平沢洋助 4

 亜衣が現金の変わりに帽子をくれたので、それを深くかぶって外を歩いた。マスクなら違和感があっても帽子なら街に馴染んでいる。精神負担の軽減効果は高く、これは助かった。

 いくつか生まれていた行動手段から、ひとつをセレクトしていた。決めたのはあのニュースを聴いたときだ。――埼玉方面へ逃げた……。たしかに、昨日の電車で下ればそうだった。バスなどで近隣路線への移動はあっても、それは埼玉へと向かう。つまり捜査員は、まさか再び都心へもどるとは思えず、そのまま地方へ下ったと考えたらしい。

 ――が、実際にはそうはならなかったのだ。この地で偶然出会った亜衣の自宅で夜を明かしたのだから。

 情報に洗脳された街人が、見たひとがいるらしい、などと発言してくれたこともありがたい。引き続き油断はできずとも、現在において、ウォンテッドへの監視が強い場所はわかったわけだ。

 洋助はバスに乗ってさらに線路を横断し、終点の武蔵境という駅から中央総武線へと乗車した。青梅、立川……その他にもいくつか地方へ逃げる車両はあるが、そうではなく、洋助は反対路線に飛びこんだ。むこうが警戒されているなら、また新宿方面へともどるのだ。しかし都心まではもどらない。正直、捜査の盲点をつく感覚で自宅へとタクシーでもどって身を隠してやろうかとも考えたが、まえに読んだ小説で、そんな類の奇策に出た主人公は室内に張り込んでいた警官と遭遇していた。主人公は意外にも大外刈りで警官の拘束に成功していたが、残念ながら洋助にそんな必殺技はない。なので予定通り、中野駅で降りるつもりだった。

 いよいよ公開捜査がはじまった……

 額や背中に滲む汗は暑さだけのせいではないはずだった。帽子だけでは取り除けない緊張感がある。目元を隠したぶんだけ逆に濃縮されたような、いびつな監視感。いまにも肩を叩かれそうな……腕を捕まれそうな……指をさされそうな……叫ばれそうな……そんな一秒先にある未来への憂いが胸のなかで膿む。こうなると空間がねっとりとした温熱を帯び、衣類内に湿度が籠る。

 ちらりと車内の液晶ニュースへ視線をやる。いまは線路沿いにある飲食店の紹介をしているが、再び自分の顔がさらされるような想像がはたらいて落ち着かなかった。

 捜査員はどんな動きをしているのだろうか。ここで見つかれば、昨日のようには都合よく逃げられはしないだろう。だれか見ていないだろうか……自分を見ていないだろうか……洋助は何回も考えた。しかし帽子のつばを上げ、乗客を見まわす余裕はない。他人と視線が重なれば、その数分後には拿捕された自分の姿があるような気がしてならない。

「あれ? テレビのひと」という男の声が横でした。洋助ははっとして顔を伏せる。「あなた、あれでしょ? ニュースのあれ」

 快速なのでまだ停車しない。逃げられない。なので、――いいえ、と、発したか発してないかくらいの声量で返答をする。駅はまだかっ、と心中で叫ぶ。つぎは目的地の中野駅だというのに、いまだに例の、まもなく――というアナウンスもない。

「わたしですか?」と女性の声がする。

「そう。婚約会見があった」と男が続く。

「ちがいます。人違いです」

「え? ああ、ごめんなさい」

 その後、数分を経て中野に降りた。そして車内で胃に溜めこんだ陰湿な空気を一気に吐き出す。まぎらわしいにもほどがあった。あの男女にはなんの罪もないが、ただ洋助を苦しめたいがためだけに乗車してきたような、そんな悪意さえ感じてしまう。

 駅を出ると、ブロードウェイというショッピングモールへ続く商店街を正面にした。久しぶりなので、目的の出口とは反対方向へ来てしまったようだ。訪ねたい場所は、逆のほうにある。

 駅前は知名度にふさわしく混み合っている。しかし縦横無尽に歩行する人々の視線が、一斉に自分へと集まったような気がした。携帯を耳にあてる者の電話先が、一一○番のように思えてならない。

 逃げるように高架下を歩きはじめると、どっとビル風が吹いた。帽子が持ち上がってしまったので、深くかぶりなおす。

「………」そしてそのまま、手をつばにやったまま停止した。

 かぶりなおす直前、街人と目が合った。そのとき、ふたつの瞼がぴくりと反応をみせたように見えたのだ。――あれ? と、心中の声が聴こえたような気もした。年齢はわからないが、まだ若い男性だった。服装から察すれば捜査員ではなく、一般人だと思われる。数メートル先からだが、洋助を覗きこむような動きをしているのがわかった。

 洋助はすぐに踵を返す。横断歩道を渡り、ブロードウェイ方面へとむかう。それから背後を確認した。

 胸中で舌をうつ。距離はとったが、男はしっかり尾いてきていた。また目が合った気がする。――気づいたのだろうか。核心しているだろうか。洋助は考える。しかし、もしそうならば交番にでも駆けこむはずだ。または携帯を取り出すだろう。つまりまだ判断には至っていないということではないだろうか。

 途中の角を折れて、路地にまぎれた。密集地の代名詞を誇る中野は小道が多く、逃げこめば有利な地理だ。なので洋助は、蛇行するように曲がり進んで気配を街に溶かす。それがよかったのか、しばらく歩いて、つぎに振り返ったときには、もう男の姿はなかった。

 やろうと思えば、走り寄ってきて声のひとつでもかけられる状態にあった。よって通報などの確立は低いと判断する。もし洋助自身でも、似ているな、と思った程度なら一一○番など鳴らさない。人間、期待しているほど劇的な事態には遭遇しない、と、十数年も生きればわかってくる。もっとも、この街で洋助だけは、幸運と不運で編まれたこれ以上ないほどの「劇的」をポケットに忍ばしているわけなのだが……

「ヨースケ」液晶から呼ばれた。

「どうしたの?」

 一度足を止めて、冷静な声で返す。街中なので言葉は控えてほしかったが、子供を叱るように注意することはもうしたくなかった。昨日の戒めでもある。

「逃げれ、ますか?」

「うん。もう大丈夫みたい」

 そうじゃなくて、とクミはいった。「あっちのほう、です。ヨースケ、見てます」

 はっとした。彼女が指差す方向にちらりと目を配る。――たしかに、と思った。三十代前後の女性だ。やはり、あれ? といった風にこちらを見ている。

 本当に自分へむけられたものなのか核心的ではなかったが、洋助はそばにあった角を折れた。念には念である。

「助かるよ」と伝える。

 彼女は嬉しそうにしたが、「でも、あやまりたい、です」という。街中で声を出したことだと思われる。

「大丈夫。状況を見ながら、また教えてよ」ふたつの視界があることは頼もしい。

 誰かに尾けられていることも考えて、さらに路地を小刻みにうねり歩く。いつの間にやらブロードウェイにたどり着いたので、地下へ潜ってみた。そこは地上に負けないくらいの商店街となっている。内部をぐるりとまわってから、今度は二階へあがった。背後に意識をむけてみたが、いまのところ、ついてくるものは自分の影しかない。

「ワタシを、見つけました」とクミがいった。

 目線を追ってみて、ああ、と頷く。そこにはキャラクターのグッズなどを専門に扱うショップがあり、店頭には売れ筋商品が陳列してあるので、咲音クミ関連の物も多かった。

 立ち止まるのは躊躇もあったが、クミが興味深く眺めているので、初志貫徹と唱えながら棚に近寄る。

「逃げなくて、いいですか?」と気を遣われた。

「すぐに逃げるよ」

「捕まるの、だめです」彼女は心配そうな顔をする。

 大丈夫だよ、と返して、「昨日もいったじゃないか、クミが心配することじゃないんだ」

 彼女は一度うつむいてから、洋助を見上げた。「それ、正しい、ですか? アイさんの部屋で、テレビ、聴こえてました。サツジンキョーサ、これ、ワタシです。ヨースケ、ちがいます。だから逃げるの、ワタシのせいです。そもそも、ユウカイ、ワタシのせいです。――でも、捕まりたくない。これ、ワタシの、勝手です。考えなくていい、わけじゃないです。捕まると、ヨースケ、たぶん、楽しくないです」

「そうかもしれない。でも」洋助は微笑んでみせた。「ぼくは咲音クミのファンだから後悔なんてない。それに、簡単には捕まらないよ。だから気にしなくていい。――ねえクミ、それより楽しいお話をしよう」

 クミはゆっくり目を伏せる。「うれしい、です」

 やけにしんみりいわれて驚いた。洋助は、クミ? といってかしげる。彼女ははっとしてから笑った。そして商品棚を見まわしながら、「どうしてワタシ、こんなにいますか?」と訊いてきた。

「きみはアーティストだ。それはわかっているだろう?」

「あーてぃす……? ワタシはクミですが」

 とりあえずほうっておいて、「人気者っていうのはね、こうやって、様々なアイテムに載せられて売られたりするものなんだよ」

 クリアファイルを手に取った。なかなか丁寧に画かれている。洋助が普段使いするには可愛すぎるかもしれないが、学生たちには人気がありそうだ。ちょうど若いカップルが寄ってきて、女性のほうが、チョー可愛いんだけど、といいながら手に取っている。

「ワタシ、人気、ですか?」

「とてもとても、ね」その経済効果は抜群だ。

「じゃあヨースケ、ワタシ、ほしいですか?」

 なにやら語弊がありそうだが、意味はわかった。グッズのことだと思われる。

「そうだね。欲しいよ」置き去ってきたが、武国館で買ったばかりでもある。

「うれしいかも、しれません」彼女はニコニコした。

 そのとき、クミが口元に手をやった。どうしたの? と問う。

「いまの、ひと」近くを通過した人物らしい。「なんだか、ヨースケ、見た、ような」

 なにげなく確認する。若い女性だ。今回もたしかに、洋助のほうを見ていた。もっとも、洋助はいま、咲音クミグッズを背後にしている。様々なひとの視線を集めるコーナーなので、その注視がそこへむかっている可能性もある。しかしそれでも、いまはこの場を離れなくてはならないだろう。

「よし」と洋助はいった。あえて温和に頬をゆるませる。「逃げよう」

「ヨースケ、楽しい……ですか?」

「楽しくはないよ。怖いし、どきどきしてる。でもどうせ逃げるなら、楽しそう、なほうがいいでしょ?」

 そのほうがいいです、とクミがユースマイルをつくる。洋助は一度頷いてみせてから、帽子のつばを引き、歩きだした。

 高架下を越えて南口方面へと進む。商店街をこえれば店舗というものはめっきり少なくなり、住居のほうが目立ってくるのだが、そこにひっそりと、「ちはなっち」という小さな居酒屋が営業しているはずだった。

 ちょうどホームレスのような容姿をした男と道路を挟んですれ違った。満たされた、とでもいうように腹をさすっている。それを見て、どうやら店は開いているようだと予想した。そして着いてみると、その予想通り、ランチ営業がはじまっていた。

 無人のほうがありがたかったが、十席もない狭い店内にはふたりの客がいる。そんな様子を覗くようにして見まわしたあと、なかに入る。オープンキッチンではないので客席から店主の姿は見えなかったが、すぐに厨房から小太りの中年男が出てきて、客のまえに料理を置いた。

 いらっしゃーい、と、とくに笑うこともなく呼吸にまかせるように発したあと、こちらをむく。瞼がぴくりとした。

「――洋助、か」

「柳原さん、お久しぶりです」

「よお、どうしたあ」驚きながら寄ってくる。「客がいるから、こっちこいよ」彼は厨房へ手招きした。

 なかに入ってから、七年ぶりだなと思った。十九歳のとき、短い期間だったが、洋助はこの店のキッチンでアルバイトをしていた。中野に住んでいたので近かったし、接客のような仕事は苦手なので、ちょうどいい環境だった。

「腹は?」と訊かれる。空いているか、という意味だろう。朝は結局、亜衣が買ってくれたおにぎりをいただくまえに逐電してしまったので、「はい」と答える。

 自分が休憩するための椅子を引いてくれたのでそこに座ると、正面にある小さなテーブルに、先ほど客に出していたものと同じ料理を並べた。

「これ、客のものじゃあ」と尋ねる。ふたりいた客の片方にはまだ皿がなかった。

「いいよ。またすぐ焼くから食え」

 箸を手渡されて、相変わらずだなと苦笑する。遠慮なくいただくことにした。

 いまだにメニューは変わっていないらしく、焼鳥定食というやつだ。丼物に仕上げず、白米、味噌汁、それに串焼きを四本のっけた平皿という形で提供する。その理由を訊いたこともあるが、なんでだろうなあ、と他人事のように話していた。

 鶏は変鉄もないブロイラーだったと記憶しているが、空腹へとつながる喉には旨く感じられた。ポケットから覗くクミと目が合ったので、お腹がへったかい? と小声で訊いてみると、彼女は首をかしげた。それはそうだ、ボーカロイドに空腹はない。柳原が焼鳥をいじりながら、なんだって? といってきたので、慌ててなんでもありませんと返した。

 横目で柳原の様子を伺う。なぜ訊かれないのだろう、と思った。彼が社会ニュースをしっかり視聴する人間だったか覚えていないが、洋助が指名手配犯だという現実はそれなりのサイズへと成長した情報である。つまり顔を見るなり、追い返されたり通報されたりという対応をとられてもおかしくはなかったのだ。追い返されれば諦めてつぎの手を考え、通報の気配があれば逃げ去るつもりでいた。

「柳原さん」声をかけると、ん? と返事がある。「ぼくが来た理由がわかりますか」

「腹ペコなんだろ。挨拶しに来たってふうでもねえしな。仕事してねえのか?」

 たしかにこの店は、ホームレスや失業者に無料でおにぎりを提供する。表にそれを謳った看板が立てられていた。いきなり洋助が首を切られたのは、不景気にしてなお、そんな善行を継続するためだとわかっていた。

「仕事ならしてますよ。誘拐です」

「ユーカイ?」クミのように彼はいった。「――ああ、誘拐、ね。安定した職業にありついたじゃないか」もちろん冗談でいっている。「拐うほうか? 拐われるほうか?」

 苦笑して、「拉致されるのは仕事とはいいませんよ」

「じゃあ拐うほうか」いいながら焼鳥を皿に移す。「誘拐犯もおむすび無料って書いとくか」ご飯と味噌汁をよそうと定食ができあがり、彼は客へと運んだ。

 洋助は、やはり彼は知らない、と考える。もっともこれが演技であったとしても、見抜ける自信はないのだが。

 扉が開く音がした、客が入ってきたらしい。もどってきた柳原は、落ち着くまで待っててな、と自分の肩を叩きながら面倒そうにいった。食べたら帰れとはいわないのだから、なにかしら話があって来たのだ、とは理解しているらしい。首を切った青年が七年ぶりに来店してきたのだから、さすがに察するのだろう。

 二時になって昼の営業が終わると、「悪かったな」と、彼が声をかけてきた。退屈はしたが、この間だけでもかくまってもらった形になり、ありがたかった。

「いやあそれにしても久々じゃないか。そうそう、なんなんだ、ここに来た理由ってのは」

「……まず話したいことがあります」さっそく洋助はいった。雑談にふける余裕はない。「じきにわかるでしょうからいいますが、ぼくが誘拐犯なのは本当です」

「すごいな。仲間に入れてくれるか」

 彼は携帯に視線を移し、ぽちぽちいじりながら煙草に火をつけた。どうやら冗談だと思われ、伝わっていないらしい。

「これは本当なんです。ニュースでも放送されてます。おそらく新聞にも」

「新聞ならぱらぱらっと読んだが、そんなの知らねえなあ。テレビニュースもつけてはいたが、そんなのあったかね」

 嘘という風でもなかった。

「じゃあ新聞にはなかったのかも」可能性は低いが。「テレビのほうは見逃しただけです。ぼくの写真も公開されています」

「おいおい、いきなりなにいってるんだよ。信じられるわけねえだろ。いったいなにを誘拐したって?」

「本当に知らないのですか?」

 じっと見られた。こちらが真剣なのはわかってきたらしい。「……まじで誘拐したんじゃねえだろうな」

「それが本当なんです」

「いったいなにを。ガキか?」

「ボーカロイド」

 洋助は液晶をつかんで、柳原に見せた。座っていたクミは立ち上がり、日本人らしいお辞儀をする。彼は虚をつかれたような顔をしたが、すぐに笑った。

「驚かせるなよ。冗談がすぎるぞ洋助」なんだいこりゃ、といいながら液晶を覗く。彼はボーカロイドというものを知らないようだ。たしかに年配層にはまだ認知されていない。大人気のアイドルグループでも、中年に尋ねれば首をかしげられることがよくあるのと同じだ。「おまえの彼女か?」

「ちがいます。彼女は咲音クミ。知能があるキャラクターで、日本屈指の人気アーティストです」

「ふうん、世も末だな」

「じつは先日のコンサートで殺人があって、彼女が共犯にされそうになりました」

「その小説にミステリー大賞をやる」

「だから、この子を救うために誘拐したんです」

「身代金は何億だ?」

 これは困った、と思った。まるで信じていない彼に、どうも上手に伝えることができない。しかし伝えなければ、本人は決断ができない。洋助は今夜、彼に宿を頼むつもりでいた。自宅は無理でも、不法侵入という扱いで店内に寝かせてもらう予定でいた。だが迷惑をかけるわけにはいかない。裁かれなくとも、罪悪感は残る。だからこそ正しく理解をしてもらわなければならないのだ。

「携帯で調べてみてくれませんか? ニュース欄のどこかにあるはずです」

「さっきからやってるよ」と返ってきた。だから携帯をいじっていたらしい。「でも、そんなものはない。原発がどうとか、TPPが不満だとか、そんなのばっかだ」

 彼は画面を洋助に向けた。スクロールしてくれたが、本日のニュースと書かれている枠には咲音クミのキーワードはない。

 ――変だな、と思う。なにかしらの事情が働いたのだろうか。

 それはあり得るかもしれないと思った。コンサートでの不備は、会社のイメージダウンにも繋がる。事件自体を黙殺してもらうことはできなくとも、それくらいの老獪さはハヤマ・ロイドにもあるだろう。

 洋助からすればこれは僥倖だった。騒ぎの伝播が遅くなる。しかしながら、さらに柳原には伝えにくくなり、よって彼は怪訝な顔をするばかりだった。

「クミ、きみから説明してもらえないか」

 人工知能ボーカロイドの実態がわかれば、信じてくれるかもしれない。

 彼女は頷いて、「ユーカイ、ほんとうです。ヨースケ、正しいです。ワタシ、ボーカロイド、咲音クミ。歌をうたったり、踊ったり、します」

 うるさい、と柳原はいった。あやまりたいです、とクミは肩を落とした。

「なあ洋助」ぽんぽんと肩を叩かれる。「なにか悩みごとか? 友達がいないのか? たしかにおまえは社交的じゃなかった。恋人もいなかった。いまもそうなんだろ?」

「まあ……はい」

 柳原はいくつか頷いて煙を吐く。「わかる。たしかに淋しいのはわかる。しかしこんなガールフレンドはいかん。どうしてこの子を選んだ。よく見てみろ。人間じゃないということがわかるか?」

 ヤナギハラさん、とクミがいった。「ヨースケ、悪く、ないです」

 うるさい、と柳原はいう。あやまりたいです、とクミはがっくりした。

 そのとき、「すみません」 と、男の声がした。洋助のものでも、柳原のものでも、もちろん咲音クミでもない。客席のほうだ。つまり、来客らしかった。

 はーい、と返事をして柳原は立ち上がった。「おむすびかね」

 暖簾はさがっているから、洋助もホームレスかなと思った。一日で十人以上がきたこともある。

 彼が厨房から出ていくと、話し声が聴こえてきた。

「ああ、すみません。休憩時間に」

「構わねえよ。なかなか立派な背広じゃないか、リストラされた帰りかい?」

「――リストラ?」

「だったら幹部と喧嘩かい?」

「いいえ、中野警察署です」

 洋助の背筋が伸びた。なにげなく聴いていたが、表へ意識を集中する。

 背広、警察――つまり私服捜査員。

「警察だあ? なんだよ。違法営業なんてしてねえぞ。失業者に飯をやるのがだめだってのか? 野良猫に餌付けしてるわけじゃないんだから、いいだろうよ」

「めし?」

「俺も昔、金がねえときにめぐんでもらったんだよ。それが旨くてな。だからこうやって自己満足してんのよ。中年のささやかな義心を奪うんじゃねえよ」

「いえいえ、ちがいます」捜査員が平手をふった気がした。そして、ちがうというならば、このタイミングでわざわざここを訪ねてきた理由は限られる……。「いま、指名手配犯を探していまして、それでお話を伺いに」

 なんだよもう、と、柳原は安堵したようだった。「指名手配? ひったくり?」

「誘拐犯なんです」

「ユーカイ……」

 やはり、と洋助は思う。いきなり涼しくなり、顔面から血の気がひくのを感じた。

「ニュースや新聞をご覧になりましたか? あの事件です」

「ああ……えーと」

「なにぶん変わった事件でして、我々も困っています。拐われたのはボーカロイドですからね。咲音クミ、ご存じでしたか?」

「いやあ……俺ぁ」

「ですよねえ。なにせ画面のなかにしか存在しないアーティストですから、団塊世代にはどうもピンとこない。わたしもです」

「あー……ニュース……あのー……ヨウスケとかいう」

 ええ、ええ、という声があった。「駅のほうで、その犯人によく似た人物が目撃されていまして、このあたりをまわっているんです。黒い帽子をかぶっていたらしいのですが、それらしい通行人とか見かけていませんか?」

 そういうことかと考え、洋助は身構えた。ひいたはずの汗が、心地よくない粘度を帯びて滲み返ってくる。非常にまずい事態だ。すでに柳原は事件が真実だと悟っている。その彼がいま、ひとつ返事をすれば、ここに手が及ぶ。

 この状況で逃げ切れるだろうか、という焦りが襲ってきた。裏口や非常口の類はこの店に無い。つまり、警察が立ち塞がる扉から逃げ去るしかないのだ。

 柳原が黙った。警察は言葉を待っている。

 ――なんと答える。いったいなんというのだろう。

 いや、もうすでに返事をしているのではないだろうか。口を開かずとも、頷くことができる。目で合図することもできる。そう考えると洋助の心拍数はどんどん増した。

「いやあ、仕事してたからねえ」という声があった。

「ですよねえ」

「こっちには人気もねえし、来てないんじゃないのかね。こんな場所に来たら目立つだろ」

「なるほど、そうかもしれません。いきなりすみませんでした。またなにか思い出しましたら、警察署のほうにご連絡ください」

「はいはい、ご苦労さん」

 扉の閉まる音がした。その一瞬のやりとりが、やっと内耳を抜ける。洋助はどっと息を吐き出した。

 警察の背中でも眺めていたのか、柳原が厨房に帰ってきたのは一分ほどが過ぎた頃だった。彼は黙って新しい煙草に火をつける。

「ありがとうございます」と洋助はいった。

「こんなことがあるもんかねえ」小さく首をふる。「じゃあなんだ。本当にその……なんだっけなそいつ」

「咲音クミ」

 ああそうだ、といって、「そいつは知能がある人気アーティストで、コンサート? で殺人があって、おまえが誘拐したってのか」

「そうなんです」

 深い吐息があって、「おい、サキネクミ」

 クミははっとした。「あやまりたい、です」

「いいから答えろ。おまえさんは、生きてるのか? 知能があるのか?」

「生きてます。あります。しかも、ボーカロイド、疲れません。すごいですか?」

「やかましい」

「あやまりたい、です」

 クミはしゅんとする。彼女はどうも柳原と相性が悪いようだ。

 彼は煙草をふかした。「つまりなんだ。どういう状況だ? 最初から説明してくれよ」

 先ほどちゃんとしたのだが、改めて洋助は経緯を話した。今度は真面目に聞いているようだった。

「だからこの店に、というわけか……」

 はいといって、「柳原さんのいうように、ぼくは社交的ではありません。ですから頼れる宛は限られているんです。お願いできませんか。ここでアルバイトしていたことなんて、簡単には警察も辿れません。ですからぼくと柳原さんの関係も露見しない。つまりこの店に不法侵入して眠ったところで、罪にはならないと思われます。……しかし犯罪を持ち込んだ時点で迷惑なことはわかっています。だから無理強いはできません。ですが、本当にいまはここしか浮かばなくて……」

 何秒かあったあとに、よし、と柳原はいった。「俺にまかせろ」

「いいんですか?」

「いいや」と彼は首をふる。「一緒に警察へ行くんだ。俺がちゃんと話してやる。こいつは悪くないんだって」

「それじゃあだめなんです。たしかに彼女は悪くない。核心さえあります。ですがクミはまだ、帰りたくないって……」

「おいおい、ガキじゃねえんだぞ」まあそいつはガキだが、といって、「しっかり現実を見ろ。ええっと、ボーカロイド? そんなおかしな奴を誘拐しているせいで、実感が薄れてるんじゃねえのか? おまえは罪を犯しているんだ。しかも完全に巻き添えじゃねえか。このままじゃだめだ、罪が重くなる。俺と警察に行くんだ」

 洋助も首をふる。「……行きません」

 再びの深い吐息があった。「両親が泣くぞ……おっと、いまのはすまない」

 構いません、と返した。

「ええっと……親から連絡は?」

「携帯を切っていますから」

「心配してるぞ。自分の子供だったらって考えると吐き気がする」

 会ったことはないが、彼にはふたりの娘がいると聞いていた。

「どうしてもだめですか」

「勘弁してくれよ。大人ってのはガキの見本なんだ。気持ちはわからなくもないんだが、かくまってやることだけが正しい道とは思えん。やっぱり警察に行くべきだと思う」

「それはわかっています」洋助は立ち上がった。「ごちそうさまでした。もう行きます」

「まだ逃げるのか」

「はい。……強要はできませんが、通報はしないでくれると助かります」

 扉まで歩くと、「どうしてだ」と後ろから声をかけられた。「どうしてその、ボーカロイド? ってやつを守る。なんの意味があるんだよ」

 脳裏にセピア色の景色が浮かんだが、すぐにそれを掻き消した。それからいう。

「……ある時期、ぼくの心はぼろぼろでした。わかりますか」

「そりゃあ……もちろん。なんだ? そのとき、そいつの歌で救われたってやつか? それはこんな罪を犯す価値があったのか?」

「いいえ、ぼくを救ったのは、何匹かの動物でした」

「動物? ……まあ、だったらなおさらどうして」

「ぼくだけの問題ではないんです。辛い人間というのはぼくだけじゃない。咲音クミは、そんな人々を救えます。そしてそれは、彼女にしかできない」

 よくわからねえな、と頭に手をやって、「だったらはやく、それこそ警察で罪を晴らしてやればいいじゃねえか」

「……彼女が苦しむのを、見たくないから」

「おいおい、そりゃあ行為に酔いすぎだ。悪酔いしてる。正しそうに見えて、じつは自分も、サキネクミってのも痛めつけてるだけだ」

「……そのとおりです」

 扉をくぐった。洋助っ、と柳原に呼ばれたが止まらなかった。長くいればいるほど迷惑がかかる可能性が高まる。彼は一度、洋助はいないと証言しているから、警察の判断によっては罪になる。会話をしている姿を見られるわけにはいかない。

 落胆があった。――しかし彼は悪くない、と強く唱える。正論だった。大人の模範だといえる。たしかに、顔を知っている相手だからといって目をつぶればいいというわけではないのだ。間違いなく柳原は正しいことを語った。

「……ヨースケ」と液晶から聴こえた。

「いいんだ。平気だよ。これはぼくが決めたことだから。きみも柳原さんを恨んではいけないよ」

「そんなこと、しません。ヨースケに、お弁当、くれましたから」

「そうだね。感謝しなくちゃいけない。でもまずは」周囲を見まわした。「――逃げよう」

 はいと返事があった。

 とにかく、よくない状況だ。放り出されたこの街にはいま、捜査員が何人も徘徊している。機動捜査隊が動いていれば、すぐ横を走り抜ける自動車にさえ気を配らなければならない。もっとも、これは意識をむけたところでどうにかなる問題でもなかった。つまりいまは、遭遇に至らないことを願いながら、この地を離れるしかないのだ。

 ――しかし離れることができるだろうか。考えずとも、昨日よりもずっと監視力が高いことはわかる。電車、タクシー、バス……そのどれもが現在は見張られているだろう。走行中は密室……、それは川から狭い池へと逃げこむようなものだ。

 だからといって、徒歩でどこまで行けるだろうか。それこそ捜査員に出会うのも時間の問題だろう。

 くそっ、と吐き出した。まったく笑えない。本日は戒めにより心に余裕を持って動くつもりであったが、さっそくこんな調子となってクミに顔をむけられなかった。

「――っ」

 再び背後を確認すると、目が合った。距離は三十メートルほどもあるが、互いに動きを止めたのでそれがわかった。相手の目線は確実に洋助を射抜いている。

 ここからでも背の高い男だとわかった。暑いからか、上着は手に持っている。

 ――背広姿、つまり……

 洋助は駆けだした。走り出すのはすこしだけ相手のほうが早かった。

「ヨースケ」とクミに呼ばれた。そしてすぐにその意味はわかった。踏ん張ってぴたりと足を止める。前方からも、洋助にむかって走ってくる男がいるのだ。

 絶望している暇もなかった。洋助は瞬時に思考する。距離がどんどん詰まる。しかし近くに折れる角はない。背後を見ると、長身の捜査員も迫っていた。

 どうとでもなれ――

 不思議と洋助は、急に笑えてきた。「行こうかクミ」

 頷いた彼女も笑っていた。

 道路と舗道を隔てるガードレールを飛び越えた。軽トラックが急ブレーキを踏む。反対車線でもワゴン車が黒板を引っ掻いたような音を鳴らした。

 もうひとつガードレールをまたぐと対岸の舗道に辿り着く。そこで一度振り返った。洋助がいた場所にたどり着いた捜査員が唖然としているのが見える。

 車は何台か走っていたようだが、車間距離が広かったのか、事故はなかった。視界のなかでは急ブレーキによってジグザグに停車した車体が連なっている。

 洋助はまたすぐに駆け出した。距離をすこしでも稼ごうと、もう振り返らずに、膝を前に前に上げて走り続けた。

 もう走れないと思ったとき、どれくらい時間が経過していたのかわからない。自身の体力を考えてみれば、そこまで遠くまでは行けてはいないだろうと思ったが、景色の一角に中央線が目視できる距離まではきていた。一キロくらいは走り抜けたことになる。

 ここまで、あのふたり以外の捜査員には見つからなかったようなので、それにはほっとした。しかし、駅のほうへもどってきてしまったことが、どんな結果を生むのか不安もある。駅周辺のほうが人通りは盛んなのだから、割り当てられた捜査員も多いのではないだろうか。

 とりあえず休める場所はないだろうかと思いながら歩いた。曲がり角まで来たので、そっと先を覗く。――はっとした。背広を着た男を確認できたのだ。

 それが捜査員であるのか判断はできなかったが、しかし、いま追われれば逃げきれる自信はなく、かといって隠れる場所もなさそうなので、こうなると、仕方なしに道をもどるしかない。先ほどの捜査員に鉢合わせないことを願うばかりだ。

「逃げれ、ますか?」とクミがいった。

 肩で息をしながら、「余裕だよ」と答える。

「ほんとう、ですか?」

「ほんとうだよ」

 彼女はくるりとまわった。しかしなぜか、眉がさがっている。

 そんな表情のまま、クミはいった。「ヨースケ、ワタシ……帰ります」

 思わず足を止める。「クミ……なんで」

「……つらそう、です。むり、してます。たぶん、楽しく、ないです。ボーカロイド、疲れません。でも、ヨースケ、疲れます」

 つらくない、と洋助は語気を強めた。「無理もしてない。疲れてなんかない。……とても楽しい。本当なんだ」

「……正しく、ないです」

 洋助はゆっくり首をふった。「きみと比べてるだけさ」

「ワタシ、ですか? ボーカロイドは……」

「疲れるよ。ボーカロイドも疲れるんだよ。昨夜、クミは亜衣にいった。練習するのは、頭と心が疲れるって。そうだよ、きみには心があるんだ。さっき、生きてるって自分でいったろ。咲音クミは人形じゃない。だから疲れる。無理もする。辛くもなる。楽しくなくなる。だからこそ……逃げたいんだろ」

「ですが……」

「きみは優しい子だ。逃げたいだなんて、他人に頼むはずがないと思うんだ。だから、たぶん、きみはなにかを我慢してたんでしょ? それは、いまのぼくより辛かったんじゃないかな。疲れていたし、無理もしてたし、楽しくなかったんじゃないかな」

 彼女がどこか痛そうに瞳を伏せた。すこし心配になったが、コンピュータ的なトラブルではない様子だった。

「ワタシ、カン……ショク」

「いいんだクミ」と洋助はいった。「思い出さなくていい。それより教えてほしい、いまからどうするのか」

「……あやまりたい、です」クミは目を開いた。「ワタシ、逃げたい、です。あと、すこしだけ、でもいいので」

「わかった。ぼくだって、簡単には捕まってやるものか」

 そういって駆け出した。やはり先ほどの背広男は捜査員だった。振り返ると、後方から迫っていたのだ。

 今度も距離があったので、何度か道を折れたところで追跡の気配は消えた。汗を拭いながら、雑な追っ手だなと思う。走らずに他人のふりをしていれば、こちらは一般人だと油断して拘束も可能だというのに。

 とはいっても、どんな追跡であろうとも、つぎこそは巻けるかわからないなと苦笑した。いくら呼吸をしても肺が酸素を欲しがっている。胸の内側が擦れたような痛みもあった。小説、ドラマ、映画……いくつかこんな逃走劇を見たことがあるが、あんなに走ることなど誰ができるのだろうと疑ってならない。

 現在どの辺りだろうと見まわした。まるで土地勘のない住宅の森で迷ってしまったようだ。携帯に明かりがなければ、地図のひとつも手にできない。

 ――ぴたりと足を止めた。男と目が合った。こちらを凝視している。

 しかし洋助は逃げなかった。疲れで動けないわけではない。捜査員だと判断すれば這ってでも逃走するだろう。

「もしかしてあんたかあ、洋助ってのは」しがれた声を男はだした。

 怪訝な目をむける。この男の顔を知っていた。居酒屋「ちはなっち」への尋ね道、その途中、反対舗道をすれ違ったホームレスだ。垂れ眉毛と顎髭が特徴的だった。

 どういう意図だろうかと思った。名前を知っている……。ニュースで見たのだろうか。そして顔と一致させた……? つまり首肯すれば通報するということだろうか。しかし、いったい彼になんのメリットあるのだろう。まさか賞金などかかっていないはずなのだ。クミに視線をやると、二つ結いを揺らして彼女も首をかしげた。

 洋助が黙っていると男は続けた。

「違ったかいな? その服装と帽子、聞いたとおりなんだがなあ」

「……あなたは」

「それより、いま追われてんだろう? 立ち話はまずいんじゃないのかあ。あんたが洋助なら、ほらあ、こっちだあ」

 やはり意図は掴めなかったが、双眸に悪い光が灯っているようには見えなかった。むしろ淡すぎて、ますますわからない。よって洋助は躊躇したが、場所もわからないこの路地に疲弊したまま立ち尽くしているわけにもいかず、迷いの森で木こりに出会った感覚であとに続くことにした。


 腰はまだ曲がっていないが、年月を重ねた男の顔だった。七十に手が届くのではないかと予想される。

 十分もすることなく、その場所には着いた。小さな平屋を一軒だけ組み立てることができそうな敷地だった。表面は風で舞いそうな白砂で、所々には先端が黄ばみはじめた雑草が渇きに飢えている。右奥の一角には青いビニール袋で覆われた箱形住居があった。

 そこへ歩んで行くから、どうやらそれが彼の家らしい。

 入れえ、といわれた。「臭いぞお」

「あの……あなたは」

 まず入れえ、といわれた。「臭いぞお」

 洋助は玄関の変わりになっている布をめくってなかに入った。つめれば三人が川の字になれる広さだ。たしかに饐えた臭いがしたが、室内にいられないほどでもなかった。

 まあ座れえ、といわれたので腰をおろす。肌掛けのような薄っぺらい床生地だったが、重ねて敷いてあるのか、砂地の固さは感じない。

 よいしょおといいながら彼も正面にあぐらをかいた。歩いてきたのに、どうして自分と同じくらい疲れているのだろうと洋助は思った。

「あの、それで」

 ゆっくりと平手をふられた。「なあに、ヤナさんから頼まれただけだあ。誰か来たらあ、布団でもかぶって奥にいればいい」

「――柳原さんですか?」洋助は乗り出した。ホームレスからヤナさんと呼ばれているのを昔耳にしていた。

「そうだあ。あんたが出て行ったあと、雑談がてら寄ったんよお」いくつか咳きこんでから、「そうしたら、うちには置けねえから、わしんとこ泊めてやってくれねえかってなあ。ヤナさんには握り飯で世話になってっからあ、断れねえわなあ。それに、ひとりは退屈だしなあ。ちょうどよかったかもしれんくてえ」

「そうでしたか……」どこまでも他人の世話になる数日だ。

「んで、追いかけたんだあ。あんたは、スーツに追われて道路を渡ってたなあ」あのときだと思った。あれを目撃していたのだ。「どこ行ったかわからんかったが、逃げたほう探しておったら捕まえたあ」

 どうやら、引き返した決断は間違っていなかったようだ。彼は続けた。

「こんな場所でよかったらあ、泊まってけえ。まあ、わしの土地じゃねえけどなあ」

 そういって彼はからからと笑い、また咳きこんだ。

「ありがとうございます。充分ゆっくり休めます。明日には出ていきますから、一晩だけお願いします」

「なあに気にするこたあねえ。ゆっくりしてけえ」そういってペットボトルに入った水を渡してくれた。未開封ではない。どこかの水道水でも詰めたのだろう。「ヤナさん恨んじゃいけねえぞお。自分が捕まったらあ、わしたちが困るってわかってんのさあ」

「もちろんです。柳原さんにも貴方にも、きっとお礼をします」クミ、と声をかけ、液晶を出した。「きみも挨拶を」

 彼女は頷いて、「咲音クミ、といいます。ヨースケ、ワタシ、とても、救われました。なんだか、狭いところですが、ここでいいです」

 語弊がありそうなので洋助はしわぶきをした。

 彼はがんわに迫るほど目を丸くして液晶を覗いた。天空の城ラピュタという邦画で、飛行石という物質を目のまえにした老人が、ちょうどこんな面容をしていた。

「こいつかあ、ヤナさんいってたの」事情は聞いているらしい。彼はポケットから眼鏡を出して、鼻に乗せる。

 クミがいった。「お礼、します。ワタシ、ボーカロイド、歌えます。歌いますか?」

「あいやあ……わしに話してるんかいなあ」

 洋助に訊いてきたので、そうですと答えた。「彼女にはちゃんと知能があります。ですからあなたは恩人だと、理解しています」

 彼は液晶をつついた。誰もがこの動作をしている気がする。

 クミは指をかわしながら、おおお、といった。

「わしは住吉だあ」なんともこの住居にふさわしくない名前だった。

 クミは頭をさげる。「スミヨシさん、はじめまして。これ、最初の挨拶、知ってます」

「あいやあ……なんてこったあ……名前はなんてえ?」

「ワタシ、ボーカロイド、咲音クミ。なんと、疲れません。すごいですか?」

 色々いわれて住吉は混乱したようで、「ボ……カロさん」とだけいった。しかし、世間でボーカロイドはボカロと略されているので、ちゃんと名称になっている。「ボカロさん、めんごいなあ」いいながら頭のあたりを指先で撫でた。

 クミが不思議そうに洋助を見る。さすがにボカロさんと呼ばれたことはない。なのでクミのことだよと教えてあげると、なるほどと理解したようだった。めんごいとは東北などで可愛いという意味だったはずなので、故郷は北になるのだろう。

「なんかあ、すごい時代になったもんだなあ」

 住吉はしばらく頷きながら感心していた。

 ホームレスの住居は息がつまるような閉塞感もあったが、日中に外へでることはもうしたくなかったので、そのまま夜を待った。そして、つぎに外を覗いたときには八時だったので、もちろん真っ暗になっていた。外界が霞んだけでも、不明瞭な安堵がある。

「ボカロさん、またしりとりやるかあ」

 住吉が穏やかにいった。この数時間ですっかり仲良くなっている。さっきから彼は一生懸命にしりとりを教えていた。ジャンケンしかわからないクミを可哀想だと考えてのことらしい。住吉はつねに微笑んでいて、その対応は孫へむけられた愛情に似ているような気がしている。

「シリトリ、しますか。ワタシ、得意です」

「あんたあ、さっきから負けてばかりだあ」

 住吉が笑い、洋助もつられて笑った。しりとりの様子を思い出すとなんとも愉快な気持ちになる。洋助からすれば、勝ちも負けもないゲームになっていた。

 ――「まず、シリトリ、です」「わしは、りんごだあ」「リンゴ、それはなんですか?」「赤くてなあ、旨いぞお。ボカロさんなんにも知らねえなあ」「ではワタシ、負けですか?」「なんでだあ?」「勝ちですか?」「どうしてだあ?」「引き分けですか? ではまた、シリトリ、です」「んん? じゃあ、りんごだあ」「それは、赤くて、ウマイですか?」「なんやわからんが、ボカロさんの負けだなあ」「負けですかあ……」――

 しかしそれはそれで妙にくせになって、横になりながらずっと聴いていた。ビデオ・クリップのオフ・ショットにでも収録してくれたら評判がいいかもしれない。

「シリトリ、です」とクミがいった。また始まったようだ。

「じゃあ今回は、リスだあ」

「リンゴ、どこ行きましたか?」

「うーん、食べちまったなあ」

「それ、たぶん、負けです」

 へたなBGMよりも楽しいな、と思い洋助は微笑んだ。

 それから一時間ほどが流れた頃に、「飯でも探しに行くかあ」といいながら住吉が立ち上がった。ホームレスの夕餉事情はわからないので、「いつも、どうされているのですか?」と尋ねる。

「きょうは体調が悪くてえ、雑誌回収もできんかったから現金がないんだあ。ヤナさんとこに頼るか、閉店した店のごみ箱漁るかだなあ」

 彼を追うように洋助も立ち上がった。

「住吉さん、施しなど嫌味にしかならないかもしれませんが、きょうはぼくのお金を使ってください。いまのぼくには、それくらいしかできませんから……」

 にかっと住吉は笑う。「そうかあ、すまねえなあ。嫌味なんかじゃねえ。それは助かることだあ」

「そのかわりに」むやみやたらに街を歩くわけにはいかない。

「わかったわかった。あんたのぶんも、わしが買ってくるからなあ。洋助は隠れときい」

 お礼を伝えてから五千円札を渡した。こりゃあ大金だ、と笑いながら彼は住居を出て行った。

 五分ほどした頃、もう足音が帰ってきた。すぐそばにコンビニの類は見かけなかったので、忘れものでもしたのかと思いながら砂が擦れる音を聴いていた。そういえば、いくらつかっていいのか、などの話もしていないので、訊いておこうと思ったのかもしれない。

 ――が、それはまったくの見当違いだとわかった。その踏音は、住吉の弱々しい摺り足とはまるで異なり、疲れを背負った会社員が無意識のうちに帰路を踏むのとも違い、歩くということに意識を働かせている歩行なのだ。

「こんばんは」布一枚で隔てられている外から呼ばれた。男だが、高い声だ。二十代のものに聴こえる。「――警察です」

 クミと一緒にびくっとした。そして目を合わせる。同時に人差し指を立てた。

「巡回してまして、お尋ねしたいことがあるんですよ」

 居留守をつかおうと考えた。返事がないことで諦め、去ってくれればいい。

「もしもし? こんばんは。お時間取らせませんので、すこしだけお願いします」

「………」

「逃亡犯がこの辺りに潜伏しているかもしれないんですよ。なにか見ていませんか」

「………」

「いらっしゃいませんか? 開けますよ?」

 ここで遠くからべつの声がした。中年のものだ。巡回なのだから、当然ふたりで動いていたわけである。

「もういいから帰ってこい」と中年はいった。「いねえんだろ」

「ひとの気配、しますよ」

「やめとけって、どやされるぞ」

「いいんですか?」

「どうせ見ちゃいねえよ。まず、犯人がこの辺りに逃げたのは昼間だぞ。すでにこの近辺にはいないだろうって本部もいってる」

「まあ、そうなんですが」

 足音が離れていく。その音が消え去るまで呼吸の仕方にさえ気を配った。

 十五分ほどが流れた頃に、やっと落ち着いてくる。姿は見られていないし、あんな対応なのだから、いますぐにここを離れる必要はないと判断していた。どうせこんな時間から飛び出したところで、行く宛もない。クミがすこしだけ微笑む。洋助も応えた。

 それからすぐに住吉は帰ってきた。「いくら使っていいかわからんくって、適当に買ったちまったあ」といいながら疲れた身体を床に降ろす。そうはいうものの、提げているレジ袋は小さなものだった。

 構いません、といって、「これだけでよかったのですか?」

 おにぎりが三つと、苺味のカップアイスが入っている。彼の振り分けによれば、おにぎり三つのうち二つが洋助の物だ。

「なあに、わしは食が細い。それにこの暑さじゃあ、買い貯めても腐らすだけだあ。人様の金で買ったもんを棄てるわけにもいかんからなあ」彼は洋助にむかって手を擦り合わせた。「ありがとなあ。生きるためには、食わねえとならんからなあ」

 住吉はがぶがぶと昆布のおにぎりを食べたが、しかし半分ほどが残った。彼の言葉に偽りはなかったようで、意識して残したわけではなく、細い身体はそれだけで満足したように見えた。

「溶けてしまいますよ」と洋助はいった。カップアイスのことだ。

「これはちがうんだあ」ほれ、といってクミのまえに置いた。「ボカロさんのぶんだあ」

 クミは首をひねった。「ボーカロイド、食べません」

「わかってる。出てこれねえんだもんなあ」そういいながら彼は蓋を開けた。「でも、いいんだあ。ほれ、くちあけろ」木のスプーンですくって彼女にむける。

 クミは反対方向に首をかしげた。「ワタシ、食べませんが」

 うんうんと彼は頷いた。「そうか旨いかあ」そしてアイスを洋助に渡してきた。

「住吉さん?」と洋助も首をかしげる。

「……わしにも子供がおった」と彼はいった。「いまなにしてるのか、わからん。……あるとき、わしは仕事にあぶれた。家族をよう食わせることができんかった。学がなかったもんでなあ、家を出ることしか考えられんかった。いいや、プライドっちゅうやつを守りたかっただけかもわからん。……それからもう、何年かなあ」

「息子さんですか? 娘さん?」

「娘よお」微笑んでクミを見た。「小さな頃には、こんな髪形してたなあ。わしが買ってやったアイスクリーム、旨そうに食べとったあ。……あの子に、どことなく似てるような気がしてなあ。学生のころは、ボカロさんみたいにめんごい顔してたあ」

 その瞳が本当に咲音クミを捕らえているのかわからないほど、遠い目をしていた。視線はねじまがり、脳へ向かい、記憶に絡まっているように見える。

「スミヨシさん」とクミがいった。

「わかってる。ボカロさんは娘じゃない。へんなもん食わそうとして悪かったなあ。でも、またあんな笑顔が見たくてなあ。悪かったなあ」

 このときつくった咲音クミのユースマイルは、どきどきするほど奇麗だった。

「ごちそうさま、です。たぶん、とても、ウマかったです」

 住吉が目頭に手をやった。いい子やなあ、と呟いていた。

 いい月が昇ってるぞ、と彼が外に誘ってくれたので、住居から出た。警察が来たことを話し、大丈夫だろうかと訊いてみると、中より外にいたほうが逃げられるだろうといわれてその通りだと思った。

 東京の九月はまだ暑いが、今夜はひんやりとして気持ちがいい。新聞紙に座って見上げてみると、空には九割がた円くなった月が拝める。クミの曲にも時々登場する歌詞ではあるものの、その衛星自体を眺めるのは彼女にとってはじめてだったらしく、上空の月ほど見張って、わお、と驚いていた。

 しばらく静かな時間が流れた。

 ふと洋助は、「いままでずっとここに?」と住吉に尋ねた。

「いやあ、渋谷におったり、点々したよ。ここに来たのは今年んなってからだなあ。この敷地に住んでくれって、なにやら恐い連中に頼まれてなあ。ここなら家を建ててもいいからっていうんよ。まあわしも助かるからなあ、怪しい奴らだと思ったが、住んでるんよ」

 なるほどと洋助は納得した。中野にはホームレス住居が皆無といってもいいくらい見当たらないのに、住宅街にある敷地の一角に堂々と住んでいることが不思議だったのだ。おそらくここは競売物件で、そこに占有屋が一枚噛んでいるわけだ。

「そういわれたならいいんじゃないですか」としかいえなかった。彼には行く場所がないし、いまの洋助の立場では誰かの迷惑になるから出て行ったほうがいいともいえない。「それよりクミ、きみはお礼に、歌うといってたね」

 セーカイです、とクミはいった。

「歌ってよ。ひさしぶりに、ぼくも聴きたい」

 洋助はリュックからノートパソコンを取り出してきて、電源を入れた。急遽引っ張りだしてきたのでしっかり充電はしていない。ゆえにバッテリー切れになるといけないので操作を急いだ。咲音クミのミュージックをセレクトして、ボリュームをいじり、ヴォーカルだけ鳴らないようにする。その常態で音楽を控えめに再生した。

 クミに視線を送る。彼女は目を閉じて頷いた。

 何秒かの前奏、そして――

 咲音クミが、ひさしぶりに歌うためにくちを開いた。

 月光によく似合う曲が、空に飲まれていく。アップ・テンポでも聴き疲れず、静謐な空間にもメロディを上手に縫い合わせ、柔らかな微笑を誘う。それが彼女の魅力だ。

 間奏のときに片目を閉じたクミは、ここ一番楽しそうに映った。やはりこの時間が最も幸せなのだと伝わってくる。

「――ワタシ、うまい、でしたか?」

 歌を終えた彼女に訊かれた。

 うんと洋助は答えた。月並みだが、「最高だった」と添える。

 しかし住吉は、うーん、と腕をくんだ。

「スミヨシさん」とクミがいう。「だめ、でしたか?」

「うーん。悪いなあボカロさん。あんたはいい子だが、歌はようわからんなあ」

 洋助は笑ってしまった。それはそうだろうなと思う。柳原よりもさらに歳を重ねた彼が、音楽の新世界であるボーカロイドを理解できるはずもない。

「ボカロさんよ、歌ってやつは軍歌とか演歌みたいに、腹から声を出さないといかん」

「あやまりたい、です……」

「まずボカロさんよ、あんたピーピーいってばかりで、なにをいってるか、さっぱりわからん」

「あやまりたい、です……」

「わしには、そうやな、効果音にしか聴こえんかった」

「――効果音っ」歌手なのだから効果音は知っているようだ。「……効果音、ですかあ」

 クミは下に両手をついて頭を垂れた。これが漫画アニメなら、ガーン、とでも表示されているかもしれない。

 なにやら落ち込んだみたいだったが、そんなクミも珍しくておもしろかった。一方、住吉が、「こんな歌が売れてるのか」と訊いてきたので、「現実世界に存在すれば、咲音クミは超がつく分限者です」と教えてあげたところ、彼は彼なりに落ち込んだ。

 クミはしばらく液晶の奥のほうで膝を抱えていたので、「帰っておいで」と手招きをする。

「ワタシ、効果音、ですし……」

 そんなことないって、といいながらも笑ってしまった。

 それを見た彼女はぷいとそっぽを向く。

「ヨースケ、には、この気持ち、わかりません」

 それは予想していなかった反応だった。なので、どことなく違和感を覚えながら、「ちょっと根に持ちすぎだよ」と苦笑してみせる。

 ――あれ? と彼女ははっとした。それは洋助の心情を代弁したかような声だった。

「冗談、です」眉をさげながらもニコニコしてクミは寄ってきた。「だめなの、ワタシです。ヨースケ、スミヨシさん、正しいです」

「……すこし疲れた?」

「ボーカロイド、身体、疲れません」でも……と、彼女は人差し指を顎にあてて首をかしげる。「なんだか、きょうはすこし」

 たしかに、ここ数日の視界情報侵入速度は、いままでに類をみないだろう。

「目を閉じて、もう休むといいよ」

 はいと彼女はいった。弱い笑みだった。

 住吉も体調が優れないらしく休んでしまったので、洋助も横になることにした。

 明日は何時に立とうか……と考える。彼はここにいても構わないというし、その言葉に偽りの含みもなかったが、どんな形で迷惑がかかるかわからない。長居すればするほど、その確率は増すばかり。洋助は坂井田の部屋も、亜衣の部屋もあとにしてきた。つまりここに留まる行為は、彼の存在を軽視することと同じだ。ホームレスにも人生があるのだから、そんなことはできない。この一泊だけであろうとも、拝むべき救世主となってくれているのだから。

 ポケットから一枚のメモ用紙を取り出して眺めた。あまりいい考えのように思えなかったが、行き先が底をついた現在で連絡がとれる人間はすくない。職場に頼れる友人はいないし、携帯に登録されているいつ知り合ったのかもわからない名前たちには、指名手配犯をかくまってくれる脈などまったく感じない。

 ――ぼくには誰もいないんだな、と思い、洋助は虚しくなった。

 本当に誰もいない……、そう呟いた。

 携帯の電源を入れた。不安もあったが、手元にあるのはメールアドレスなのでこの方法しかなかった。

 おや、と洋助は思った。不在着信がある。メールも入っていた。懐かしい名前だったので、ずいぶん驚いた。

『ニュース見ました。心配です。お電話ください。日下ひより』

 メールにはそう書かれていた。ニュース……すなわち咲音クミ誘拐事件。報道は控えめだったようだが、それでも一度は放映されたのだから、やはり見たひともいるようだ。

 警察が送り主に接触することは考えられなかったので、これは本人の意思によって送信されたと考えられる。しかしそれも絶対とはいえない。日下ひより……それはもう連絡など無いと思っていた相手なのだ。

 だからこそ妙な気がした。よって洋助は返信もせずにメールを消去した。しかしその行為は逃げているだけだとわかっている。だが洋助には彼女を頼るだけの勇気がなかった。

 それよりも――と、やるべきことを思い出し、メモ用紙に視線を移してメールアドレス入力の作業を急いだ。まだ深夜にまわらない時間なので、運がよければ返信があるかもしれない。

 本文を打ち込み、送信する。するとどうやら運は味方してくれたようで、その返信は何分も待つことなく送られてきた。

『覚えてますっ! 本当に連絡してくれたんですねっ! クミちゃん最高でしたっ! あれから洋助さん会ったんですよねっ! あ、わたしは莉那です。』

 返信ボタンを押し、再び文字を並べる。さらに返ってくるのが早かった。

『キャーキャーッ! はやくどんなだったか聞きたいですっ! ニュースとはなんのやつですか? クミちゃん関連? セーカイですか?笑』

 洋助は文章を見て顎に手をやった。いきなり連絡してこの反応なら、咲音クミ誘拐を知らないということだ。

 彼女はコンサート会場で出逢ったファンである。終演後、洋助が咲音クミと対面できるという事実を知り、どんなことを話したのか教えてほしいと迫ってきた。

 またテンキーを叩く。やはり気が進まないが、可能性がある頼り処はメモ用紙に筆記されたアドレスしか浮かばなかった。実際、それ以外にどこがあるのだろうと不安になる。昼間のように追われて、明日も逃げきれるとは思えない。捜査員との遭遇率も高まった現在、身を隠していられる場所が確実に必要となる。そしてそれは、いまに至るまでそうしてきたように、宿主と意思疎通が図れる環境が理想的なのだ。

 返信があった。

『クミちゃんのニュースあったんですか? 新曲ですかね? ボカロ特集? 詳細ほしいデス。はい、コンサートは遠征しました。洋助さんは東京ですか。いいなあ……』

 それを読んで、がっくりとした。現在、事件を知らないのはいいが、近くにいてくれなくては困る。移動する距離と時間は、イコール、リスクだ。

 諦めるしかない。つまり明日からは、ビジネスホテルや漫画喫茶の類に身を寄せるしかなくなるということだ。幸い、しばらく現金には余裕がある、しかし、従業員は洋助をかばうことをしない。よって危険もあるのだが、いまはそれしか考えられない。

『はい、また連絡してください。――って!笑 おまちなさいっ!笑 クミちゃんの話、お聞かせなさいっ!笑』

 ああ忘れてた、と笑ってしまった。まるで中身のないやりとりで終わらせてしまうところだった。

 あの楽屋でクミとほとんど会話をしていない洋助は、不自然ではない作り話を考えなければならないので、とりあえず謝罪文だけを送信した。

『いえいえ、いまのギャグですか?笑 洋助さんユニークですね。小田原から、なんでやねん! って叫びそうになりました。近くだから届くかも。笑』

 神奈川県か、と呟いた。近隣だというのに、なんとも惜しかったようだ。

 ――いや、と、洋助ははっとした。小田原、それはすなわち……

 脳裏にセピア色が広がった。過去の記憶だった。

 そこに流れる映像を眺めながら洋助はメールを返す。そして返信を待った。

『えええっ、会って話したいって。笑 メールじゃだめですか? わたし高校生なんで、あまり遠出できませんし。』

『近くまで来てもらうなんて悪いです。メールで大丈夫ですっ。』

『どうしてもといわれましても……。わたし恋人募集してませんよ?』

『失礼しました。ちがいますよね。ん? いま電話ですか? 非通知なら、だめではありませんが……。ごめんなさい、洋助さんが悪い人だとは思わないのですが、その意図がわかりません。』

 強引が過ぎるな、と苦笑した。異性の扱いが上手な輩ならもっとスマートにこなすのだろうが、洋助にその技術はない。なんだか雑なナンパのようになってしまった。

『はい、本当にクミちゃんのニュースは知りません。なにか関係があるのですか? うーん……わかりました。電話かけます。』

 ほっとした。着信なら、こちらからかけるよりも安全だ。しかし申し訳ないと思った。警戒心は文章であきらかだ。高校生と書いていたから、恐がらせてしまったかもしれない。

 だがメールでは限界がある。声を聴けば様々なことがわかるし会話も楽に行えるので、このほうがよかった。それにどのみち、電話を繋げられるような仲にならないかぎり、かくまってもらうことなどできないだろう。

 着信が入ったのは二十分が過ぎた頃だった。公衆電話からだ。やはり迷っていたらしい。

「――洋助です。莉那さんだね」

「もしもし……」会場で耳にしたよりも幼く聴こえた。「会場では、どうも。遅くなってごめんなさい。公衆電話なんです。だから遠くて……。いえ、怪しいとかじゃなくて、テレフォンカード余ってたし……」

 メールの文章で想像したよりは落ち着いた語り口だ。

「いいんだ。ごめん。よくかけてくれたね」これには驚いている。

「クミちゃんのこと、聞けるならって……」

 微笑ましかった。熱烈なファンだ。「でも、ぼくがいうのはなんだけど、知らないひとに、むやみに電話をかけたらいけないよ。こんな時間に外出も危険だ」

「気をつけます。それで……あの」

 ああ、と頷く。防犯講座がやりたかったわけではない。「カードの残量は?」

「しばらく大丈夫です」

「そう。クミのことはかならず話すから、まず質問してもいいかな」

 クミって呼び捨てなんですね、と彼女はすこし笑い、「どうぞ」

「じゃあ、ニュースについて」

「またですか? 本当にわかりません。ここまで来る途中、ネットニュースとかSNSのコミュニティとかも見ましたけど、とくになにもありませんでしたし。……まあ、しっかりとは調べてませんが」

 真実に聴こえた。やはり消沈への力が働いているのか、そうでなければ本当に世間が無関心なだけなのか。

 一応、ここ数日に大きな事件はなかったかと尋ねると、テレビでは関西方面の震度5強の地震と、どこぞの独裁国家による核発射実験の報道が盛んだとのことだった。それに飲まれている可能性もあるな、と思う。

「あのう」と神妙な声でいわれた。たしかに洋助の質問は怪しすぎる。

「ごめん。続けるよ。つぎの質問は答えられたらでいいよ。いいかい?」

 はあ……と返事があった。

「きみの両親は警察ではないよね」「まあ、ちがいますけど……」「きみはひとり暮らしい?」「いいえ、高校生ですから……」「友達はよく泊まったりする?」「はい、よくあります。けっこう自由なんで」

 あの、といわれて、「洋助さんこそ警察ですか? なにかの捜査で?」

「まさか」と苦笑する。その反対側にいる存在だ。「じゃあ、最後の質問」

「なんでしょう」

「咲音クミに会えるといったら、ぼくを助けてくれる?」


 ――つぎの日、洋助は通勤客に紛れ九時に中野を出た。捜査員が、この一帯からは監視がそれたようなことをいっていたが、なにがあるかわからないので新宿まではタクシーをつかった。それでも、帽子で目元を隠しているものの、下車するまで呼吸が乱れてしかたがなかった。

 新宿からは電車をつかう。ロマンスカーと呼ばれる観光客相手の特急だ。さすがに捜査員もあれには乗らないだろうと思った故にだが、それは願望に近いものだろう。なんの根拠もないのだ。それでも遊園地と同じく、乗車しているのは浮かれた観光客なのだから、他人の顔など意識しない。そんな空間を選ぶのは最低限の努力だった。小田原まで一時間もあれば到着する。それまで動く密室のなかで、胸を締めつける緊縛感に耐え忍ばなくてはならない。

 とは思っていたものの、特急が動きだしてみるとなにやら安堵があった。車内は空いているし、捜査員らしい眼光を宿した客も見当たらないため力を抜くことができたのだ。これなら乗車券を確認されるときだけ緊張すれば済みそうだった。昨日のしつこい追跡により、動きだせばすぐに捕まってしまうような恐れがあったが、いざ動いてみればなんとかなるものらしい。たしかに世間ではこの監視社会とはいえ、逃亡犯のうち、およそ六○パーセントが五年以上、二○パーセントが十年以上も逃げ続けているという実状がある。

「ヨースケ、安心、してますか?」

 クミが液晶から顔を覗かせたので、引き抜いて手に取った。ここなら出しても大丈夫だ。

「セーカイだよ。やるじゃないか」

 わお、といってからニコニコした。「たぶんワタシ、褒められました」

 それもセーカイといって、「はやくから起こしてごめん。疲れていたのに」

 やっと謝罪ができた。荷物を整理しているときに、物音で目を覚ましてしまったのだ。

「かまいません、速いやつに、乗れましたし」特急のことは速いやつと説明していた。「でも、スミヨシさん、さようなら、しなくて、よかったですか?」

 彼はぐっすり眠っていたので、そっと出てきたのだ。起こすわけにはいかず、かといって待つわけにもいかず、そのまま出て行くしかなかった。もっとも、彼と柳原に宛てた置き手紙だけはしてきた。現金も気持ちだけ残してきた。事件が終わったら、またお礼に尋ねたい。ふたりだけではなく、坂井田にも、亜衣にもだ。

「うん、いまはこれでよかったんだよ。ぼくがいれば迷惑になる」

「……それ、正しくないです」とクミがいった。どうしてと問うと、「迷惑は、ワタシですから」と答えた。「ワタシの変わりに、ヨースケが、心配して、くれてます。ぼくがいると、迷惑だ、といいます。なんだか、正しくないです。それ、本当は、ワタシのせいです。迷惑、かかってるの、ヨースケです。一番迷惑、ヨースケなんです」

「もういいから、クミ。気持ちはちゃんとわかってるから」

 じっと見られた。「いつも、そういって、くれます。なにも、いいません。ワタシ、わがまま、いってます。どうしてですか?」

 吐息をひとつついて、「気にしなくていい。クミは着くまで休んでいたらいいよ。また疲れちゃう」

 うれしいです、とクミはいった。「でも、休みません。よかったら、お話、させてください。それ、とても、楽しいです」

「いいよ、もちろん。楽しい話をしよう」

 彼女は目を伏せた。「……なんだか、優しい気持ち、です。大切です」

「そうだね。大切だよ」

 いいえ、とクミは首をふった。「ヨースケの、ことです」

 ――ん? と洋助は首をひねる。

「すごく、大切です。特別です」とクミはいった。

「特別って……」

「はい。なんだか、不思議な、気持ちです」

「………」

 娘になつかれた父親というのはこんな気持ちになるのだろうか、という柔らかな感情とはべつに、また違った意思を感じたのも事実だった。

 しかしなぜか、ひとりのファンとして、彼女が手を繋ぐこともできないボーカロイドという存在だとしても、多少は喜ぶべきではないのかと思うのだが、いまはただ、妙な不安が脳裏にふわりと翳りを落としただけだった。その憂いがなんであるのか、生まれたのはなぜであるのか、洋助にはわからないのだが……

 クミがいった。「景色、見ても、いいですか? いけませんか?」

「いいよ。でも疲れたら目を閉じるんだよ」

 液晶を窓際に立て、外にむけた。ちょうど特急とすれ違い車体が轟くと、おおお、と声があった。それが過ぎ去ると、山並みに睥睨される平らな地形が開ける。新宿からすこし離れただけで、こんな風光に出会えるのが不思議だった。彼女の歌にも、こんな視界を歌いあげるものがある。きっと意味もわからずに歌詞を読んでいたはずなので、これを期に心へ叙景すれば、さらに磨きがかかるだろう。

「特別だから、ヨースケには、話します」

 背を向けている液晶から声があった。なにかな、と洋助はいった。

「ワタシ、いいました。帰りたく、ありません」

「だからそれは……」

「いいんです、話します。わがまま、だめです。勝手、いけません」

 洋助は黙っていた。それから何秒かあった。

「ワタシ、あたま、悪いです。だから、勉強、してます。音楽、言葉、そして、感情……」車体がごとりと揺れた。「歌には、感情、大切です。だから最近、すごく、勉強、させられます。ワタシに、やらせたいこと、あるからです」

 洋助はまだ黙っていた。

「それは、作曲です。わかりますか? 歌、作ります。ワタシが、です。そして、言葉も作ります。作詞、といいます」

 咲音クミによる作詞作曲……

「ボーカロイドが、歌、作る。実現すれば、それ、とてもすごい。金になる。咲音クミは、宝だ、財宝だ。そういって、褒めてもらいました。ワタシ、うれしい、でした。だから、やろうと、思いました」

 すなわち、アーティストとしての確立。誰かが歌わせるために誕生した彼女の、自立。

「人間には、たくさんの感情、あるといわれます。ワタシ、ボーカロイド、わかりません。言葉よりも、わかりません。あたま、混乱です。難しいです。……でも、作曲に、必要です。だから最近、勉強が、大変です」

「わかったよ、クミ」

「ちがいます。ワタシ勉強、きらい、ではありません。好きです。大変でも、いいです。……ですが、最近、楽しくないのです。なぜかというと、楽しくない勉強、あります。それ、カンショク、といいます」

 ――感植、という文字が浮かんだ。感情を植えこむ、の意だ。

「最近、あたま、すこしだけ、よかったです」たしかに咲音クミの学習能力は向上しているらしい。「だから、いままでより、積極的に、本格的に、スピーディーにすると、いわれました。そして、人間の、たくさんの感情、見せられました。テレビでした。最初、恐い、とか、怨み、とかを、勉強といわれました」

「――クミもういい」それを学ぶ上で見せられる映像が、心地よいもののはずがない。

「……人間、死んでました」

 もういいよ、と再度いったが彼女は続けた。

「赤い、液体、出てました。たまに、手足、なくなってました。お腹のなかが、見えました。あたまのなかも、見えました。楽しくない、気分でした」

 遊園地でお化け屋敷を拒んだ理由はこれだと思われた。

「妬み、という感情もありました。これも、あまり楽しく、ありませんでした。悲しい、淋しい……これは、わかりました。ワタシ、たまに、ありましたから。――恥ずかしい、という感情、最近、学んでました。ワタシは、わかりませんでした。――いいえ、たぶん、すこしだけ、わかりました。でも……なにが、どうして、恥ずかしいのか、わかりませんでした」

 ヨースケ、と呼ばれた。うん、とだけ返事をした。

「ワタシの服、衣装、データ消去、されたこと、あります。これも勉強、と、いわれました。服がないと、嫌な気持ちでした。それは、恥ずかしい、ですか? 会社のひと、笑ってました。ワタシ、やっぱり、嫌な気持ちでした。どうしてみんな、楽しかったですか? ワタシも笑えば、正しいでしたか?」

 何秒かあった。

「……ワタシ、たぶん、楽しくないです。あまり、帰りたく、ないです。理由、これです。ワタシ、勝手、です。あやまりたい、です」

 淡々と語ってはいるが、液晶を手に取れば、ボーカロイドの彼女が泣いているような気がした。

 どうして景色を見るといったのか、つまり窓際へ裏返しに置かせたのか、なんとなくわかった。理解という領域に至っていなくても、多少は恥ずかしいという感情を学び、いまの内容を話すことにたいして羞恥が無意識に働き、頭がそう判断させたのだろう。

 また特急とすれ違い、ごとりと揺れた。

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