第16話:世界で一番、優しい声――。


 おそらく、周りからは高級マンションと呼ばれているであろう駅近の高層マンションの六階のとある一室。

 かつては毒親と住んでいた場所。今では両親の離婚と私を引き取った母親の海外勤務のおかげで、すっかり一人きりになることができた快適な空間。もちろん、前よりは遥かにマシな生活を送れているはずなのだが、それでも孤独なことには変わりない。


 誰からもありのままの自分を愛してもらえなかった。そして、そんな私をいつからか、自分自身が見放してしまっていた。


 こうなってしまった人間はいったい何を愛しているのか。答えは簡単――、


 他者から愛してもらえる自分だけを溺愛する。そして、徹底的にそこにしがみつこうとする。

 他人はおろか、自分のことさえ信じきれていない。でも相手にも未来にも期待だけはしてしまう。

 私はそうなってしまうことが……いや、に、ひどく恐怖を憶えている。


 私は雲里君に数えきれないほどの初めての感情というものを抱いた。


 恋も、

 愛も、

 信じる気持ちも、

 生きる気力も、


 ちゃんと抱いている……つもりでいた。それに気づいてからは、もっと怖くなった。

 こんな自分なんかに優しく接してくれる人、心の底から愛をくれる人がこの世界に存在してしまっている。


 あの時、倒れてしまった後に悪夢だと思っていた見ていた夢の中にも、確かには登場してくれて、私を信じて助けてくれていた。


 小学校のグラウンドで転んで泣き叫ぶ私をおぶって保健室まで連れて行ってくれた、仲良し度微妙な友達と呼ばせてもらうには少々おこがましいかもしれない同じクラスだった女の子。

 中学校の時、いじめと毒親で精神が病んでしまい、毎日保健室のベッドで寝ている私を静かにみまもってくれた保健室の先生。

 そして高校時代、いよいよ本当に逃げ場すらなくなって、この世界から消えようとした私を全力で抱きしめてくれた彼。


 他にも葉瀬君のご両親もそうだし、……そう言えば、高校二年のクラスに入ってからは、いじめをしてくる子も、私の性格や、人格否定してくる担任もいなくなっていた。みんな、私に対してどう接して良いのかわからない中、きっと、せめて遠くから優しく見守ることを選んでくれていたのだ。


 私はどうやら、微かながらも、幸せへと向かうレールとやらに乗ってしまっていたようだ。

 皮肉にも、今の今まで、こうして私の身体が悲鳴を上げて、私の精神を追い詰めるまで、そんなことにも気が付くことができなかった。


 こうしていると、ふとあの時、彼が私に掛けてくれた言葉を思い出す。


『日野は優しい子だよ』


 その声に私は心の中であの時も、こう答えていた。


 私が優しいわけないよ、葉瀬君。だって、いつも自分のことで精一杯で他人のことなんて、考えることが全くと言っていいほど、できてなかったんだから。


 そう、とっくの昔に答えは出ていたのだ。ただ、それをという存在に狂わされていただけの話だ。だから――、


 ――


 私はベランダから、地面を見下ろす。マンション前を走る自動車や人が豆粒のように小さく見える。流石にこの高さは学校の屋上と同様、飛び降りれば、絶対に助からない。


 私は息を思い切り吸ってゆっくりと目を閉じる。

 そして、

 今度はもう、誰も引き留めてくれる人はいない。

 ようやく、


 おそらく、この世界とお別れできることに、私の死んだ心は今、ようやく息を吹き返して、快感を覚えているに違いない。そう思っていたのに――、


『だから、明日もこの世界に、どうか居てくれないか……』


 時の流れが何故だか、ひどくゆっくりに感じる。


 最後の最後で、私を苦しめようとしているのは、私を救ってくれたはずの彼の声。


 せっかく、覚悟を決めたのにな。


 でも、この息が途切れる前にこれだけは叫んでおこう。もうこれ以降、この世界に、彼に、迷惑をかけることはないんだし。これくらい神様も許してくれるだろう。



 ようやく言えた。今度は、ボソボソ声じゃなくて、世界一、愛のこもった声で……と言っても、肝心の彼にこの声は届いているはずもないが――。


 ――、


「えっえっえっえっえっ!!!!ほ、本当ですか!!みにゃはしゃん……!!!!」


 聞きなじみの声がした。


 私が知っているこの世界で、一番、優しい声。

 大好きな声。


 でも最後に、気持ち悪いゲス豚声ボイスで、知らない女の名前を叫んでいるところだけは、大幅な減点をしなければならない。

 それにしても、これは死ぬ前に聞こえる幻聴なのだろうか?

 それとも――、


 私は、これまで


 すると、意識を向けた次の瞬間にはもう、今まで感じたことのないくらいの近い距離で私を覗き込むが、先程まで真っ暗な瞳を包み込んでいた。

 そして、私の心に一筋の光が差し込む。


「俺のラノベ主人公的なお姫様抱っこ、どうだった?点数つけるとしたら何点?……水葉」


 彼は、あの時、掛けてくれた言葉をもう一度私にくれた後、世界一優しい声で、まだ呼ばれたことのなかったもう一つの私の名を、救った命に吹きかけてくれていた。

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