼吸をする時間もつくれた。

 左に歩き出した。すると間もなく、人の姿が視界にちらついた。捜査員かどうかまでは判断できなかったが、すぐに電信柱のそばに寄る。電灯がないので、陰に身を隠すことができる。それでも上手なかくれんぼとはいえないので不安だったが、運良くその人間はこちらには来ずに、べつの道へと折れて行った。

 安堵の息をついて、「クミ、さっそくピンチじゃないか」

「じつは、右のほう、でした」と彼女はいった。

 それは遅いよ、と笑う。彼女は照れ笑い、頭を掻くような仕草をしながら謝ってきた。緊迫時における彼女への対応にもずいぶん馴れてきた。心は揺れているが、それをわからせる必要はないのだ。

「どこに、逃げますか?」

「そうだね……」

 地理のない環境、深夜により交通機関は停止、なんとなくの巡回ではなく、洋助を捜すためだけに双眸を光らせた捜査員の徘徊。タクシーを捕まえたとしても、深夜の観光地で長距離移動は不審だし、まずどこへ向かえばいいのだろう。

「……もう無理なんだろうね、本当は」

 単純に思考力を働かせれば、あの家で諦めるべきだった。外へ逃げたところで、この状況ではなにも変わらない。むしろ敵地へのパラシュート降下だ。これなら咲音クミを盾にして、それがだめなら莉那や父親に協力を仰ぎ、首もとに刃を突きつけ、あの洋宅に立て籠もっていたほうがずっと逃亡寿命は伸びたはずだ。

 しかし洋助はこの時を待っていたような気がする。

 この地での、どうしようもない状況。誰かの力が必要な状況――

 その時に頼れるのは、もちろん赤の他人などではない。

 当然、面識があり、信頼できる人物だ。

 こんな事態に陥らなければ、もう二度と声を聴くことはできなかっただろう。そんな勇気は出なかっただろう。偶然とはいえ、この逃避行を利用したのは卑怯であろうか。洋助は情けなくて、自分に冷笑をふかしたい気分だった。

「むり……ですか?」クミが静かにいった。「それは、おしまい、ですか?」

 洋助は、「大丈夫」と頷いてみせる。「まだもう少し、一緒にいられると思う」

「……少し、ですか? ずっとは、だめですか?」

「だめじゃない。そうなったらいいね」

 話しながら携帯の電源を入れた。そしてメールを送信した。本文には携帯番号だけを入力している。

 クミが声音を明るくして、「そうなったら、いいです」といった。「そしたら、コンヤク、しますか?」

 うーん、と苦笑する。「ファンとして、咲音クミのウエディング・ドレスに興味がないわけじゃないんだけれど、それは難しいかなあ」

 アイスランドであった同性結婚以上のニュースになりそうだ。

 着信が入った。洋助はくちに人差し指をたてる。いつものようにクミは真似た。

 無言で電話に出た。何秒かあって、相手の声がした。覚えている音色と同じものだった。

「――洋助くん、なの?」

 うん、と返した。「メール見たよ。ありがとう」

「いいの。いま……どこ?」

「小田原」

「それ、本当? あの、わたし……」

「実家は真鶴だったよね」

 覚えてたんだ、と返事がある。『真鶴』という駅は、ここ小田原から電車でいくつか走った近場である。つまり、それを知っていたからこそ、莉那を無理矢理説得してまで、この地に出向いたのだ。

 そして追い詰められるのを待っていた。

 彼女に連絡をしなければならない状況となるまで……

「それより、頼めるかな」

「うん」

「助けてほしいんだ。会いたい」

「……うん」

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