風邪引きの日


 体温計を見て、エリスがため息を吐いた。


「38度2分」

「……」

「お母さん仕事あるから、今日は休んでな」

「……うす」

(やべー。こんなにだるいの久しぶりだわー……)

「腹出して寝てるからだよ」

(わざとじゃねーし……)

「学校には連絡しておくから、そこから動くんじゃないよ。わかったね」

「うす……」


 エリスが大股でクレイジーの部屋から出ていった。


(あー、頭ぐるぐるする)

(……あ、彼女っぴに連絡しとこ)


 クレイジーがスマートフォンに触った。


 <ルーチェっぴおはー。

 <今日熱出たから学校休むねー。


(あ、既読マーク付いた)


 >大丈夫?

 >ゆっくり休んでね。


(……あー……会いたい……抱きしめたい……)


 クレイジーが照れからふざけた言葉を送る。


 <大丈夫じゃないって言ったら見舞いに来てくれる?

 >伝染るからやだ。

 <酷いっぴー!

 >安静にしてね。

 <うん。ありがとー。今日も愛してるっぴー。

 >うん。ありがとう。


(……はあ。だる……)


 家から人の気配が消える。母親も兄達も仕事に行ったようだ。


(映画見たり本読んだり出来るかなって思ったけど、無理だ。だるすぎる)


 クレイジーが瞼を閉じた。


(はあ。……ルーチェに会いたい)



 ……。



「……お邪魔しまーす……」

 ……。

「わっ、いてっ」

 ……。

「えっとー……。……ごほん。……林檎よ。病人に食べやすく分けられるかい? 一口サイズ。子供も食べやすく。そうそう。そんな感じ。いいね。素晴らしい。流石はリンゴ。偉大だね」

(……ん?)

「あ」


 クレイジーが瞼を上げると、ベッドの前で紙皿を持ったルーチェが自分を見ていた。


「お邪魔し、してます」

(あ、振り向き顔可愛い。好き)


 クレイジーがぼーっとルーチェに見惚れるうちに、ルーチェが紙皿に乗ったものを見せた。


「リンゴ買ってきたよ。食べる?」

「……食欲ない……」

「……冷えヒタ、新しいのに替えようか」

「んー……」

「リンゴ、一緒にたー、食べよ? な、何か入れたほうがいいよ」

「 ……んー……」

「聞こえてる?」

「んー……」

「起きれる?」


 ルーチェが近付き、クレイジーの体を起こそうとすると、クレイジーがきょとんとした。何? 今日のルーチェ、積極的じゃん。愛を込めて全力で抱きしめれば、ルーチェが驚いて肩を揺らした。


「うわっ! びっくりした!」

「……好き……」

「起こすよー。どっこいせっ!」


 クレイジーの上半身を起こし、離れようともがく。


「クレイジー君!」

(あー好きー……。……、……あ)


 クレイジーが即座にルーチェを離し、口を押さえ、壁側に向く。


「げほっ! げほげほっ!」

「……だ、だ、大丈夫? クレイジー君」

「大丈夫ー(あー、やべー。幻覚見えてる……)」

「冷えヒタ替えるね」

「んー。ありがとー(あー、でもルーチェの幻なら大歓迎。やべー。ちょー可愛いー)」

「……やっぱりお、おーでこ熱いね」

(わー、ルーチェの手あったかー)

「ちょっと冷たいからね」

(わー。冷えヒタ替えてくれんの? ちょー親切……)


 ひやりとした冷たさでようやくクレイジーが覚醒する。うわ、つめたっ!


「だから冷たいって言ったじゃん!」

「……あれ? ルーチェ……?」

「……だいじょーぶ?」

「……何? ……え? ……なんでいんの?」

「エリスちゃん……から、心配だから、よー、様子見てくれないかって、連絡がきたの」

「……母さんから?」

「うん。だから、一応、念のため……セルバンテスで風邪グッズ買ってきた」

「……あそこ風邪グッズもあるんだ……」

「薬剤師免許持ってるスタッフがいる時だけ販売してる。……薬は?」

「寝てた」

「一緒にリンゴ食べよ?」

「……食欲ねー……」

「一つだけでも食べた方が良いよ」


 ルーチェが爪楊枝を刺し、クレイジーに皿を寄せた。


「どうぞ」

「……ルーチェっぴ、あーんしてくれたら俺っち食べるっぴー」

「子供じゃないんだから」

「具合悪い時くらい良いじゃん」

「……今日だけね」

(え、やってくれんの? まじ?)


 ルーチェが爪楊枝に刺したリンゴをクレイジーに向けた。


「はい。あーん」

「(あ、好き)……あー、ん」


 魔法で一口サイズに分けたリンゴをもぐもぐ食べる。うん。喉が痛い。しかしリンゴなら食べれそうだ。ルーチェが食べさせてくれるなら――もう少し食べれそうだ。


「もう一個いけそう」

「はい」

「えー? 食べさせてー?」

「自分で食べなよ」

「俺っち、彼女っぴに食べさせてもらわないと、食べれないっぴー」

「もー」


 ルーチェが再度甘えん坊にリンゴを向ける。


「あーん」

「あー、ん」


 あ、やっぱりこのリンゴには魔法がかかっているようだ。ルーチェが食べさせてくれると、不思議と食べる気力が沸いてくる。頬の力が緩むと、今度は鼻水が垂れてきた。


「ずびっ」

「あ、ティッシュ。はい」

「あんがとー。ずびびっ」

「季節の分かれ目だから、疲れが出ちゃったんだね。きっと」

「最近急に寒くなってきたからなー」

「雨も多かったしね。……花屋さん、さ、さ、寒かったんじゃない?」

「どちゃくそ寒い。上着着ないとやってらんねーもん」

「お疲れ様だね」


 ルーチェがリンゴを食べた。


「うま」

「……ま、でも、たまには風邪引くのもいいかも」

「ん? バイト休めるから?」

「や、それもあるけど……ルーチェっぴが看病に来てくれるから?」

「今回だけ特別だよ」

「特別なの?」

「エリスちゃんから連絡来ちゃったから」

(母さんまじナイス。今度なんか奢る)

「……あまり無理しないでね。明日も具合悪かったら休めばいいよ」

「ん。……まー、今までならさー、学校休めてラッキーとか思ってたけど、今は一個だけ気がかりなんだよねー」

「ん?」

「……ルーチェっぴに会えないじゃん?」


 クレイジーが手を伸ばし、軽くルーチェの頬に触れた。


「それがなんかすげー寂しい」

「……そー、んなこと言うの、クレイジー君くらいだよ」

「あー、やっぱ俺っち、女を見る目が誰よりも養われてるんだろうなー。まじ天才」

「ふふっ。女を見る目が誰よりも悪いの間違いじゃない?」

「いーや? 俺っち、目に関してはまじでナンバーワンだから。ルーチェっぴの魅力に気づけたのは俺っちの目があってこそだから」

「またそんなこと言って」

「……ありがと。来てくれて」


 クレイジーがルーチェの手を握りしめた。


「ほんと、好き」

「……一応、か、……彼女ですから」


 ルーチェの照れた笑顔を見れば幸せになれる。胸がいっぱいになる。安心する。落ち着く。好き。何度見ても、何度会っても、また惚れ直す。ぼうっとしてると、ルーチェがクレイジーの頭を撫でた。


「……薬は?」

「……そこ」

「……水よ溢れろ」


 ルーチェが空になったグラスに魔力で水を注ぎ、薬と一緒に差し出す。


「はい、飲んで」

「……んー」

「はい、寝て」

「んー」


 クレイジーが横になり、ルーチェがシーツを直した。


「お休み」

(あっ)


 ――ルーチェがクレイジーの頬に、キスをした。


(……)

(よし! ミッション成功! キスできた! 今のさり気なさ! あたし、上手くやったぞ! よし! よし、よし! 今の、すごく彼女っぽかった!)

(……。……)

(あ、残りのリンゴ食べよう。ぱくっ。うまっ)

(……。……。……)

(あー、このリンゴうま……甘……あのお店当たりだったな。……帰りにミランダ様にも買っていこう……)

「はー……」

(ん?)


 振り返ると、クレイジーがシーツを頭まで被せていた。


「……寝る……」

「うん。お休みー」

(とっとと寝て……風邪治して……)


 ルーチェとキスしまくってやる……。


(あー、まじだりぃー。無理ー。何、今のキス。可愛すぎ、天使かよ……)

(エリスちゃん帰ってきたら帰ろう。さて、……魔法書でも眺めてようかな)

(キスしたいー。えっちしたいー。あー、まじで、もー。……。……)

「……ん」


 整った呼吸に気付いて、ルーチェが再度振り返り、ふっと微笑んだ。


「お大事にね。クレイジー君」


 ルーチェのことを思い浮かべながらクレイジーが意識を手放す。一人でいた時よりも、ルーチェの気配を感じている方が、なぜか安心する自分がいた。



 ――翌日。



「ルーチェっぴ、おはー!」

(あ)


 駅から出て来たルーチェの隣にクレイジーがぴたっとくっついた。


「おはよー」

「昨日ありがとね」

「ん」

「なんか、帰り兄ちゃんに送ってもらったんだって?」

「うん。コリスさんが、わざわざ森まで車で送ってくれた」

「何時までいたの?」

「んー。20時とか? エリスちゃんがご、ご、ご飯作ってくれて、折角だから食べていきなって」

「ずっと寝ててごめんね。ルーチェっぴ」

「ふふっ。なんで謝るの? 風邪引いてたんだから寝てて正解だよ。……もう大丈夫?」

「うん。ちょー元気になった」

「良かった。でも病み上がりって一番危ないらしいから、無理しないでね」

「……ねー、ルーチェっぴ」

「ん?」

「あのさ」


 クレイジーがルーチェの手を握った。


「キス、したいんだけど」


 耳に囁く。


「駄目?」


 頬を赤く染めるクレイジーに、ルーチェが真顔で答えた。


「伝染るからやだ」

「辛辣ぅー!」

「通学途中だし」

「少しだけなら平気っしょ!」

「公共の前」

「寂しいっぴー!」

「駄目だよ。……もしあたしが歩いてる人なら、い、いきなりキスしてるカップル見たら、不快だもん」

「……じゃあ、……人目につかないとこならいい?」

「え?」


 突然、クレイジーが引っ張った。


「わっ、ちょっ!」


 建物同士の隙間が空いた路地裏に連れて行かれる。


「ちょっ……」


 そんなに強く抱きしめられたら、


「……あの……く、クレイジー君……」

「無理。したい」

「……通学途中」

「ここなら人の目ないっしょ?」


 塀から飛び出る植物が二人を隠す。互いの顔は互いにしかわからない。クレイジーの頬が赤いことも、ルーチェが緊張から震えているのも、二人にしかわからない。


「ね? ルーチェ、……ちょっとだけ」

「……ちょ、……ちょっとだけ……ね」

「ん。……ちょっとだけ。……」


 二人の唇が重なり合う。たくましい手がルーチェをしっかりと抱きしめ、慈しむようにゆっくりとしたキスを繰り返す。唇が重なり合いながら、クレイジーが悶々と妄想する。


(やばい。可愛い)

(エッチしたい)

(このままヤっちゃいたい)

(うわー、ルーチェの体震えてんだけど)

(何これ。ちょー可愛い。小動物かよ)

(やべー、学校サボりてー)

(……)


 唇を離す。ルーチェが深く息を吐いた。その顔は赤くほてっている。ルーチェの瞳が動いた。クレイジーを見上げる。クレイジーが再びルーチェを抱きしめ、耳元で小さく囁く。


「……今日空いてる?」

「……今日は、バイトあるから……」

「……」

「……土曜日、あの……土曜日、なら……」

「……土曜日?」

「……でも、あの、……調合用の……素材、取りに……隣町の森に行きたくて……」

「……一緒に行っていい?」

「……ん。来て、くれるなら……」

「素材集めね。うん。楽しそう。ピクニックみたい。……調合の教科書持ってった方が参考になると思うよ」

「うん。そのつもり」

「じゃ、土曜行こう」

(……お弁当、作ろうかな……。邪魔かな。……リュックで行けばいっか)

(弁当用意しようかな。ルーチェ食べれないものとかないかな)

「それじゃ、あの……」

「うん」

「……もう、学校行こう?」

「……んー」


 行かなきゃいけない。わかってる。わかってるんだけど。


「もうちょっとイチャイチャしない?」

「駄目。遅刻する」

「むー。冷たいっぴー」

「……行こ」


 繋がれた手が、クレイジーの股間にきゅんと来る。


「今日は、あの、……ランチ、一緒に食べよ?」

「……うん。食べよ」


 いつになったらもっと距離が縮まるだろうか。そうは思うが、確実に昨日よりも、一昨日よりも愛は成長し、距離が縮まってるわけで。


(あー。足りねー。もう十回はキスしてー)


 悶々としながら、今日も二人は魔法使いを目指して、学校に歩いていくのだった。




 風邪引きの日 END

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