第3話
「本社から、視察の方がいらっしゃるそうです。」
柏木部長が、真黒甲のフレームを揺らしながら、ぼそりと告げた。
「所長と私で対応致します。
竹内君の手を煩わせるつもりはありません。」
東京にいた頃なら、戦力外通知と捉えたろうな。
30歳になると、少し、見えるものがあるようだ。
気、使って貰っちゃってるだけだ。
「ありがとうございます。
子育て休暇規定の改定案は引き取らせて頂きます。」
役所のモデル規定と本社規定を見ながら、
女子社員にヒアリングして貰った結果を
研究所の実態に当てはめるだけの単純なお仕事です。
たった50人の組織運営。楽なことこの上ない。
「助かります。」
助かるのはこっちだよ。本当に楽なお仕事だわ。
残業手当と家族手当がないだけ年収は減るけど。
「ああ、少々、よろしいですか。
竹内君の同居人について、お話しておきたいことがあります。」
ん? 意外な話をするな。
柏木部長、プライベートに関与しない主義なのに。
*
川沿いの平地にへばり付く小さな街の端。
山脈の麓へと暮れゆく黄昏。
人間の住まう空間のほうがずっと狭い。
そこから一歩も出るつもりもないが。車もないし。
がちゃっ。
「……ん?」
見たこともない靴が、ある。
……なるほど。柏木さん、このために。
「っ!?」
柚葉が思いっきり戸惑っている。
横幅が広いから部屋が揺れた気がする。
ああ、こういう手合いか。
「無駄ですよ。
相続放棄していますから。」
「!」
カマを一杯に掛けただけだが、成功したか。
狭い街だ。
柏木部長は、俺と違って、研究所歴が長く、萱平にしっかり溶け込んでいる人だ。
なにしろ四十代の頃に消防団までやっている。
柚葉の事情、柚葉の父の不始末なんて、とっくにお見通しだったんだ。
柚葉の父は、二ヶ月も前に死んでいた。
何か言ってくる筈はなかった。もう死んでいたのだから。
継母はあっさり見つかったのだろうが、
柚葉は俺の家に住んでいたから、特定が遅れたのだろう。
柚葉が、俺に言える筈はなかった。
借金取りつきの成人女性を、誰が受け入れるだろう。
「なんだコラてめぇ、ナメとんかオラぁ!」
なんだこのチンピラ。
もう絶滅危惧種だな。貸金業法改正後にいるとは思わなかったが。
「柚葉、お前もバカだな。
拒否しておけば、住居不法侵入で即逮捕に持って行けたのに。」
「た、逮捕?」
柚葉の声以上に、目の前の地元系ヤクザが目を白黒させている。
俺が驚きもビビリもしないことが意外でしょうがないのだろう。
総会屋対策を目の前にする日々を過ごして、地元ヤクザ如きが怖いわけがない。
「弊社の総務部長も状況を把握しておられます。
顧問弁護士にご依頼することも、警察にご対応をお願いすることもできます。
これ以上は、そちらが不利になるばかりですが。」
ぜんぶ、ただのハッタリだ。
総務部長といっても研究所レベル、
顧問弁護士に会社案件以外、依頼できるわけがない。
警察だって縁もゆかりもない余所者のところに送ってくるかどうか。
目力込めて、冷ややかに睨み付けるだけ。
さも、裏になにかありそうな雰囲気で。
「……ちっ!
覚えてやがれっ!」
「警告させて頂きますが、
お忘れになったほうが御身のためですよ。」
できるだけ低く、一音一音、区切るように。
ハッタリの極みだが、俺はともかく、柏木総務部長を敵に廻すのは愚だろう。
退職後も民間大手出身者枠で市の充て職をいろいろ勤めるだろうから。
慌ただしく去って行った三下の空気を、取り払うように窓を全開にする。
あざわらわれるべきは、俺だ。
俺を見捨てた会社に縋って、俺を見捨てた会社の権威を使って、
三下を振り払ってしまっている狡い小悪党ぶり。
俺自身の力など、塵一つもないのに。
「……まだ、あつ、い、よ゛、……ぉ……。」
そうだな。
風もあまり吹いていない。
淀んでいた生暖かい空気が、ゆっくりと循環していくくらいだ。
黄昏は、空と俺たちを、ただ、優しく包んでいる。
柚葉の嗚咽を薄橙色に溶かしていくくらいには。
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