幕間

アナザー『彼女の葛藤と希望』

 松島月は他人が恐ろしい。


 顕微鏡を覗くみたいに、人の思考を覗き見ることができたなら……

 もしかしたらこんな自分はできなかったのかもしれない。


 ――人を信じることができなくなった。


 いや、そもそも人間の輪郭すらも、もはやハッキリと捉えることができない。

 隣にいるクラスメイトが、前に、後ろにいるクラスメイトが、まるで顔のないマネキンのように見える。


 日常の中において、松島が彼等を人として認識する瞬間は、往々にして『観察対象』となった時だけ。


 執筆という名の代償行為のために……松島は今日も、人間観察に精を出す。

 外側に張り付けた体裁という皮膚から人物の輪郭を捉え、口調から内面を『推測』する。

 見えている事実だけを切り取ることは松島にとってそう難しいことじゃない。


 人間の心なんて概念を透かし見よとする不可能を思えば、ただ見たままをあるがままに記すことのなんと容易なことか。

 松島の中には、既に周囲の人間を分類するためのパターンが出来上がっている。


 気の強『そうな』者。

 気の弱『そうな』者。

 活発『そうな』者。

 大人し『そうな』者。

 優し『そうな』者。

 怖『そうな』者。

 強『そうな』者。

 弱『そうな』者。


 皆、外側から見た時に当てはまるキャラクター。


 彼らには小説のような行間はなく、外へ向けて放つ雰囲気でしか人間性を判断できない。


 ――皆、『そうな』人たちばかりだ。


 故に、恐ろしい。

 何を考えているか分からない。推測できてもそれは個人の中で変換された松島にとっての解釈でしかない。

 それでも、松島は情報を集めることで人間を推察してきた。

それをデフォルメしてキャラクターを作り出す。

 小説の中で動く彼らは松島にとって最も身近な隣人だ。

 彼等には可視化できる心理描写こころがある。何を考えて、何を思って、想うのか。


 現実に生きる人間がマネキンにしか見えない。

 非現実のキャラクターの方がよっぽど人間らしい。


 ……いらない。


 現実世界での繋がりなんて不必要なモノ、欲しくない。

 どうせ、またすり寄ってきて、自分の都合で振り回すのだ。いざとなればあっさりと見捨てて、裏切る。


 まるでオセロだ。少し状況に挟まれただけで、白が簡単に黒へひっくり返る。


 ……いらない。


 友人なんて記号だけの浅ましい繋がりなんて必要ない。

 もう懲りた。

 自分からは近づかない。

 近付いてきてもそっと押し返す。

 互いに触れるから壊れるんだ。

 車と一緒。少し触れただけで、小さな傷がつく。


 だから、


 いらない……


 自分以外なんて、必要ない。


 だから、


 見えなくした。青春という群れから、自分を隠した。隠し通せてきた。


 あの日までは。


 なんで――


 思い返せば、なんて間抜けなミスをしたものだろう。時の流れが彼女を油断させた。そうとしか思えない。


 そこから、状況が変わった。


 青葉修司……


 松島と同じ、学生で小説を書いているマイノリティ。

 知られた秘密を守らせるために、彼に小説を書く技術を伝える契約を交わした。

 

 正直、面倒で仕方なかった。

 自分の執筆に支障をきたす。仮に状況を取材できてもこんな場面が自分の作品に活きるかどうか分からない。


 それでも、人に口を割らせないためには、それなりに代償が必要というのは理解していたし、肉体関係を迫られなかっただけ良しとした。


 教授する立場に徹し、プライベートに関わらせなければ、きっと自分は保たれる。


 何も変わらないはずだ。


 なのに――


 彼の書くあまりにも不出来な小説が、自分の指導で徐々に完成度を上げていくことが、思いのほか、楽しい、と感じてしまった。


 形を変えた執筆の形とでも言おうか。


 ふと、初めて自分で小説を書いた時のことを思い出す。

 なんて不格好で、拙い文章の作品か。

 今にして読み返せば、軽く赤面できる内容だ。

 それでも、アレが原点だ。


 そして、今ここで歪な形をした不格好な小説を、少しでも良くしようと足掻く少年の姿が、思わず昔の自分と重なって見えた。


 呆れた……


 気付いてしまえば単純な話だ。

 松島は、青葉に警戒心を緩めている。

 しかも、それを自分自身が受け入れているという事実が、余計に松島本人を動揺させた。


 だから、あんなミスを犯す。


 学園で、青葉以外の人間に、顔を見られた。

 相手は後輩の女生徒だった。何を思ったのか、いきなり告白された。


 真っ直ぐ、『好き』と。


 しかし、そこで松島の他者を敬遠する攻撃的な衝動が顔を覗かせた。


『あなたの恋愛観に私は何も言うつもりもない。でもそれに私が巻き込まれるのは迷惑だわ。私はね、一分一秒が惜しいの。学生の半端な恋愛なんてしている暇はないのよ。それじゃ』


 有無を言わさず拒絶した。これ以上、誰かとの関りを増やすなんて御免だ。

 このままいけば、遠からず松島はかつての自分……なんの根拠もなく他者を信用する自分に戻ってしまうような気がして恐ろしくなった。


 無知蒙昧で、そのくせ妙な自信だけはあった、あの時の愚かな自分のように。


 だが、それから松島の周りで、小さな嫌がらせが始まった。


 小さな小さな嫌がらせだ。

 松島は当然無視を決め込む。

 どれだけ地味に、存在を希薄にしようとそこにいる以上は誰に気付かれてもおかしくはない。

 特に、こういった大人しそうな人間を好んで攻撃してくる人間は多い。


 だが、特に反応することもなければいずれ相手も興が冷めていくだろう、そう思っていた。


 ……事態は思いのほか、深刻化した。


 夏休みが明けた途端、目に見えるほどの嫌がらせ行為が始まったのだ。


 行為は苛烈に、より悪質に。


 松島もいよいよ、これはマズい状況になったかもしれない、と気づき始める。


 もはや相手は松島を攻撃することそのものが目的になっている。反応を見て楽しむという段階はとうの昔に過ぎ去っていたようだ。


 しかし、だからどうするとうのだ?


 肝心の教師は被害者である松島を庇うどころか非難するような目で見てくる始末。


 挙句にクラスのギャルが妙な言いがかりまで吐けてきてもはや収拾がつかない。

 誰も松島に手を伸ばさない。傍観して諦観して事態の収束を黙って見ている。


 あの、青葉でさえも。


 ……ああ、そうだ。思い出した。


 これが、人間だった、と


 絶望はない。元から知っていたことではないか。


 ふっと、松島の体から力が抜けた。

 もういい。どうせ壊れてしまうなら、いっそ壊してくれ。

 なまじ正常だから苦しむのだ。


 だったら、壊れてしまえばもう思い悩むこともない。

 そんなことを思い始めていたある日に、松島の投稿した作品……彼女の代表作である『加護塗れ転生』に、ひとつの感想がつく。


『絶対に書き続けること、じゃないんですか?』


 ユーザー名を見れば、それを書き込んだ相手が誰かなんてすぐに分かった。

 一瞬、松島は激しい苛立ちに苛まれた。

 書けるならとっくに書いてる。日々のストレスでそれどころではないと分かってるだろうに、こんな無神経な書き込みをしてくるとは。

 なにもしないくせに、見ているだけのくせに、こんなことを書ける青葉の心情がまるで理解できなかった。


 しかし、そこでふと、松島は自嘲気味に笑ってしまう。


 ……人の心なんて、見えなくて当然じゃない。


 思わず、声を上げて笑ってしまった。

 妙におかしかった。


 それから数日後、松島は体調を崩した。症状から風邪だとは思っていたが、おそらく日々のストレスも原因のひとつだろうことは容易に想像できた。


 学校は休んだ。今頃クラスでは、遂に学校に来なかった松島をどう思っているのか。

 重苦しい体で定まらない思考が無意味なことを考える。どれも嫌なことばかりで、気が滅入る。

 食べるものを切らし、お腹になにも入れることができない。動くのも億劫だった。

 もしかしたら、自分はここでひとりで死ぬんだろうか、とすら思った。


 そんな時に、青葉が来た。


 いつもと変わりなく、どこかふざけた態度で、松島の世話を焼く。

 弱体化した精神は、不意に訪れた不器用な気遣いにほだされそうになる。

 彼は特に松島を慰めることもなく、憐れむこともなく、やることだけやって、帰って行った。


 一人になる。台所へ向かうと、彼がそこにいた形跡が見て取れる。

 日が暮れて、彼が買ってきてくれた食事に口を着け、薬を飲んだ。

 それだけで、少し気分が軽くなる。プラシーボ効果かもしれないが。

 同時に、一人きりの空間に物悲しさを覚えてしまう。


 ……よくない兆候ね。


 戒めを緩めてはならない。ならないのに。


 ……バカみたい。


 彼の去り際に、自分はなんと言ったのか。


 ……お礼なんて。あれじゃまるで。


 彼が来てくれて、嬉しかったみたいではないか。


 無自覚に、松島の頬は、ほんのりと緩んでいた。


 だが、どれだけ親身になってくれたとしても、それを心底信用することなど彼女にはできない。そうすることは、怖いのだ。


 そう。しないのではない。彼女は、できないのだ。他人を信用することが……


 ――ある日、松島の作品が穢された。

 

 ページを破かれ、バラバラにされ、晒しモノにされたのだ。


 嫌がらせが、ついに松島の最も柔らかい核心に触れた時、彼女はいよいよ精神を病み始めた。


 気を張り、顔色をコンシーラーで強引に取り繕って、無理やり学園に向かう。


 でも、足取りが重い、学園に足を向けるだけで吐き気がする。扉を握る手が、うまく動いてくれない。


 ……ああ、ついに壊れるのね。


 もはや秒読みだ。

 あと、自分はどれだけ正常な思考を保てるのだろうか。

 そんな時に、青葉が動いた。


 よりにもよって、彼は自分に、『助けを求めろ』と口にした。


 しかし、松島は伸ばされた手を、拒んだ。


 いや、違う。


 彼から伸びてくる手が、かつての自分のトラウマと重なってしまったのだ。


 途端、口から飛び出したのはこれまで以上に他人を拒絶する言葉だった。

 きっと、彼は善意で動こうとしている。しかし、松島が望まないのなら、動く気もない。


 違う。きっとそうではないのだ。


 松島が望まなければ、青葉の行動はただの独善だ。

 それでは結局、松島は真の意味で助かったとはいえなくなる。

 求める思いを口にせず、我慢したまま、いつの間にか誰かが助けてくれる。

 そんな甘えを、彼は許していない。

 何かを変えたいと願うなら、行動するしかない。


 逃げる、という選択すらしないのなら、もはやソレは、本物のマネキンだ。


 でも、彼はほんの少しだけ、切っ掛けを与えようとしている。

 上から目線で、仮に傲慢と取られても、松島に、自分に助けを求めろ、と伝えてくる。


 でも、怖い。


 その手を取って、また裏切られるのが、怖くて仕方ない。

 なまじ、心を許しけている相手であるがゆえに、その恐怖はこれまでの非ではなかった。

 手を伸ばすことを渋る松島に、青葉はある提案をしてきた。


『短編勝負』


 勝った方が相手になんでもいう事を聞かせられる。

 ――『なんでも』だ。


 制限を設けず、相手に命令できる権利を賭けての勝負。

 当然、純粋な作家としての能力的にも松島が断然有利。

 それを承知で、彼は勝負を挑んできた。

 勝算があるのか、あるいはただの無謀か。

 青葉の目論見は分かっている。この勝負に勝ち、自分に助けを求めろ、と言うつもりなんだろう。


 しかし、ほとんど出来レースとなることが予想できるこの勝負で、逃げるとう選択肢をする?

 仮にもプロが、まだまだひよっこの青葉に?


 松島は、仮に青葉にどんな手を使って来ても、負ける未来が予想できなかった。


 以前とは違う、今回の勝負はある意味で本当の力比べだ。


 松島は受けた。勝負を。


 彼女は、本気で青葉に勝つつもりで執筆した。

 久しぶりに書く、新しい物語。

 当然、勝つためにできる手は尽くす。SNSで拡散し、読者を集めた。


 そして、いざ勝負を始めて見れば、青菜は予想外の食いつきを見せつつ、結局は松島の優勢が覆らない。

 自宅で一人、こたつで丸くなった松島は、この結果を冷めた目で見つめつつ、既に勝負はあったと静かにPCの電源を切った。


 しばらく、何をするにも億劫で、風呂にさえまともに入らなくなった今の彼女は、まるで数年前の時を遡ったかのように、ぼさぼさの髪にやつれた顔をPCの真っ黒な画面に映していた。


 小さく落胆のような吐息を吐き出し、こたつの天板に突っ伏す。


 ……これか現実よ……青葉君。


 松島の作品への合計アクセス数は伸びている。

 それに引き換え青葉の作品は初速こそ松島に食い下がる勢いを見せていたが、今ではその差は圧倒的なまでに開いている。


 ……それでも、よく頑張ったわね。


 誰もない部屋で、松島は自分の弟子がこの短期なんでここでまでの成果を上げていることを静かに称賛した。

 正直に言えば、まさかここまで彼が伸びるとは思っていなかった。


 確かに高い目標を設定し、そこを目指して指導してきたつもりではあったが、それはひとえにモチベーションを保つための口実に過ぎない。


 どれだけそこに近付けるかは未知数だったが、これはもしかしたら、と小さな期待が生まれる。


 だが、その思いもここに置いていくことになるだろう。


 どうせ、この勝負が終わった瞬間、松島は彼との関係を解消する。


 もう、全部終わりにするもりだった……全部。


 ――しかし、予想に反して、青葉の作品は後半になりその勢いを取り戻し、一気にポイントを稼ぎ始めた。


 さすがにこの伸び方には松島も不審に思いつつ、松島はPCから目が離せなかった。


 どんどん、自分の短編が獲得したポイントに、青葉の作品が迫ってくる。

 それは着実に差を縮め、最終日の残り一時間で、ポイント差は『1』となった。


 あと一人でもブックマークすれば、それで青葉の勝利が確定する。


 しかし、それからどれだけ待っても、青葉の作品のポイントがそれ以上に伸びることはなかった。


 今度こそ、本当に終わり。


 でも、


 松島は、青葉の作品にアクセスし、内容に目を通す。


【主人公は地方の学園に通う男子学生。

 彼には好意を寄せる幼馴染ヒロインがいて、彼女は俗にいうツンデレだ。言うこと成すこと、全てが本心とはあべこべな典型的なツンデレキャラ。


 しかし、主人公はある日、一つのネット作品を見つける。それは、とある男子高校生に恋するヒロインの視点で書かれた作品で、なかなかに人気も高く書籍化もされた作品だった。

 主人公は鈍感で、それにやきもきしつつも、なんとか自分をアピールする健気な少女像が人気の作品。


 彼はその作品を読み、ファンになってしまう。


 だが、その本を書いていたのは、実は幼馴染のツンツン少女で、実は自分の伝わらない主人公への想いを、小説という形で表現していたのだ。


 それを偶然知ってしまった主人公は、彼女の本音を小説から読み取り接していく。すると、ヒロインは自分の理想的なシチュエーションを提供してくれる主人公に、これまでより強い好意を持つようになる。


 が、それでもヒロインは染みついたツンデレ気質を簡単には変えることができず、彼に素直な気持ちを伝えれず、辛く当たってしまう自分に自己嫌悪してしまう。


 そんな中、ヒロインが作家であることがクラスでバレてしまい、その内容を悪意でもって揶揄されてしまう。


 傷付き自虐的になっているヒロイン。


 寄り添い支えようとする主人公の事さえ、ヒロインは拒絶してしまう。


 だが、そんなヒロインに、彼は自分が彼女の小説を知っていたことを告げ、挙句に彼女の本を持ち出して内容を朗読、加えてその場で幼馴染の可愛さを熱烈に語り始める。


 そして、トドメと言わんばかりに愛の告白。


『素直じゃなくてこんな妄想丸出しの小説を書いちゃうような君が、大好きだ~~~~っ!』


 鬱屈とした気持ちは主人公のストレートな好意によって強烈な羞恥となる。


『妄想丸出しで悪かったわねこのバカ~~~~っ!』


 と、ヒロインは最後まで主人公に素直になり切れず。しかし、


『でも仕方ないでしょ! こんなん書いちゃうくらい、あんたのことが好きなんだから!!』


 と、最後に素直な気持ちを吐き出して二人は付き合うことになるのだ】


 ……なによこれ。


 と、松島は全てを読み終えてからおかしくなった。


 細部は違うが、どう考えてもこの作品のモデルは自分達だ。

 しかし、物語としてのまとまりはできているし、キャラクターも個性があって面白い。

 素直に、彼の成長を実感できる内容だった。


 ……彼との関係を絶ったら、どうなるのかしら。


 彼がネットで小説を書き続ける限り、決して読めなくなるわけじゃないはずだ。


 でも、近くで彼の成長は見れなくなるだろう。


『辛いなら辛いって、そう言わなきゃ誰も助けてなんてくれないんだ』


 彼の言葉が脳内でリフレインする。

 松島は、現実世界の苦しみから逃れるために、小説を書き始めた。後ろ向きでも、動いて現状を変えたはずだった。


 でも、今はただ、ことの成り行きに任せて、状況を諦観しているだけ。

 それは、周りのクラスメイトとなんら変わりない行動。

 今を変えたいなら、自分から動かねばならない。


 ……信じていいの?


 彼を。

 本当に?

 選ぶのは自分だ。


 選択肢は、今、手の中にある。


「私は……」


 辛い、苦しい、痛い……


 一人で耐えていたものが、その瞬間に、音を立てて壊れていくような音を聞いた。


「助けて……」


 指が、松島の選択を、なぞる。


「助けて……青葉君……」


 彼女は、青葉の作品の上部に見える、ブックマークを、震えながら、クリックした。


 彼女の行動がポイントに反映されたのは、勝負が決まる……数秒前であった――

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