死後の遺書_An Afterlife Note

注、当作品は死を扱っています。中には非常に不快になる表現もあるかもしれません。苦手な方は読まないことをおすすめします。淡風




 過去にドストエフスキーが好きな友人を捏造したことがある。その友人があたかもいるかのようにふるまい、その死を嘆き、弔いの言葉を述べ、そしていくらかしないうちに忘却した。

 ごくまれにそのことを思い出し、もしその友人がまだ生きていたら、と考えることがある。彼は今何をせんと欲するだろう? いまだに自死を選ぼうとするだろうか? 梁に縄を結わえ付けて、そこに首を括ろうとするだろうか。あれほど愛読したドストエフスキーの全集を踏み台に、それを蹴り飛ばして命を絶つだろうか。全集には一人ぶんの踏み場しかない。彼がそこに立てば立錐の地はない。実に彼らしい死に方だ。

 その彼の遺書が、しばらく前に彼の手によって書かれた。彼の親族は、彼の死後に書かれたその遺書を彼のもとだとたしかに認め、どこからか湧き出てきたかのように突然人目に現れたその遺書を、「死後の遺書」と呼び金庫の奥底へ隠した。はじめの数行を読んでそれが間違いなく彼の字であり、彼の書いたものであると確信を得てからはむしろそれを読もうとする気もなくなったのだろう、数か月間は金庫の中で風化するのをただひたすら待つのみとなっていた。ある日、親族らは暗証番号のわからなくなった金庫の鍵を壊し、中から少量の現金と貴金属を取り出すと、後のものは残したまま一夜にしていなくなった。不思議なことに車や自転車は前日の夕方からそのままでその夜間にその家の前の道路を乗り物が通った形跡もなく、かといって親族のにおいを警察犬にたどらせようとしても警察犬はそこに何のにおいもないことだけを示した。彼らはある程度の貴重品だけを手にし、そのまま文字通り消えてしまったのだ。

 残されたたくさんの物品のうち、あらかたは遠い親戚の元へ送られ、また送るほどのものではないものは、遺品の選定をしに来た親戚の手によって近所の人に配られ、残された大したことのない書類やら貰い手のないものらは親戚の帰る日の朝、庭ですべて燃やされた。それらはあまりに量があったため、近所の人が数名手を貸し、家の中から何往復もしてそれらを運び出した。三往復目に運ぶ山の中に遺書があることに気が付き、勝手に遺書をくすねてポケットの中にねじ込んだ。それから数日後、解体業者の手によって家は壊され、残るは更地だけになった。

 その土地に新たな住民が住居を建て始めたころ、その遺書を開いた。あまりに殴り書きでいくらか読めない字もあったが、それも予想のつくものばかりで全体としておおよそは意味の通る文章だった。彼にしては上出来で、あるいはこれがはじめて彼が意味の通じることを語ったときかもしれない。


 若し「罪と罰」がもっと長ければ死ぬのはもっと後になっていた 何せ諳んじるのに一苦労する。ドストエフスキーのためにフランス語とロシア語を覚えたころから死ぬことはよく決めていた。新しいことを知るのは死に近づくことも意味する。

 実に死んだところで何も変わらない。これは大きな気づきだ世界も変わらないし俺自身も変わらない。死んだところで俺自身変わらないということには驚いた。だから死んだところでなんとも思わない 一つ危惧していたのは死んだあとに何処へ行くかということだ。天国やら地獄やらがあったらたまったものではない。いずれにせよ地獄のようなものだ巧い具合に消えることが何より幸いなのだから。

 もう時間がない語ることもほとんどない。誰かがこれを読もうとするならば、俺はどうしてもそれを止める気にはならない。俺はちょうど何かを変えることが恐ろしい。自分を変えることが一番恐ろしくない。他人を変えることは一番恐ろしい。それだけのために死んだ。死のうとすることは他人を変える。何も告げずに死んだのはそういうことだ。その後は誰もが忘却をし、たまに脳裏に浮かべてはそれを消そうと奮起するだろうならば願うことは何もない。

 さあ祝いたまえ、実に美しい道程であった!


 そのあとには、いくらかの言葉が引用されており、最後はこれで締めくくられている。


 凡そ人間は何も知らない。知は夢に過ぎない。総てが変わったところで、人はまた眠りにつくだろう。

――ロシュ・デ・ラノード

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