第30話『悪意の在り方』

 粘土を混ぜ込んだかのような重苦しい空気が教室内を満たすのにそう時間は掛からなかった。


 松島の存在は悪い意味で浮き上がっていた。息を潜めていた影の中から無理やり人目のある場所に引き摺り出されてしまったのだ。

 事情を訊こうと青葉は松島にラインを送るも返事はなく。

 事態は執筆の講義を受けるどころではなくなっていた。


 しかし、松島はどれだけ嫌がらせを受けようとも淡々と学校に通い続けた。痛ましい姿に誰もが目を背ける中、一人の女生徒が松島の座る席に歩み寄る。


「そんな状態でよく学校に来れんな。さすがに感心してきたわ」


 村田である。いつもの取り巻きたちも松島を囲んでいた。


「なにか用かしら?」

「あ?」


 赤くダサイフレームの眼鏡の奥から感情の見えない瞳が村田に向けられる。

 今の松島は上下ともにジャージ姿。しかし所々に切り裂かれた跡があり、一部は下着すら見えてしまいかねないほど危うい箇所にまで無惨なスリットが入っている。安全ピンで無理やりつなぎ合わせているが。


 それでも彼女の姿があまりにも痛々しい事に変わりはない。少しでも力が加われば惨事は免れないだろう。


「そのすまし顔見てっとすげぇムカつく。あんたみたいなの、いじめられて当然だわ」

「わざわざそんなことを言いに来たの? あるいは心配でもしてくれているのかしら? なら大丈夫よ。あなたが気にすることじゃないわ」

「ちっ……ああっ、そうかよっ!」

「っ!」


 村田が机を蹴り松島は机と椅子に挟まれて小さく声を上げた。

 村田は目つき鋭く松島を睨みつけると舌打ちをして彼女の席から離れていく。

 と、なぜかそのまま村田は青葉の席の方に近付いてきて、


「あんたさ、あいつと親しんでしょ? 助けてあげようとか思わないわけ?」


「はい? なに言ってんの?」と青葉は首を傾げるが、村田はニッと口角を持ち上げて机に肘を着くと青葉だけに聞こえるように小さく声を掛けてくる。


「アタシさ、あんたとあの根暗女が一緒にいるとこちょいちょい見かけてたんだよねぇ。二人してコソコソしてさぁ……なに? あんたらってそういう関係なわけ?」

「いや、ただのクラスメイト」


 青葉は素知らぬ顔で惚けて見せた。

 しかし村田は嫌味ったらしい笑みを引っ込めることなく、尚も青葉に絡んでくる。


「まぁおたくらがデキてようがそうじゃなかろうがどうでもいいんだけどさ。アタシ的には、あんたの知り合いがああして悲惨な目にあってざまぁって感じだわ」

「…………」

「アタシさぁ、なんで泉があんたみたいなのともよろしくやってるのか理解できないんだよねぇ……まぁあいつってさ。いい奴じゃん? 相手を選ばないってかさ。でもさぁ、アタシ的にはやっぱイライラするんだよねぇ。日陰にいるくせに取り入るみたいにくっついていく奴って」

「何が言いたいんだ?」

「陰キャは陰キャらしく日陰に引っ込んでろってこと。日向に出てくんな、キモイんだよ。目障りなんだよ」


 村田は立ち上がって机の脚を蹴飛ばす。


「ほんとウザい」


 情緒不安定か、と突っ込んでやりたくなる。だが、さすがに今ここでそれは空気をブレイクするだけだと自嘲した。


「まぁでもいい気味よね? あんたと親しくしてたあの根暗女が痛めつけられてさ。ねぇどんな気分? 苛立つ? それともおっかない? 次は自分じゃないかってさ。まぁどっちでもいいけど。マジでざまぁだわ」


 それだけ言い残して村田は青葉の前から取り巻きを引きつれて去っていった。

 それと入れ替わるように、表情を険しくした泉が青葉の前に駆け寄ってくる。


「おい大丈夫かよ。村田の奴すげぇイライラしてるみてぇだったけど。あいつ夏休み前のことまだ引き摺ってやがんのか?」

「さぁ、どうだろうな」


 ボウリングで負けたことがそこまで彼女のプライドを傷つけたのかだろうか。それで青葉や松島に当たり散らしているのかはさすがに分からないが無関係ということはなさそうだ。


「根っこはそう悪い奴でもねぇんだが……つっても一度キレると面倒なんだよなぁ、あいつ。もしお前に変にちょっかい出してくるようなら、俺から釘刺しとくか?」


 クラスの中で唯一村田が耳を貸すのはこの泉の言葉くらいなものだ。

 彼女も泉と言葉を交わしている時は比較的大人しい。有体に言ってしまえば、『そういうこと』なのかもしれないが。


「いいよ。俺はなにもされてない。されてるのはむしろ……」

「ああ、松島か。あれも村田の奴が関係してんのかねぇ。そこまでするような奴だとは思ってなかったんだけどなぁ……」


 このクラスでは他人を攻撃するほど気性が荒いのは男子ではなくむしろ女子の方が多い。

 村田はその筆頭格だと言えた。言葉遣いも荒っぽく言動が派手でとにかく他人を自分の土俵に巻き込むのがうまい。一種のカリスマ性というヤツだ。


 しかし反面、他者を自分の色に染めねば気が済まない独善的な面も見られ、気に入らないことがあれば他者を攻撃することをいとわない。それは自分という立場が確実に所属するクラス、あるいは『仲良し』グループという枠組みの中で上位に位置しているという、確かな自信からくる優位性を自覚しているからこその攻撃性。


 彼女は誰かが自分に歯向かってくるなどとは考えず、敵対すれば徹底的に排除しようとする。


「なんにせよ、ちとやりすぎだな」


 泉が言いながら松島の方を見やり、青葉も一緒に振り向くように彼女の方へと視線を移す。

 松島はなにをするわけでもなく机に腰掛けている。ボロボロのジャージ。近くの席に座っていた女生徒が「制服、どうしたの?」と問い掛けても「別に」とそっけなく答え、また別の生徒が「私のジャージでよければ貸そうか?」と気を遣っても、「私に貸すのはやめておいた方がいいわ」と拒絶する。


 しかしここまで露骨な姿を見せているというのに教師陣が特に動きを見せる様子はない。

 むしろ触らぬ神に祟りなしと言わんばかりだ。なぁなぁでやり過ごそうとしている空気が嫌でも感じられる。

 逆に、乱れた服装の松島を非難の目で見つめて「気を付けるように」などとのたまう有様だ。

 事態を把握する努力も見せずただその場限りで「自分は対処しています」というポーズを見せるだけ。ともすればいじめを行っている誰かより悪質と言えるだろう。


 しかもその問題の帰結を松島に求めているのだから余計に始末が悪い。

 クラスの空気は新学期が始まって早々、最悪の色と形で辺りを漂い始めていた……


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「くさっ!」


 あくる日も、松島は頭から水滴を滴らせて教室に現れた。しかも、鼻を刺激する悪臭を漂わせて。まるで黒く溜まった埃から漂ってくるカビ臭さに似たツンとした臭気。


 周りのクラスメイトたちが鼻を押さえながら顔を顰め、村田はそんな松島を取り巻きと見つめてせせら笑う。

 松島の机は罵詈雑言が油性ペンで書きなぐられ、もはや元々の色が判別困難なほどだ。机だけではない。誹謗中傷の悪意は椅子にも及び、もはや彼女の椅子と机は真っ黒と形容してもいいほどに変貌していた。


 それでも松島はおもむろに椅子を引いて腰掛ける。まるで何事もないかのようにただただ黙って授業の開始を待っていた。


 次の授業はクラス担任が担当する教科だ。

 しかし授業のはじめ、教室に入ってきた教師は松島の机を見て渋面を浮かべ、あろうことか、「机が汚すぎる。きちんと綺麗にしておくように」などと、的外れな言葉を放つ有様だ。

 

 幾人の生徒がさすがにその言葉に眉を潜めたようだが、それ以上のアクションを起こす者はいなかった。腐っても相手は教師。反発する事のリスクを起こすほどに反骨心を持った人間はこのクラスにはいない。

 しかし松島は、「分かりました」と頷き、今日まででいったい『何冊目』になるかも分からないノートを広げ、ズタズタにされた教科書を脇に授業を受けていく。


 事ここに来て、ようやくクラスメイト達は松島の異常性に気付き始める。

 なにをされても平然とし、何事もないかのように毎日のルーティンでもこなすように授業を受けて放課後に消える。


 そしてまた次の日、彼女の身にどんな陰湿な仕打ちが降りかかろうと、決して学校を休むことはない。始めこそ松島のことを心配していたクラスメイト達も、徐々に彼女から距離を取り……


 ついには「なんでまだ学校に来てるの?」という、無自覚の攻撃的な空気が教室中に渦巻き始めていた。


 青葉は横目に松島の様子を窺う。

 背筋を伸ばし、いじめの痕跡と共に授業を受ける彼女。

 

 何とかしようと思えば、できないこともない。青葉は、こういう時にどう動くべきであるかを、『よく知っていた』。うまくすればいじめを止めるだけでなく、その相手を徹底的に排除できる。報復できる。


 しかし、青葉は動かない。松島が助けを求めていないことを肌で感じるから。


 今はただ、黙って見守ることしかできない。


 もしも青葉が動くとすれば、その時は……

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