第9話
「とりあえずビール?」
ああ、なんか、懐かしい。
学生の頃は、意味もなく、訳も分からず言っていた台詞。
「辛めのポン酒でいい。
天ぷらだぞ。」
「ふふ、一丁前に拘るようになったんだ。
史郎君かな?」
史郎か。
史郎は拘ってそうだな。なんにでも拘る奴だから。
そっか。
聡子、史郎と繋がってるか。
俺と切れたからって、関係切る義理はないもんな、二人とも。
「史郎君、すっかり偉くなっちゃって。」
「なにしろ本社の課長様だからな。」
しかも31歳で。
一番出世の早い奴でも年次で七つ上くらいのポストだぞ。
「有樹もでしょ。」
「場末の研究所のな。ハリボテみたいな街の。」
「ふふ。課長! とか言われちゃってるのね。
……あーあ。歳、取ったなぁ。」
違いない。
俺も、お前もな。
「……俺のどこが歳取ったんだ!
とか、言わないの?」
「30過ぎてか?」
「ふふ。
30、過ぎちゃったね。お互い。」
「……だな。」
永遠に20代でいられるわけ、ないんだよな。
当たり前だけど。
「……史郎君、どこまで話してるの?」
「何も。
お前らの問題だ、ってな。」
お稲荷さんの話は聞いたけどな。
あれは吃驚した。これまで知らなかったことにも。
「……そう。」
聡子。
……マジで、老け込んだなぁ。
無理もないか。入江に暴力、振われてたんだもんな。
そんな奴とは思わなかったけど、そんな奴だったか。
勝手に都合よく考えて、案の定都合悪くなるとイライラしてたもんな。
見てくれだけ、クチだけ、外面だけいい奴だった。
「……私、老けたって?」
げ。
なんで分かるんだよ。
「分かるよ。
結婚、してたんだよ?」
「三年だけな。」
三年目の浮気をされた訳だが。
「同棲してた期間入れれば五年以上よ。
有樹の癖、いまでも分かるよ。
目、閉じてても、触るだけで、有樹の手だって当てる自信ある。」
なんだそりゃ。
俺は……ないな、さすがに。
「いまの柚葉ちゃんくらいの歳よね、逢ったの。」
「ああ。」
18歳、か。
そっか、そうだよな。
「ふふ。
初々しかったね、お互い。」
「……だな。」
「私の高校から、あの大学いったの、
私だけ、だっだから。」
「……そうなのか。」
「ふふ。
有樹、ほんと、私に関心ない。」
同棲もして、結婚もして。
五年も、一緒にいて。
呆れるほど、何も知らない。
単位の話はした。サークルの話もした。
就職活動の話は、嫌になるほどした。
友達の話も、少しはした。仕事の話は、できなかった。
ぜんぶ、実務上の話だ。
聡子のことも。
柚葉のことも。
なにも知らないまま、馬齢を重ねてしまった。
入江のことを、嗤える筈がない。
「私のいってたトコだと、
付属上がりだと、家政学部に行くのが普通だから。」
今時あるのかよそんなトコ。
「今でもそうだよ。
私、あそこから、逃げたかった。」
そりゃ、逃げたいだろうな。
「四葉受かった時、私、止めて欲しかった。
違うところに、行って欲しかった。
……言えなかった。有樹、嬉しそうだったから。」
受かると、思ってなかった。行けるとは、思わなかった。
それこそ、史郎のような完璧超人が行くところだから。
つまり。
「俺が決まったのは、聡子、お前のせいか。」
「……だったら、どんなに良かったろうね。
実力だよ。有樹の、完全な実力。
でなきゃ、史郎君が声、掛けてくるわけないでしょ。」
……確かに。
史郎の中身、徹底して冷酷な実力主義者だからな。
外面だけ物わかり良さそうにしてやがるけど、サディストそのもの。
「会社は、私のこと、すぐに知ったよ。」
「いつ。」
「……扶養の申請をした時。」
「名字、違ってたろ。」
「旧姓、調べるに決まってるでしょ。
採否や昇進の材料に使わなければいいだけなんだから。」
「……プライバシー、ないんだな。」
「……そんなもの、よ。」
「ホタテの天ぷら、塩で食うと旨いな。」
「……ふふ。
そうだね。けっこう、美味しいね。」
「揚げたてはなんでも旨い。」
「……ほんっと、子どもみたい。」
「外面おっさんでも、味覚は子どもなんだよ、オトコなんて。」
「史郎君、酢のものとか喜んで食べてるけど。誰かさんと違って。」
「あいつは爺に育てられたクチだからな。」
「……ふふ。」
「それこそ史郎はなかったのか。」
「嫌だよ。
史郎君の妻なんて、地獄よ、きっと。」
「そんなものか。」
「そんなものよ。」
「サディストだからな、あいつ。」
「あはは、そうね。それもありそう。」
聞かないと。
聞かないといけないのに。
「エビのかき揚げ、やっぱ旨いな。」
「……ふふ、そうね。」
……これ、当然自腹だよな。
ちょっと考えると吐き気がしてくる。
忘れよう、いろいろ。
「……裏切ったと思ってる?」
聞かれ、た。
聡子のほうから。
「……どうだろうな。
もう、分からない。
俺が悪かったことは確かだから。」
「……そう。」
聞かれて、しまったからには。
「……お前が去って行った時、四葉に入らなければ、と思ったけどな。
でも、俺は、お前のことを、何も知らなかった。
知らないで済ませてしまった。
同じことは、きっと、起こったろうと思う。」
「……いいよ、そんなこと言わなくて。
貴方が立ち入らない人だから、
貴方を選べたんだから。」
どう、いう……。
「遠山の娘だと、知らない貴方だから。
お金の意味を、怖さを、汚さを、知らない貴方だから。
お金や顔に関係なく、優しくしてくれた貴方だから。」
「……誰でもそうだろ。」
「少なくとも、史郎君は違うわね。
……あと、入江も。」
「母集団が特殊すぎる。」
「貴方が貴重なの。」
「じゃあどうして俺を捨てた?」
聞いてしまった。酒の勢いで。
なんて恥ずかしい、なんて惨めな。
「……貴方は、そう、思ってるのね。」
「そう、思ってたな。
今では、違うだろうとは思ってる。
でなきゃ、今日みたいな時間は作らないだろ。」
「……ふふ。
そうね。捨てたのかもね。
私の、ささやかな幸せを。」
聡子……。
「いつも、必ず電話してきてくれたし、
ご飯、作らなくていいって言ってくれたし、
なにも言わないで掃除もしてくれた。
疲れてるのに、一緒に買い物もしてくれた。」
「……当たり前だろ。」
「わりと、当たり前じゃないのよ。
入江なんて、一度もなかったから。」
「……なら、どうして。」
「……騙されてしまったの。」
だま、された?
「入江、というよりも、父にね。
貴方を四葉から追放するなんて、容易いことだって。」
「……馬鹿、な。」
「父は、貴方のこと、嫌いだったから。
どこの馬の骨とも知らぬ奴にって。」
……それは、今でもそうだろうな。
氏素性は変えられないから。
「……私が、離婚さえすれば、
貴方の、四葉の身分には、手を、つけないって。」
そんな、時代劇みたいなこと。
「……史郎君にも言われたわ。バカじゃないのかって。
でも、父なら、やるだろうって思った。
晴子姉さんの末路を見せつけられてきたから。」
……それ、柚葉の母親のことか。
聡子の父親が妾に産ませた娘、だったっけな。
「……当てつけよ。父に従わなかった女への。
手を、ほんの少し伸ばすだけで良かったのに。
貴方が柚葉ちゃんにしたことの、百分の一ですら良かったのに。」
……それで、なのか。
柚葉の母親が爺に意地張った、っていうのも、分かんなくもないけど、
柚葉を置いて死んじまっちゃぁ……。
「入江はね、家柄は悪くないの。
凄くいいわけでもないけど、室町時代までの系図くらいならあるような家。
黙っていれば、取締役くらいにはなる、そう触れ込んでた。
社内調査もおざなりだったし、社内の派閥絡みも悪い感触じゃなかったって。」
「史郎、か。」
「史郎君もね。」
情報源、複数あるのか。
……考えてみれば、お稲荷さんのご令嬢だもんな。
俺の前では、隠していただけなのか。
「どうして話してくれなかった。」
「……話したら、貴方は、きっと遠山を壊しに来る。
どっちみち、四葉にはいられない。
あんなに喜んで入った会社なのに。」
「……馬鹿だな、聡子。
会社なんて、星の数ほどあるのに。」
「……そう、言ってくれちゃうと思ったから。
私に出逢ってしまったせいで。
呪われた血のせいで、貴方の進路を変えてしまうのは、
あの時の私には許せなかった。」
……なんて、こった。
「……俺が若かった、ってことか。」
「……お互いにね。
父に騙されてしまうくらいには、
味方を作る努力を怠るほどには、ね。」
「史郎、か。」
「史郎君も、よ。
大人になると、打算的な関係って、作りやすいものね。
切られてもショックを受けない、繋がっても慶びもしない。
ただの利害関係。楽よ、いろいろと。」
……ゴルフクラブ、か。
作った味方達が、入江との関係を切り裂いてくれたってことか。
入江や、その裏にいる連中に脅されない程度に力がある、打算的な味方達が。
その味方を、作るために。
聡子は。
「ふふ。
……汚れちまったな、わたし。
いいの。
三年間、いや、五年間。
わたしは、ずっと、幸せだったよ。
……柚葉ちゃん、大事に、してあげて。」
言うな否や。
聡子は、素早く立ち上がると、
声を挙げる間も与えずに店を出ていってしまった。
酒、呑んでた筈なのに。
「お客さんっ。
失礼ですが、勘定を。」
聡子と、俺の縁は、切れてしまった。
鍵を見せ、部屋番号を控えられているうちに。
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