第31話『彼女の家にて』
夏休みが明けてから2回目の日曜日。日も暮れかけの午前7時頃。
学校でのことがあっても、青葉は執筆の手を休めることはなかった。
短編の投稿を終え、大きく背中を伸ばす。腰掛けた椅子がキシキシと音を立てて使用者の体を支える。
一度人気に火が付き、多少は青葉と言う作家の認知が増えた影響であろうか。
投稿する短編には今までないほどの評価と感想が付き、うまく読者を引き込めた作品はジャンル別の作品のランキングの末端に食い込めるまでに至っていた。
作品作りは順調に推移しているように思えた。
読まれているということは着実に執筆のモチベーションに繋がり、青葉は小休止を挟んで再びキーボードのタイプを始める。
と、不意に青葉のスマホがブルブルを震え始めた。
見れば、青葉がフォローしている作者がサイト内で話を更新した旨の報告を上げたツイートであった。添付されたURLをタップして作品へとアクセスし、投稿された話に目を通す。
読み応えのあった話の読後感に浸りながら、スマホを操作して作品のトップページを開く。
と、不意に見えたページの下部、『この作品を読んでいる読者はこんな作品も読んでいます』という欄に見えた、『加護塗れ転生』の表記に視線が吸い込まれる。そのまま親指が動いて作品ページにアクセスした。
最新話の投稿はなし。そもそも【月ライト】のツイッターは青葉もフォローしており、最新話が投稿されれば通知が入るようになっている。にも拘わらず、青葉が作品にアクセスしたのは最も新しい話の更新日を確認するためであった。
最後に更新された日付は、夏休みが明ける少し前の8月20日。それから今日まで、一切の音沙汰はない。ツイッター上で【月ライト】の呟きすらなく、完全に沈黙してしまっていた。
これまで松島が3日以上も作品を投稿しないということはなかった。それだけに、松島の作品の感想欄には『次の話はまだですか? 楽しみに待ってます!』といったコメントがちょくちょく見受けられた。
しかし、今日まで作品が更新されることはなく……青葉は自然と指が動き、『絶対に書き続けること、じゃないんですか?』と皮肉の籠ったコメントを投稿した。
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それからしばらく、ついに松島は学校を休んだ。理由は体調不良ということらしい。だが、クラスの人間は全員が内心で「そんわけない」と思ったことだろう。
しかし彼女がいないからと何かが変わるわけではない。
むしろ村田辺りは「ようやくいなくなった」などと松島を笑いものにしてグループ全体が盛り上がっているくらいだ。
誰がいなくなろうと、つつがなく進む授業。眠気と格闘した昼休み以降の授業も終えて、本日最後のホームルームを終えた。しかし直後、帰宅の途に就こうとしていた青葉に担任からの呼び出しが掛かる。
要件はホームルームで配られた進路に関する調査書を松島の家まで届けてほしいとのことだった。松島の住んでいる場所と青葉の家は近い。
特別断る理由もなかった。プリントを受け取り彼女の家をスマホで調べて自転車を走らせる。
松島が住んでいたのは駅から歩いて10分圏内のアパートだった。
築5年ほどのまだ比較的きれいな外観のアパート。
二階の一番端に位置する204号室が彼女の部屋らしい。
扉の前に立った青葉はプレートに松島と書かれているのを確認してインターホンを鳴らす。
しかし反応はない。
もう一度鳴らす。出ない。
もう一度鳴らす。出ない……
鳴らす鳴らす鳴らす鳴らす鳴らす鳴らす。
ピンポン、ピンポン、ピンポン、ピンポピンポピンポピンピンピンピンピン……
「――うるさい! 近所迷惑くらい考えられないのかしらないのかしら脳みそに豆腐でも詰め込んでいるのかしらねいえそれは豆腐にも失礼だわそれで何の用なのかしら人の家までズカズカと押し掛けてくるなんて何様のつもりなの?」
「よぉ居留守女子高生。思ったより元気そうで安心した」
「風邪を引いたって言ってるでしょこれが元気そうに見えるなら今すぐに頭を開いてもらって医者に見せることをおススメするわ……というより本当になんなのよ……用があるならさっさと済ませて……ちょっと洒落じゃなく気持ち悪いのよ……」
それは単なる酸欠じゃねぇのか、と思ったがいつものごとく余計なことは言わない青葉。
しかし実際、松島の額には冷えピタが張り付けられマスクで口元を覆っている。マスクの奥に見える顔が少し赤みを帯びているのは青葉の気のせいではないだろう。
「教師からプリント渡せってパシリにされたんだよ」
「最悪あのクソ教師。一人暮らしの女子高生の家に普通男子を送るかしら常識ないんじゃないのよく教師やってるわね……げほっげほっ」
そこには青葉も深く同意した。あの教師はダメだ。チェンジできるならそうしてやりたくらいだ。
「ご愁傷様。ほれ、プリント」
「……はぁ。日々の仕打ちを見ててこうまで顔色を変えずに接することができるとか随分と神経図太いのね」
「心配して欲しいならそうするぞ」
「冗談。誰があなたなんかに……ふぅ……」
松島はどこか絞り出すように息を吐き出した。
「あんま大丈夫そうでもないな」
「風邪ひいたって言ってるでしょ。イラつかせないで具合悪いんだから」
「飯、ちゃんと食えてるか?」
「……食べてるわ」
なんだその間は……と、青葉は玄関の奥に視線を映して部屋の様子をチラっと確認する。お世辞にもあまり片付いているとは言えない様子。
それに所々に見えるコンビニ弁当や総菜のパックなどがごみ袋の大半を占めている。これはどう考えてもまともな食生活を送れているようには見えなかった。
「ちょっと上がっていい?」
「なに言ってるのダメに決まってるでしょ。プリントだけ渡してさっさと帰え……っ」
「っと」
松島が急にふらつく。玄関の扉に体を預けて今にも床にへたり込みそうだ。フラフラの松島を支えようと手のを伸ばすが、松島はそれを避けてジロリと睨んできた。
「……上がるぞ」
「ちょっと、なに勝手に…………」
青葉は嘆息しながらの松島を脇を通り抜けて部屋に上がり込む。
「狼が通りま~す、一名様ごあんな~い」
適当なことを口走って松島の言葉を遮る。ずるずると体を引きるように部屋の中へと同行する松島は、青葉を睨みつけてマスク越しにこもった悪態を吐き出す。
「このっ……あとで覚えておきなさいよ」
「へいへい」
適当に相槌を打って部屋に入る。同級生の、しかも女子の部屋に上がり込んでいるというのにまるで心が躍らない。
高校生の一人暮らしにしては広めの2ⅮK。ネイビーの遮光カーテンが閉め切られ中は薄暗い。部屋の中央には季節感もへったくれもないこたつが冬フォームのまま鎮座している。
その周りでは空のペットボトルやらお菓子の空き箱やら袋やら……果ては脱ぎ散らかされた衣服(下着含む)が無造作に転がっている。とんでもなく(悪い意味で)生活感に溢れた部屋。男子高校生が想像するような女の子らしさなどまるで感じさせない、俗にいう汚部屋というヤツであった。
……これで人の生活習慣に物申してたのか。
青葉は盛大に溜息を吐きつつ肩を落とした。
「松島ってけっこう横着な性格なんだな。こたつくらい片せよ」
「いいのよたまにここでそのまま寝てるんだから。あると便利なのこれは効率を追求した黄金比なのというか人様の部屋をジロジロ見るな変態」
「せめて下着くらいは片づけたらいいんじゃないか」
「死ね」
スリッパを跳ね上げて殴られた。さっきまでフラフラだったくせに随分と器用な真似をする。しかしほとんど痛みはない。
青葉は松島をこたつに座らせ、肩にかけていた学園指定のバックをこたつの天板に置いて中を漁り始める。
「なにする気か知らないけどさっさと帰って。あと、隣の部屋に入ったら本気で怒るからてか殺す」
「了解。とりあえず松島、今日の昼食はなにか食った?」
「…………朝にゼリー飲料飲んだだけで、お昼は食べてないわ……」
「おい病人。はぁ……冷蔵庫勝手に開けるけど怒るなよ」
「そっちは見られて困るもの入ってないから好きにしなさい……」
それだけ言うと、松島はフラフラとした動作で手ごろな位置のクッションを引っ張ると頭をのせて目を閉じてしまった。
中学時代に襲われたとか言ってたくせに警戒心はないんか、と青葉は苦笑する。
キッチンスペースもなかなかの有様で流し台には鍋やら使用済みの皿、その他食器類や調理器具が適当に放置されていた。
「うわぁ……」と肩を落としながら青葉は冷蔵庫を開ける。
中にはエナジードリンクが数本とチューブワサビ中身ほぼゼロがコロンと転がっているだけ。食材の類はインスタント含め全く姿がない。
「マジでなんもねぇ……」
これでは薬もまともに飲めなかったのではないだろうか。
青葉は「松島、お前くすり飲んだか?」と振り向きながら声を掛けた。
しかし返事は返ってこない。様子を見に戻ってみれば松島はクッションをぎゅっと抱いて寝息を立てていた。
「寝顔は天使」
口さえ開かなければ松島は確かな美人。最も、だからと言っていきなりあの毒舌が聞こえなくなればそれはそれはで心配になるから不思議なものだ。
「絶対余計なことしてるな、俺……」
他人との繋がりなど浅くていい、それが青葉の考え方であり他人との距離感だ。
しかし今、彼はあえて自分がこれまで貫いてきた誰かとの距離を縮めて土足で踏み込もうとしている。
実際いえの中に無理やり上がり込んだ。この時点でもう言い訳不可能。青葉は松島にいらぬお節介を焼こうとしている。
学園指定のバックからスーパーの袋を取り出し、カオスな環境と化した台所へと足を向けた。
調理器具を探し出しコンロ周りを使えるように整理する。使いたい食器を探すのに1時間もかかり、ようやくできた空きスペースで青葉は作業を開始した。
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眠りが浅かったのか人の動く気配で松島は目を薄く開けた。
ああ、そういえば不審者が入り込んだんだっけ……などと、心の中でまで青葉に毒を吐く。
しかし不意に鼻孔を刺激した食欲をそそる匂いに、ほとんど空っぽの胃が収縮運動を始めた。
まだはっきりとしない霞がかった意識のまま、松島はこちらに近付いてくる男子の顔をぼんやりと見上げた。
「起きたか?」
問いかけにこくんと素直に頷く。
「なにしてたの?」
「メシ作ってた。食うか?」
「食べる」
一瞬の迷いもなくそう答えた彼女の姿に、青葉は少しだけ目を丸くした。
しかしそれも一瞬。青葉は「了解」と踵を返してキッチンスペースへと向かいすぐに戻ってきた。
「ほれ、男子高生特性たまごとじうどん」
松島は緩慢な動きで起き上がる。青葉が用意したのはほくほくと湯気を立てるうどんだった。
小さな丼の中にふんわりと浮いた卵、万能ねぎの緑がよく映えている。麵つゆから上がる白い湯気に含まれる出汁の香りに松島の口内で涎が溢れた。
「あなた、料理とかできたのね。意外」
「インスタントをそれっぽい見た目で提供することを料理と言っていいならそうだな」
「いただきます」
「熱いから気を付けろよ」
「ええ」
長い黒髪を耳に掛けて、彼女はその小さな口で少しずつ食事を進めていく。
食欲はそれなりにあるようで安心した。もっとボロボロになっていると思っていたのでほっとした。
しばらく無言の時間が続き……松島がうどんをほぼ完食したタイミングで青葉は口を開く。
「いつからだ?」
「……なにがよ?」
脈絡なく切り出された言葉に松島は眉を潜める。
「分かり切ってるくせに誤魔化すなよ……夏休みの前からだな?」
「……ええ」
松島に対する嫌がらせ。露骨に表面化したのは夏休みが明けてからだが。
その前から松島の様子は少しおかしかった。時折、妙に疲れたような表情を浮かべていたのを思い出す。
アレは――期末テストが終わった辺りからだったか。
「そうね……」
トイレに入っていると扉をいきなり強く叩かれ驚かされる。下駄箱にゴミを入れられる。人の溢れる廊下を歩いている時に、急に背中を押されて転ばされる。振り向いても、人ごみに紛れられて逃げられてしまったらしい。人気の場所を歩いている時に、後ろから丸めた粘着テープを投げつけらるといったこともあったようだ。
ひとつひとつは些細な出来事だが、それがいくつも積み重なってストレスになっていったという。
期末の辺りから、松島が時折みょうに疲れた表情を見せていたのはそのせいだったのだ。もっと早く気付いていれば、事が大きくなる前に対処できたかもしれない。青葉は小さな後悔に苛まれた。
「いつもうまい具合に逃げられてしまって……でもそういう嫌がらせって、こっちが反応すると向こうもつけ上がるから、あえて無視を決め込んでたんだけど……」
「より過激になっていったと」
「そういうことね」
松島は小さく「くだらない」と吐き捨てて、机に突っ伏す。
はぁ、と苦し気に吐き出された吐息に、青葉は話題を変える。
「お前、風邪薬持ってんの?」
「……切らしてる。入学してから風邪なんて引いたことなかったから」
「じゃ買ってくるわ」
「いいわよ」
「そのままだと辛いだろ」
「大丈夫よ。寝て起きれば治ってるわ」
「適当なことやって治りが遅くなると執筆作業できなくなるぞ」
「……そういえば人の作品に妙なコメント書いてくれてたわね。何様よあなた」
「青葉様」
「そういうのいらない……はぁ~……分かった。お金出すから、買ってきて」
「了解。鍵掛けとけよ」
「鍵も貸すから閉めて出ていって」
「随分と信用されたもんで」
「うるさい。いいから早く買ってきて」
松島から風邪薬の代金と部屋の鍵を預かり薬局へ向かう。二十分後。アパートに帰ってきた青葉は松島に風邪薬を渡し、ついでに自腹で買ってきたレトルト食品を袋のまま手渡した。
「電子レンジで温めればいいやつ買ってきた。とりあえずそれ食って明日も薬飲めよ」
「そうね、ありがと。あぁ、お金……あっ……」
松島は財布を取り出して中身を確認する。しかし「ごめんなさい」と少し申し訳なさそうに「手持ちがちょっと。すぐに引き落として」と立ち上がろうとする。
「ないなら後でいい」
「……分かった」
本当に今日の松島は随分と素直だ。風邪で弱っているのもあるのだろうが。
「ああ、そうだ。これ、進路希望調査のプリント。提出は今週末までだってよ」
「ええ、ありがとう」
「学校、くんの?」
「行くわよ」
「そ」
「何か?」
「別に」
そこで、少しだけ会話に間が空く。が、松島はクッションを抱きながらぼそりと呟く。
「言っておくけど、あの程度のことなんとも思ってないわ。むしろいじめというリアルに過酷な状況を身をもって取材できて僥倖よ。でも水を被りすぎたのかしらね。まさか風邪を引かされるなんて。それだけは誤算だったわ」
「はいはい。なら早いとこ治して次の話を書いてくれ。
「言われなくても風邪が治ったら書くわよ」
「期待してる。あと、早いとこ俺への講義も再開してくれると嬉しい」
無遠慮に、それこそ切り込むべきではない話題に踏み込んで励ますどころか「話を書け」、「小説の書き方を早く指南しろ」と催促する青葉。
しかしそれに気を悪くした様子は松島にはなく。ただただいつもの仏頂面をマスクの奥に見せて「善処するわ」とだけ口にした。
「じゃ、俺帰るわ」
「ええさっさと帰りなさいあと5分も居座ったら通報してやるわ」
スチャ、とスマホを取り出して液晶画面に110の表示を青葉に見せてくる。
青葉はその様子にふっと口元を緩めて立ちあがり、荷物をまとめて玄関の方へと向かう。
彼女の過去のこともある。今回のことでもっと厭世的になっているのではと危惧したが。どうやらそこは杞憂で終わってくれたようでホッとした。
靴を履いてノブに手を掛けたところで、不意に背後から声が掛かる。
「……今日は、ありがと……」と、今にも消え入りそうなほどの小さな声で紡がれる謝意の気持ちを、青葉は耳で拾った。
ほんの少し振り返ると、松島は青葉の方を見てはいなかった。締め切られたカーテンの隙間から覗く窓の外に視線を向けている。
しかしながら、ほんの少しだけ彼女の耳もとが赤くなっていたのは、風邪を引いているせいだけだったのか。
それは誰にも、松島本人にすら分からなかった――
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