平沢洋助 1

 与、と書かれたTシャツを着た十人ほどの集団が、洋助の正面をねり歩いて行った。筆で書かれたような筆記体なのでどことなく厳かであり、まるで戦にむかう歩兵に見えなくもない。それと同じものを着ている輩が、数えるのが面倒になるほどうごめいている。もちろん自身も着ていた。これは遠目に見えるテントで販売されているグッズのひとつだ。アーティストの顔や全身がプリントされたものもあったが、普段づかいできる文字だけの商品が売れているのかもしれない。もっとも、ところどころで鼻息を荒くする連中のなかには見事に手提げ袋を膨れあがらせている者もいるから、鑑賞用や保存用といった形で全種類購入している輩もいるのだろう。グッズ売り場は戦場だ。洋助も余裕をもって昼過ぎには会場に到着したが、すでにテントからは長い列が伸びていた。購入できたのは四時間が過ぎた頃だ。すでに売り切れになっていたアイテムも多数あったが、お目当てだった会場限定Tシャツとマウス・パッドは入手することができた。

 開場までまだ時間がある。Tシャツに着替えたあとはやることがなくなってしまい、現在は敷地内にある石段に座って、所在なげに人混みを眺めている。客はますます増えているようだった。ストレス発散ができるアクションゲームの雑魚キャラのように、とめどなく増えている。グッズ売り場に並んだ行列も短くなる気配はなく、おそらく末尾はアイテムにありつけないだろうと予想された。

「すげえ人気だな」と近くに座る男ふたり組の片割れがこぼした。他人ではあるものの、洋助は思わず頷いていた。胸中には暖かい感情が生まれている。最初に開催されたコンサートから来ている洋助にとって、自分の子供が大スターになったような感覚がある。最初は数百人しか収用できないライブハウスだったのに、いよいよ武国館なのだ。九段下にあるこの会場は、アーティストの頂点が踏むステージだと人々に認識されている。

「でも俺はあんなに熱狂的にはなれないなあ」と、もう片割れの男がいう。視線のさきにはコスチューム・プレイの集団が群れている。しかし彼らも共にTシャツを着こんでいるから、友人を無理やり引っ張ってきたわけではなさそうであるし、第三者から見れば同じ囲いになるだろう。にもかかわらず一歩引いた意見には苦笑せずにいられない。洋助は、以前同僚が、「この手のアーティストとなると、堂々と好きだっていうのに羞恥を覚えるから、プロデューサーが好きとか、曲が好きとか、自分はオタクじゃないから、という逃げ道を作りたくなる奴がおおいいんだ」と力説していたのを思い出した。「その証拠に、なかなかアーティストだけを好きって輩はいないんだよなあ」ともいっていた。

 気持ちはわからなくもない。洋助自身も二六歳になるから、私生活はともかく、脳内には世間が理想とする成人像をエディットすることができる。そこに作成された人間は、たしかに二次元のキャラクターを恍惚と眺めることはしない。

 でも――と洋助は思った。このアーティストだけはすべてを愛してほしい。なにも気にせず、ただ純粋に……。もっとも、これは大ファンからの押しつけでしかないのだが。

 六時になって、武国館は開場された。ここで、真っ先に会場入りする者と、空いてから入場しようとする者に別れる。開演は七時であるし、どのみち席は決まっているので急ぐ必要もなかったが、洋助はこれ以上シャツを汗でぬらしたくもなかったので、すぐに中へと入った。本日の日付は九月三日。まだまだ暑いのだ。

 簡単な荷物チェックをうけて席へとむかうのだが、洋助には少しばかりの優越感があった。すでにパイプ椅子へと腰を落ち着けているたくさんの観客を抜き去り、前へ前へと足を進める。その歩みはステージを正面にするまで止まらなかった。つまり最前列である。さらに、ど真ん中ときていた。羨ましそうな視線を背中からいくつも感じとることができる。チケット入手には今回も全身全霊をかけたので、多少の羨望はうけたいものだ。

 胸を弾ませながら、会場のライトが消灯するのを待った。そのときがおとずれたのは、開演五分前。すでに歓声を発する者も多い。振り返ってみると、ペンライトの発光が蛍のように揺らめいていた。大規模を誇る会場だから、それだけでもすごい迫力だ。

 鋭い音が鳴りだした。ストリングスの音色だ。

 何秒かすると、舞台の右側に、エレキギターを演奏する「生身」の男性ミュージシャンがライト・アップされた。どっと歓声があがる。つぎにベース、キーボード、数段高くなった奥のステージにドラムも現れる。おなじく「生身」の人間である。

 シンプルな前奏が何回か繰り返された頃、舞台の中心がきらきらと輝きはじめた。背後には奇声がまじる。

 ステージにはスクリーンが設置されていて、中央で飛散する光は、そこに映しだされたものだった。巨大なものであり、舞台一杯に広がっている。業界では硝子スクリーンと呼ばれていることを洋助は知っていた。ステージの後方に位置するドラム奏者が鮮明に目視できるほど薄いが、特殊な素材で編まれており、アダルト・ビジュアル機器に分類される。つまり映画のように何かから投影するものではなく、それ自体が画面の役割を果たしているのだ。液晶テレビの先をいくテレビとして、実用化も急がれている。

 ――クミ、という叫びが、花火のように打ちあがる。それは会場のいたるところではじけて人々に降りかかり、それによって引火を誘発された者たちがさらなる花火を打ち上げる。――轟、という漢字が頭に浮かんだ。

 演奏者をあえて「生身」と表現したことには理由があり、コンサートの主役となる女性アーティスト『咲音クミ』は人間ではない。彼女は音楽機器メーカーの大手『ハヤマ・ロイド社』が生みだした女性キャラクターだ。歌詞と音符を入力すれば、その音色を歌ってくれるというパソコン専用音声合成ソフトのイメージキャラクターとして誕生し、ヒットを飛ばした。簡単に曲を作り出すことができるという気安さ、そして、その曲をインターネット配信することができる現代の環境、なにより、咲音クミという魅力的なキャラクターが人々の一次創作、二次創作の興味を刺激し、メディアでも社会現象と表現される波紋を生んだ。

 咲音という名前が世間に伝播したころ、彼女が歌う舞台をパソコンの中だけにとどめておくのは勿体ない、とハヤマ・ロイド社の技術者たちは考え、奇抜ともいえる「映像をつかったライヴ」を企画したのだった。

 そしてそれから数年がたった現在、その奇抜なライヴのステージはこの武国館なのだから、無謀で終わらなかったことは説明するに易しい。メディアではいま、今世紀最大の歌姫だと紹介されている。しかし生身の人間ではないので、彼女の存在は『ボーカロイド』と称された。そしてこの名称は日本だけではなく、海外までも席巻している。

 舞台の中心で煌めいていた光の粒が舞い上がり、彼女がフェイド・インされた。ニコニコと笑っている。キャラクター独特の、可愛らしい笑顔だ。ファンの間では、その表情をユースマイルと呼んでいた。英単語のUを逆さにしたような目をつくるからだ。これも生身の人間では真似できない魅力のひとつだった。

 コンサートは音声合成ソフトによって誕生したヒット曲ではじまった。彼女は観客にユースマイルを送りながら、舞台一杯に広がったスクリーンのなかをところ狭しと歩きまわり、歌い、踊り、舞う。そして曲が終わると、ステージの中央で、歓声が止むのを待つかのうに、そっと瞳を伏せた。

 『咲』という文字から連想されやすいものは桜だと世論で発表されたことにより、咲音クミの長い髪は桜色をしている。様々な髪型を披露してくれるが、本日は最も人気が高いという二つ結い、いわゆるツインテールだった。一七歳という設定なので、顔にはまだ幼さが残っている。

 歓声が止み静かになると、肩を跳ねさせたクミが、「あーっ」といった。目を見開いて、開かれた両手を口に添え、客席を見まわしている。彼女は続けた。

「みんな、クミの服、着てますっ」観客から笑い声がいくつもあがった。「このまえの、コンサート、覚えてて、くれましたか?」

 そうだよー、と男性ファンが叫んだ。たしかに前回のコンサートでは、グッズのTシャツを着ている観客が目立っており、そのことを彼女がすごく喜んだのだ。だから今回の会場内は、ほとんどがTシャツ姿だった。

 四千えーん、と誰かが叫んだ。また笑いが起こる。

「ヨン、セン、エン?」クミは首をかしげた。まだ通貨に対する知識はない。「わかりません、けど、覚えておきます」彼女はファンたちをひとりひとり指さすように手を動かしながらユースマイルをつくり、「みんな、みんな、ヨンセンエン」と話した。三度目の笑い声があがる。そんな姿を洋助は微笑みながら見つめていた。彼女の健気さにはいつも涙が出そうになる。

 つぎの曲の前奏がはじまった。

「きょうも、たくさんの音色を、咲かせます。ひとつでもおおく、みんなに与えられるといいです」

 彼女は胸のまえで手を握りあわせ、頬笑みながらいった。彼女の名前は『いくつもの音を咲かせ、人びとに与する』という由来でつけられたものなので、毎回、この言葉をくちにすることとなっている。

 たくさんのボーカロイドが日本に存在するなかで、咲音クミというアーティストがここまで圧倒的な支持を集めるのは、このステージから察する通り、知能があるからだ。咲音クミを誕生させたハマヤ・ロイド社は映像だけにとどまらず、ボーカロイドのさらなる進化に力を入れた。人間に動かされるだけの人形で終わらせず、ひとりのアーティストとして存在させようとしたのだ。その時点ですでに、観客の声援に反応して手をふりかえす、といった動きを日本は実現させており、私生活に馴染む人工知能ロボットはまだ不可能でも、画面のなかに存在するひとりのキャラクターならば予算と時間の投資により実現可能だと判断された。事実、日本の人工知能に対する技術は近年爆発的な成長をとげている。――できないわけがない、と、洋助もそう思った。

 そして二年まえ、ついに人工知能を得る。

 これは国際的なニュースとなり、世界を沸かせた。「ハヤマ・ロイドって知っていますか?」と外国でインタビューを行うと、九割以上が答えられるという映像も流された。ニューヨークの歩道を歩く黒人が、ひょうきんな仕草でこう答えていたのを思い出す。

「ああ、もちろん知ってるよ。クミ・サキネの会社だろ。聴いたこと? もちろんあるよ。CMでだけどね。これから期待したいこと? そうだね、ぜひ、人工知能ボーカロイドで結成されたビッグ・バンドを実現させてほしいね。そしたらデビュー・アルバムは予約させてもらうよ」

 なるほど、ビッグ・バンドかあ、と思った。しかしそれはしばらく無理だろうな、とも考えた。

 咲音クミの知能は偶然の産物だ。人工知能を持つボーカロイドがふたりといないのは、だからこそである。様々なプログラムを試みて、一向に上手くいかず、数年が経ち、すでになにをやっているのかもわからない、と技術者がさじを投げようとした頃に、「あなたナニですか」とクミは話したのだ。

 現代において、芸術、産業、医学にいたるまで、事実、偶然の産物は生まれている。殴り描いた画が世界で評価される、なぜだか虫がつかない作物が誕生する、理由はわからないが腫瘍を縮小させる。

 共通するのは、――なぜかわからない。――どうやったかわからない。

 咲音クミが知能を持った理由を、技術者たちがまさにそう話している。だからこそ、彼女はたったひとりの人工知能ボーカロイドなのだ。彼女のプログラム研究・解析は進められているが、次なる誕生はしばらくないといわれている。マフラーをほどき、ぐちゃぐちゃにしてしまった毛糸を抜糸することなく解いていくようだ、と、先月のボーカロイド専門雑誌には書かれていた。

 歌を終えた彼女がいった。

「きょうは、九月三日、クミの日、ワタシの日。みんな、知ってますか?」

 知らぬわけもないファンたちは返事のかわりに歓声を返す。

 クミは何度か頷いたあとに、「じゃあ、これ、知ってますか? 九月三日は、ホームラン記念日、でも、あります」

 それはさすがに知らない者が多く、へえ、という低い声が重なる。

「でも、じつは、ワタシもさっき、スタッフさん、から学びました。だから、ホームランって、なに? です。あやまりたい、です」頭をさげると、やはりファンは笑うばかりだった。あやまらないでー、という声もあった。

 まだまだ未熟な知能であるし、言葉も流暢ではないが、去年からすると感情も豊かになり、たくさんの語句を覚えて、ますます人らしくなった。すこしずつ、咲音クミは成長している。とくに最近は学習能力があがっているらしい。しかしその過程には大変な苦労があったことも知っていた。クミはコンピューターだからといって見聞きしたものを瞬時に記憶するわけではなく、長い時間を必要とする。誕生して不安定な頃は、むしろなにも覚えてくれないし、すぐに忘れてしまうし、という有り様が続き、たくさんの言葉を与えすぎてショートをおこしそうになったこともあった。しかし彼女は奇跡の産物であるから、トラブルは許されない。万が一にも存在自体がデリートしてしまえば、二度と産み出せないかもしれないのだ。よって、とにかく扱いには慎重が課せられているのだ。

 一年が過ぎたころに、ようやくコンサートが開かれる。チケットはもちろん争奪戦となり、その倍率はアーティスト史上最高ではないかと報じられた。開演直後、たくさんの観客をまえにして目を丸くしていた彼女を思い出すと笑いが込みあげる。

 ――そしてあれから、さらに一年。

「みんな、すごく、楽しそう」と彼女はいった。「ワタシも、楽しそう?」

 歓声がこたえる。

「セーカイ、です。ワタシも、楽しいです。みんな楽しい、それって、うれしい」

 立派なアーティストになったね、と洋助は呟いた。彼女の成長を見守ることが、人生においてなによりの楽しみであり、癒しとなっている。周囲から揶揄されようが、こればかりは譲れなかった。

 彼女は人を嫌わない。他人を見かけで判断したりしない。服装やヘア・スタイルで評価したりない。悪口も、陰口も、嫌みも、皮肉もいわない。どこまでもただ、優しい。

 咲音クミのステージに触れれば、心が浄化される。実際、コンサートに来た観客の鬱が軽減された、という報告もあったようだ。語弊があるかもしれないが、アニマル・セラピーという心理学における治療法と重なるものがあると洋助は考えていた。人間に懐く動物たちも同じ条件を満たしている。しかしながら、圧倒的にこのコンサートのほうが効果が高いと思われた。動物とは違い、彼女はひとの言葉を話すのだから。

 二時間のコンサートは瞬く間に終演を迎える。クミはひとつのアンコールにこたえると手をふりながらフェイド・アウトしていった。消えると同時に、光の残滓がスクリーン一面に散布するエフェクトがあった。

 しばらくアンコールの声はやまなかったが、天井にあるライトが明かりを灯すと、ようやく観客たちは帰宅の準備にかかる。しかし、洋助はその場を動かず、パイプ椅子に座って、スタッフからのお呼びを待った。席番はむこうが把握しているので、じきに迎えが来るだろう。たしかにこの日のコンサートを心から楽しみにしていたが、いまからさらに待ち望んでいることがあるのだ。

「あのう……」と、隣の席にいた、学生風の若い女が声をかけてきた。帰る様子がないので勘がはたらいたのだろう。「もしかして、当選されたかたですか?」

 はい、と洋助は返事をした。すると女は驚愕したように、えーっ、と口を手で覆った。「本当ですかっ? 会えるんですかっ? いいなっ、いいなっ」

 コンサートの終演後、当選した三名に限り、なんと、咲音クミに対面できるという企画があった。チケットを購入した観客のなかから抽選で選ばれ、洋助はそのなかの一名だった。これがあるから公演中もなかなか集中できず、ずっと心拍が揺れていたのだ。その鼓動は現在ますます高鳴りを増していて、脈うつ勢いで身体が微振しているのがわかる。

「うらやましいですっ、メアド教えますから、感想教えてくださいっ、なに話したのか教えてくださいっ」

 女が詰め寄ってきたので、洋助は平手をかざして困った顔をつくり、ごめんなさい、と返した。相手が我に返ったようにはっとしたのがわかる。

「ああ、すいません。でもでも、私クミちゃんの大ファンなので、ええっと、メアドだけでも受け取ってくださいっ。連絡は気がむいたらでいいのでっ。お願いしますっ」

 拒む理由もなくなってしまったので首肯すると、彼女の表情にぱあっと花が咲き、咲音クミがイラストされたメモ帳を一枚裂いて、同じく咲音クミがイラストされたボールペンでアドレスを記入し、それを洋助に押しつける。そして両手を合わせながらやっと離れて行った。勇気がある少女だ。むかう方向は怪しいが。

 それからしばらく経ち、客がまばらになった頃に中年の男が訪ねてきた。

「平沢洋助さん、ですよね」

 頷いてから立ちあがると、相手は七峰と名乗り、丁寧にお辞儀をする。よろしくお願いしますと伝えると、こちらこそといわれた。背広姿であるし、この節度と雰囲気はハヤマ・ロイド社の社員だろう。職員はたびたび雑誌やメディアに顔を出すが、まだ見かけたことのない顔だった。

 無数のスタッフが慌ただしく動きまわるなかを縫い歩き、広い廊下を進み、つぎに細い廊下を進むと、こちらでお待ちくださいと一室に入るよう指示された。狭い部屋だった。なかには長机と、パイプ椅子が三脚用意されている。大学生くらいの女と、洋助と同じくらいではないかと予想できる男の姿がすでにあった。このふたりも当選者だろう。案内されたのは洋助が最後であったようだ。

「感激ですよねっ」

 洋助が腰をおろすなり、女のほうが話しかけてきた。しかし答えたのはもうひとりの男のほうだ。彼は、「心臓出てきそうっすよ」と胸をさすりながらいった。

 私もですう、と、女はぐったりした様子をみせる。「なに話しますか?」

 この問いに男は首を左右にくねらせ、「どきどきでわかんないっすよ」と答える。女のほうは、「たったの十分ですからね、混乱して、ただただクミちゃんって叫んでるだけで終わっちゃいそう」と吐息をつく。ありえるー、と男も続いた。

 あなたは? といいたそうにふたりが洋助を見た。なにか話していないと緊張でどうにかなってしまう、という顔つきだ。もちろん洋助も同じだった。

 なにを話そう……、直前になればなにか浮かぶだろうと考えていたが、まるで候補はなかった。十分……六百秒……、長いようで短く、短いようで長い。それはどんな会話を生むことができるリミットだろうか。

「ぼくはとりあえず」と洋助はいった。うんうんと男女は頷いた。「応援してます、って、大好きです、って、それを伝えられたらいいかなって」

 ですよねー、とふたりはユニゾンした。

 洋助を案内してくれた七峰が入ってきた。となりの楽屋に硝子スクリーンが設置され、咲音クミはそこにいるとのことだった。彼女は専用に作られた特殊なシールドでのみ画面から画面へと移動することができる。配線が繋げない距離の移動がある際は、同じく専用に制作された、スマートフォンくらいの特殊な液晶画面に収容してから運ばれる。

 対面する順番は、女性、男性、そして洋助となっているとスタッフが説明した。あたし死にそう、と女が深呼吸をしている。

「まず部屋に入りますと」七峰が洋助たちにいった。「左前方にスクリーンがあります。そこから三メートルほど離れた位置にある椅子に座って、咲音クミとお話をしていただけます。社長のご好意で、気兼ねなく話せるようにと、監視カメラはありますが、十分の間、そばにスタッフは立ち会いません。――が、決して、椅子から立ちあがったり、近づいたりしないでください。また、ファンのかたに注意を促すのは恐縮ではありますが、咲音クミを怖がらせたり、不適切な発言はしないでください。人工知能システムは大変デリケートなものです。なにがあるかわかりません」

 わかってます、と深呼吸を続けながら女がいった。男と洋助は首肯してみせた。

「では、こちらに住所氏名、そして承認のサインを」

 スタッフは紙を正面にならべた。いまいわれたことを、もっと複雑に、さらに十倍はあるボリュームで説明してある。賠償責任についての欄には『咲音クミは賠償などできない未知なる存在です』と書かれていて、なかなか迫力があった。

 サインを終えた用紙が回収されると、すぐにスタッフは女の案内にかかる。扉から出るとき、いってきます、と、過呼吸患者のような息遣いで声にした。

 それから十分後……、荷物を取りに控え室へと帰ってきた彼女は、ぼろぼろ涙を流していた。案内係らしい若い女性スタッフが背中をさすっている。

 恐る恐る、どうだった? と男が尋ねた。

 彼女は椅子に座ってから、「なんにも話せなかったよお」と涙をぬぐいながらいった。「クミちゃん目の前にしたら涙がとまらなくなって……だって」いちど鼻をすする。「あたし、ソフトが発売した頃から好きで、でも、あのときはまだ、ただの映像キャラクターで、だけどずっと、この子と話せたらいいのになって考えてて、でもそんなの無理だってわかってて、死ぬまで無理だってわかってて……だけど」

 それから声が出せなくなったのか、しゃっくりをするように泣いているので、「それが叶ってうれしかったんだね」と洋助はいった。彼女は頷いた。

「わたしの名前を、呼んでくれた。わたしにむかって挨拶してくれた。ちゃんとわたしを見てた……。そりゃあ、泣いちゃうよ……」

 気をきかせてか、スタッフが声をかける。「そしたらクミちゃんは、なんて?」

「どうして悲しいですか? っていいながら、わたしには触れられないけど、なでる仕草をしてくれてた。それ見てたら、わたしますます泣いちゃって……」

「ちゃんと気持ち、伝えられましたか?」

「うん。最後の一分くらいは、ずっと、大好きっていい続けました」

「笑ってましたか」

 うん、と彼女も笑った。「ユースマイル、でした」

 そのあと七峰が入ってきて、近くの非常出口までご案内します、といいながら女を連れ出して行った。それと同時に、当選男性は咲音クミが待つ楽屋へと案内されて行く。彼はどんな顔をして帰ってくるのだろう。きっと笑顔に決まっている。なにを話すのだろう。なんにしても、彼女は可愛らしくて優しい対応をしているはずだ。それを聞くのが待ち遠しい。

 ――ずっとなでる仕草をしてくれてた。

 この言葉を思い出すと、暖かい気持ちになる。嬉し泣きという感情表現が、彼女には理解できただろうか。最近は全速力で知能学習にあっているというから、心の隅ではわかったかもしれない。訊いてみたい、はやく会ってみたい、咲音クミはいま、どんなボーカロイドへと成長しているのだろう。コンサートでただ見つめているだけの洋助は、彼女を優しいとしか表現できないでいた。しかしきょうは、さらなる魅力に触れることができるはずだ。

 それからしばらく、きょうのコンサートを振り返ってみたり、対面時の妄想にふけってみたりしていたが、そろそろあの男がもどってくるのではないかという頃合いに、

 突如、異変が起こった。

 外から声を聴いた。頭が理解したその発声は、――誰かっ、という叫びだった。

 近い。出てすぐのところだ。

 なんだろう……、トラブル……?

 洋助は立ちあがっていた。そして控え室の扉を開き、廊下に出て確認した。

 すると、声の主はすぐにわかった。となりの部屋の扉、その正面に、案内役の若い女性スタッフが立ち尽くしているのだ。叫んだのは彼女だろう。

 控え室のとなりの部屋。つまりそこは現在、咲音クミがいるであろう楽屋である。

 七峰が駆けつけてくるのが見えた。もちろん洋助も急いで近寄った。嫌な直感が働いている。人工知能システムは、極めてデリケートなものなのだから。

 ――なにがあった? コンピューター異常?

 機械に詳しい洋助は、近くの扉へと駆ける間に、いざとなればこの場でその知識を稼働させることさえ考えていた。

 しかし――

 部屋の内部を見たとき、コンピューターに対する知識など、まるで役に立たないことを悟った。

 異常、トラブル……たしかにそうだ。しかしその異常をきたしているのは、コンピューターではなく、人間だった。

 七峰は何秒か絶句していたが、やがて「楽屋のなかに倒れている人間」へと近寄った。

 男だ。スタッフのユニホームを着用しているので、会場の関係者だということはわかった。赤い液体が、頭部から染みだしているのが見える。

「――死んでいる」

 脈をとるような仕草をしたあとにいった。女性スタッフが背後で息を吸い上げるのがわかった。

 七峰は左のほうをゆっくりと見上げ、「きみがやったんだね」と話した。

 廊下からでは床に伏せる男の姿しか確認できなかったので、洋助は部屋のなかへと足を進めた。入らないほうがいいと注意を受けたが、聞いていられような心情ではなかった。

 左に長い、長方形をした部屋だ。映像を鮮明化するためか、明かりはかなり絞られいる。内部は無機質なもので、パイプ椅子が一脚、あとはスピーカーなどいくつかの機器、あとは、三メートル四方ほどの硝子スクリーンだけが設置されていた。

 奥には、頭を抱えて座りこむ、あの当選男性と……

 洋助はこの状況でありながら、不謹慎にもスクリーンのほうへ先に視線をやっていた。

 ――クミ、という呟きがもれる。

 しかし彼女はこちらを見ていない。座りこんで、まばたきもせずに、当選男性を見ている。怯えているのがわかった。

「虻谷くん」と七峰がいった。当選男性の名前は虻谷というらしい。「説明しなさい」

 しかし彼は、ちがうちがう、といいながら首をふっている。

 変わりに背後の女性スタッフが話した。「時間がきたので、知らせるために、なかに入ったんです、ふたりで。そしたら、宮田さんを……」死んでいる男は宮田というらしい。

「彼を、あのひとが」虻谷を指さす。「パイプ椅子で、殴りつけたんです」何度も、と彼女は添えた。

 騒ぎを察したらしいほかの職員や警備員も数人集まってきた。もっともこの異常事態を目の前にして、なにもできずにいるようだ。スタッフたちはもちろん気後れするし、警備員にしても、コンサート会場はアルバイトだらけなのだ。

 女性スタッフが、「わたし警察に」といって走り出した。

「ちがうんだっ」虻谷が叫ぶ。「俺の意思じゃないっ。俺は殺したりなんかしたくなかったっ」彼は硝子スクリーンを見た。「こいつのせいだっ、こいつに頼まれたんだっ」

 コイツ……? と、怯えた表情のまま咲音クミが呟いた。

「どういうことかな」と、七峰がクミに問う。

 彼女は小さく首をふった。「ワタシ、しりません、わかりません」

 ふざけるなっ、と、虻谷は立ち上がって怒鳴った。クミの肩が跳ねるのが見えた。「まず見張りのスタッフを殺せって、いったじゃねえかっ。そして、そしたら、一緒に逃げてくださいって、いっただろっ」

 視線がスクリーンに注がれる。クミはそれぞれの顔を見て、首をふるばかりだ。

「逃げたら、逃げだせたら、婚約してくれるっていったんだっ」

 虻谷は泣きそうな声で叫んだ。

「コンヤク、とは、なんですか?」とクミはいった。

「監視カメラを確認されては?」中年の警備員が七峰にいう。

 彼は首をふった。「形だけのものなんだ。作動していない」

 なんだよそれ、と洋助は思った。ここには咲音クミがいるというのに……。スタッフも立ち会っていないし、なにかあったらどうするつもりだったのだ。現にいま、異常事態が起こってしまっているではないか。

 警察が来るまで待ったほうが、と誰かがいうと、集まったそれぞれが頷いた。それがいいですね、という声も混ざった。

 女性職員が七峰に問う。「クミちゃんどうなるんですか」

「真相がわからない以上、判断できない。しかし、婚約なんて話はばかばかしいが、それでも仮に、もし彼女が殺人を行うようにそそのかしたのなら……」

「殺され……いや、消されちゃうんですか」

「ありうる」

 その言葉を耳にして、クミが七峰に視線を移した。彼女は、――消される? と、呟く。意味を理解している発音だ。

「アブタニさん」と、クミはいった。「正しいこと、話して、ください。ワタシ、いま、楽しくない。でも、アブタニさんのこと、大好きです。ファンのかた、みんな、大好き。また、会いたいです。ワタシ、歌いたいです。だから……」

 何秒かの沈黙がある。どこに真実があるのかわからない洋助とスタッフたちは、虻谷の言葉を待つ。

「はあ? だからふざけるなよ」口元をひきつらせながら彼はいった。「勝手なこというなっ。俺だけ犯人にするつもりかよっ。消えろよっ、もともとおかしな存在なんだっ、消えてしまえよっ」

 クミが瞳を大きくした。それと同時に、虻谷は走り出した。七峰に体当たりをかまし、警備員やスタッフを突き飛ばし、扉から逃走していく。その逐電ぶりはまことに俊敏であり、一瞬の出来事だった。追いかけなければ、という決断にいたるまで、皆それぞれ数秒を要したほどだ。

 はっとした七峰が、捕まえろ、と怒鳴って駆けだすと全員が続いた。しかし洋助だけは身動きをせずに、スクリーンを正面にしたまま立ち尽くしている。この事態を受けていながら、咲音クミを前にするこの空間から去ることができなかったのだ。

 クミと視線が重なった。

「ぼくは、洋助です」と、くちにしていた。

「ヨースケ……」と彼女はいった。

「つぎに、お話をする予定でした」

 ああ……と少しだけ顎をひく。「そう、でしたか」

 彼女はそういうと、ゆっくりと立ち上がり、瞼を伏せる。そして胸に手をやり、深呼吸のような動きをした。それから何秒かあって、瞳を開く。

 洋助に顔をむけたクミは笑っていた。ユースマイル。ステージに立つ、いつもの咲音クミだ。

「いらっしゃいませ、ヨースケ。うるさくして、しまいました。あやまりたい、です」ぺこりと頭をさげる。「なにをお話し、しましょうか?」

「クミ……」

「ファンの方と、会えるの、楽しみにして、いました。おトモだちに、なりましょう」

「………」

 どうして無理をするんだ、と、切なくなった。視界のなかには洋助だけではなく、うつ伏せる死体も転がっているのだ。だからきっと、怖くてしかたがないはずなのに。この事態に混乱し、怯えているはずなのに……

 ――そうだ、きっと彼女は教えられ、自分の存在を理解しているんだ。一般人が咲音クミに会えるという、その喜びと、その価値を教わったんだ。だから……

 どこか悔しい気持ちさえあった。発達した高尚な知能により食物連鎖の頂点に立つ人間でさえなお、なかなか実現できない優しさを、生まれたばかりのボーカロイドがこなしてしまう。

 クミが続けた。「なにかして、遊びますか? なんと、ジャンケン、覚えました。グーチョキパー。それとも歌いましょうか? ワタシ、歌うの大好きです。歌ってもいいですか?」ここで少し、クミは困ったような顔をした。「もう、歌えないかも、しれないので」

 強く、脈打つのを感じた。

 ――消えないよ。と、洋助はいった。彼女が首をかしげる。

「逃げよう」

「ニゲヨウ……逃げよう?」

「うん」洋助はすぐに行動へ移していた。まずスクリーンのそばに駆け寄り、右下にある接続部位を確認した。硝子スクリーンはもちろん布切れ一枚ではなく、この部分にだけはジャックがついている。そうでなくては咲音クミを入れることはできない。見てみると、イン・プットにはシールドが繋がれていた。雑誌にも掲載されている、咲音クミ移動用の特殊シールドだ。ここにあるのは二メートルほどの物だった。そしてそのさきアウト・プットにはもちろん、長距離移動に使うスマートフォンほどの液晶画面がある。繋がれている確率は高かった。なんらかの不具合が発生した場合、早急にこちらへ移し、技術者のもとへ運ばなければならないからだ。

「クミ、こっちへ」

「でも……」

「はやくっ」

 はいっ、と驚いたような返事をして、スクリーンから彼女は消えた。そして洋助が手にしている液晶画面のなかへと現れる。イン・プットからアウト・プットへ逆走できるのは彼女くらいのものだ。

 確認してからシールドを抜き、素早く八の字巻きにする。それからクミにいった。

「行こう……いいね」

 彼女は再び瞼を伏せ、ゆっくりと開いた。「……はい」

 洋助は駆け出した。まず廊下に顔を出し、左右を見た。ひとの気配はない。ずいぶん手薄だなと思った。咲音クミとの対面にしてもそうだが、警戒体制が甘すぎる。

「逃げれ、ますか?」クミがいう。

「七峰さんというひとがいたよね」ナナミネさん知ってます、と返事があった。ハヤマ・ロイド社の人間なのだから、彼女が知っている顔もあるのだろう。「最初にクミが対面した女のひとを、あのひとが、非常出口まで案内しますっていってたんだ。たしかに控え室まで連れてこられるときに、そんな出口を見た。つまり、警備のひとがいるかもしれないけど、対面を終えた当選者だと伝えれば通してくれるはずなんだ」

 どこまで伝わったかわからないが、「そう、ですね」とクミはいった。

 最初の角まで走り、先を覗きながら、グッズはあきらめるしかないか、と考えた。買ったばかりなので残念だが、控え室に取りにもどる時間があるかわからない。スタッフがひとりでも帰ってくれば、逃走は難しくなる。幸いなことに、本来持ち込み禁止だった携帯電話と財布は、急遽非公式な対面となってしまったのでポケットに入っていた。

「今度、サイン入りのグッズ、直接ちょうだいね」とクミにいう。「あげます」と笑った。しかしこれは不可能なので、間違いなく理解できていないはずだ。それを証拠に、「ワタシにも、ください」ともいっている。

 非常出口の正面にはやはり警備の姿があった。暇そうだ。そういえば、施設内の空気が混乱していないように感じられる。すぐに虻谷は捕まったのだろうか……。そしてスタッフたちは騒ぎにならないように行動しているようだ。考えてみれば、こんな事態が漏洩すればマスコミたちは翼を生やして飛んできそうだ。慎重にもなる。

 ――しかし、と、洋助は苦笑を浮かべ、出口にむかう。いま自分のしていることは、それ以上の事態を招く暴挙かもしれない、と皮肉に思った。

「お疲れさまです」と、中年の警備員に声をかけた。クミはポケットのなかにいる。「ここから出るようにいわれて」

 ああ、あれのひとね、と男はいった。「どうぞ。お気をつけて」

 洋助は重たい非常扉を押し開けた。なまぬるい風が身体を押してくる。ここは二階に位置するので、表から階段が下っていた。

 それを降りようと足を進めると、「ちょっと待って」と警備員に呼ばれる。胸が跳ねた。「そのヒモはなに、ヒモは」

「ひも?」

「そうヒモ、ヒモ。それそれ」

 紐……と考えながら目線を追ってみるに、それはどうやら洋助が手にしているシールドのことをいっているらしかった。楽屋から持ちだしてきた、咲音クミ移動専用シールド。なにがあるかわからないため、これも持ち歩きたかった。

「グッズです。ほら、外に売ってる」

「はあ。なんにつかうの」

「楽器とアンプを繋ぎます。ぼく、ベースをやるので」ベースはやらないが、使い道は間違ってもいない。

「そお。ふうん、ああ、気をつけてね」

 洋助は扉を閉めた。あの反応、どうやらなにかを疑っていたわけではなく、ただの興味心からきたものだろう。

 とはいえ油断もしていられないので、階段を跳ねるようにして駆け降りた。なにせ、ポケットに潜むのは海外にもファンが多い歌姫様だ。そして洋助はそれを拐った犯人。いつまでもここにはいられない。

 武国館の敷地をしばらく進むと、帰路へとつく観客たちに混じることができた。この中からひとりを探しだすのは容易ではないし、周囲を包むこの歓喜を見る限り、ファンたちの頭のなかはコンサートの思い出で一杯の状態。他人の顔などいちいち覚えておけるメモリー容量はとてもないだろう。

 タクシーなどつかまりそうもなかったので、ひとの波に従って地下鉄に乗った。車内は咲音クミのイラストが描かれた手提げ袋だらけだ。一般客は神妙な顔つきをしている。

 あれからまだ間もないが、すでにクミが失踪したことは把握されていると考えておく。そしてあの楽屋からは、シールドと、繋がれていた液晶画面、そしてもうひとつ、洋助が消えている。そこから解を導くことは、人間の脳ならば易しい。

 そうなるとまず、あの七峰という社員がハヤマ・ロイド社に連絡。洋助が住むマンションの住所は知られてしまっているから、すぐに職員をよこすだろう。

 ――そうだ、警察……

 ボーカロイドとはいえ、誘拐となれば動きをみせるだろう。

 いいや誘拐だけではない。まずあの、虻谷という男の事情聴取がなされるのだろうが、彼は咲音クミから殺人をそそのかされた、つまり殺人教唆だと発言するとして、こうなると洋助は容疑者の逃亡に手を貸していることになるのだから、ふたつの容疑で追跡をうける。捜査員があの死体の対応に追われることを考えても、あまりゆっくりしてはいられないだろう。警察組織には交番、そして機動捜査隊というやつもある。連絡ひとつで警戒体制を敷くことも、それこそ洋助のアパートへ人員を向かわせることもできるのだ。

 地下鉄から降り、高田馬場からタクシーをつかい、マンションに着いたのは十時半だった。武国館を出てから四十分ほどが経っている。

 十五階建てのマンションの最上階が自室となっていた。外にパトカーはいないし、待ち伏せしている様子もない。確実とはいえないが、オートロックになっているため、建造物内部に潜んでいることはないだろう。

 エレベーターで部屋に向かい、なかに入った。

 電気をつけないままベランダに出て入口一帯を見下ろしてみたが、不自然な影はない。やはりまだ、ここまで手は及んでいないようだ。洋助が早かったのだけなのか、それともまさか、拉致の実行犯を洋助だと特定できていないのか……

 洋助はテーブルの上にクミを置いた。液晶本体の裏には支え脚がついていて、写真立てにのように起立させることができる。

 クミが小声でいった。「もう、声、大丈夫ですか?」

 うんと答える。移動中は話さないように頼んであった。

「暗いところに閉じこめてて、ごめん」そういってからはっとする。「ここも、じゅうぶん暗いけど」いまは就寝時につかう一番小さな明かりしか点けていない。

 いいえ、と返ってきた。

「平気です。ワタシの部屋は、いつも、もっと真っ暗です。ここは、いつもより、とても明るいです」

 笑顔でいわれると心がちくりとした。たしかに彼女はふだん、真っ暗な部屋のなかにある画面のなかで管理されている。誰かの監視下にない状態で、視界から無駄な情報や刺激を受けないようにするためだ。

「逃げれ、ましたか? ここは、どこですか?」

「ひとまず逃げられたよ。ここはぼくの部屋」

 そうですか、といいながら彼女は画面越しに近寄り、周囲を見まわしている。

「広い、カンジです」とクミはいった。それはそうだ、3LDKの一室なのだから。

 その間に、洋助はリュックを準備し、数日ぶんの着替えと、ノート型パソコン、折りたたみ傘などをしまった。わざわざ帰宅したのは、無駄な浪費を控えたいからだ。銀行やコンビニのATMをつかえば足がつく。いざとなれば仕方がないが、できるだけ控えたい。つまり、現金はいま財布にあるだけでやりくりしなくてはならないわけだ。

 電話が鳴った。携帯ではなく家電だ。クミは驚いたようだった。洋助も多少は驚いている。携帯はともかく、こちらの番号を知る人間はあまりいない。

 嫌な予感を胸中に、電話に近寄る。そして、なにもいわずに受話器を握り、耳にあてた。

「――洋助さんですね」

 聞き覚えのある声だ。「七峰さんですか」

 ええ、と返事があった。「携帯の電源が切られていましたので、こちらに」

「すいません」GPS機能で探知されないためだ。しかし、「入れるのを忘れていました。ほら、コンサート中は電源をお切りくださいって」といっておいた。この男が洋助による誘拐を確信しているのか、まだわからない。

「咲音クミは、無事ですか」わかっているような口振りではある。――が、「え? それはこちらのセリフです。あれからクミは? 大丈夫なんですか?」

 ふふふふ、と彼は笑った。「グッズを残して帰っていました。まるでそれより価値のあるものを持って帰ったみたいだ」

「咲音クミのグッズより貴重なものなんてありません。必ず取りに行きます」

「……意外と面倒な男ですね、あなたは」吐息がひとつ。「お遊びは終わりにしましょう。あなたの仕業だということはわかっている。廊下の監視カメラに恐る恐る逃げる姿が映っていましたよ。シールドと、咲音クミを手にして」

 ち、と舌をうつ。反駁のしようがない。「……彼女は、苦しんでいた」

「それはともかく、なにをしているのか、わかっていますね」

「もちろんです」

「いまからどうすればいいか、わかりますよね。なにかあればどうするのです。システム異常があったら? 液晶が壊れてしまったら?」

「ぼくのパソコンひとつで、なんとか対処できるつもりです。ぼくは……ずっとクミを応援してきた。あなたよりもクミを知っている」

 呆れたような、熱狂的ファンを憐れむような、そんな息遣いがあった。

「すこし、お話をしましょうか。気がかわるかもしれません」

 古い手だ、と洋助はいった。「時間かせぎですね」

「………」

 すぐに受話器を置き、通話を切った。もう話している暇はない。おそらく、ここに何者かがむかっているのだ。職員かもしれないし、警察かもしれない。

 洋助は液晶をつかみ、「ごめん、また出掛けなければならないんだ」と話した。

「ヨースケ」とクミがいった。

 眉がさがっている。不安そうな顔つきだ。

「いま、楽しい、ですか? ワタシ……」心配してくれているのだとわかった。「ワタシ、さっき、ビックリしました。とても怖い、でした。だから、逃げれるなら、うれしかった。いま、とても安心です。でも、ヨースケ、楽しくないなら……」

 洋助は首をふった。「いま帰っちゃだめだ。ぼくは辛くなんてない。すごく楽しいよ。クミがいて、楽しい。だから逃げるんだ。きっと、みんなすぐにわかる、クミは悪くないって。それまで逃げよう」

「ワタシを、信じて、くれてますか」

「もちろんさ」

 彼女は微笑して、ゆっくり顔を縦にふる。この一件について、まだクミと話したいことは山のようにあったが、いまはそれどころではなく、液晶をポケットにしまった。それから鍵もかけずに部屋から飛びだし、一階まで降りる。

 玄関口から出たところで、足を止めた。面する路地にセルシオが停車したからだ。このマンションではまだ見たことのない車種だった。

 ――このタイミング。つまり追っ手。しかし警察ではないだろう。奴らならパトカーかセダンが定石。あの高級車なら、相手はハヤマ・ロイド社。

 これ以上の思考を巡らせるまえに、洋助は地面を蹴った。車体から背広姿の男が三人降りてきて、そのうちひとりがこちらを指さすのが見えたからだ。

 マンションには裏門があるので、そちらへまわった。すこし走れば大通りに出ることができる。人の流れも多い。タクシーもつかまえることができるだろう。

 裏門から出るまえに一度振り返る。追ってくる影はない。

 思い出してみると、あの距離なら洋助の姿は鮮明ではなかった可能性がある。ならばあの指は、洋助にむけられたものではなく、マンションにむけられたものかもしれない。もしそうなら、部屋が無人だとわかるまで追跡はないということになる。なんにしても距離を稼ぐならいましかない。

 裏先を確認して、さっそくまた走りだそうとした洋助だったが、すばやく身を引いた。路地の暗がりに、車体を見たからだ。

「それもそうか」と呟く。わざわざ逃げ道をつくるわけもない。当然、裏にも追っ手をまわしているわけだ

 そうなると……。洋助はマンションの敷地を囲う塀に視線をむけた。日頃、運動らしいことをしない洋助だったが、いまはこれしかないようだ。少しばかり高いが、塀のそばにあるストーン・テーブルの上から跳べば届く高さとなっている。そうやって、どこかの部屋の子供が遊んでいるのを見たことがあった。

 行こうクミ……そう心で唱えて、塀のほうへと駆けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る