ハヤマ・ロイド社の動向 1

 葉巻の雄々しい香りにふけっていると、扉がノックされた。入りたまえ、と返事をすると、男がひとり頭をさげて入室してきた。七峰という幹部社員のひとりだ。

「芳しくない顔だね」と七峰にいった。

「申し訳ありません社長。逃げられました」

 そういって腰を折る。「彼の部屋は無人。辺りを探しましたが、どこにも。裏にも人手をまわしていたのですが、なにかしらの手段でまいたようです」

 煙を吹くと、静謐な空間でゆらりと踊った。それは砂漠で魅せられる繊細な砂ぼこりのようにも見える。

「そうか。まあ、彼も二六になる青年だ、馬鹿ではないよ。ご苦労だったね」

 七峰はもう一度腰を折った。「どうしますか」

「今夜のところは、きみに任せようじゃないか。――いや、この件は最後まできみが仕切りなさい。アーティストが帰ってこないのだから、コンサートは終演したとはいえない。あの会場の管理はきみに一任していたのだから、最後まで努めるがいい」

 申し訳ありませんでした、といって、「ではまず、あの付近のビジネスホテルをまわってみることにいたします」

「あの辺りは新宿区じゃなかったかね。数が多すぎる」

「逃亡者というものは、監視カメラを恐れ、銀行やATMを避けるもの。よって、おそらく金子を残すべく、極力近く、安価な寝床をあたるはずです。そのように絞ります」

 わかった、と頷いた。手元にあるリシャールをどぼどぼとオールド・ファショングラスに注ぐ。「かるくやっていくかね。安酒で恐縮だが」

 なにやら七峰は苦笑した。「いいえ。わたくしも捜索にあたらせていただきますよ」

 なら夜食代くらいはくれてやろう、と、十枚の諭吉を渡した。では部下たちと一緒にラーメン屋にでも参ります、といいながら彼は受け取る。ラーメンというものがどんな値段だったのか覚えていないため、足りるかね、と問うと、ちょうどこんなものです、と返事があった。

 彼が部屋を後にしてから、大きな窓の外にある夜景を見下ろした。

 結局、先ほど惟みたことは伝えなかった。まだ迷っているからだ。それを決行するタイミングがいまなのか、読みきれない。なにせボーカロイド咲音クミという商品は、財産そのものなのだから。

 まあいい、一晩、ゆっくり思慮を巡らすとしよう。問題はない。なぜだか奴は、まだ捕まらないような気がする。

 しかしながら、七峰の考えも的へと矢の根を引いているため、寝床くらいは突き止め、それなりに追い詰めるのではないだろうか。

 ふんと鼻で笑う。「この私の予想を裏切らないでくれたまえよ」

 さあ夜の街を逃げまわるがいい。

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