第15話 肌色(4/4)
「おっと!見えない間に私は体を洗ってしまおうかな」
シャワーのノイズが、心地よくすべての情報を遮断する。幸せだ。今まで味わった事が無いくらい、いや、子供時代の一家団欒の時間以来の幸福だ。多くの人から羨ましがられる立場にあったが、評価されたのは数字だけだった。実際俺がそれを望んでいた。恋愛や結婚なんかも、成功の足枷になると思い本腰を入れられなかった。だから、誰も最後まで引き留める事は出来なかった。
――先輩は、孤独ですよね。
一生思い出したくなかった言葉が、再び俺の心を抉りに来る。それもこれも、俺の記憶を覗くために頭をかき回したマルキダエルのせいだ。俺もアイツみたいに、強制的にもたらされた新天地をバカンスと捉えれば良いのだろうか。
「瓶と異世界じゃ大きな違いだな……」
瓶はシファーに作ってもらった革のストラップで、今も首元に輝いている。本当に俺の声は聴いていないのか、興味が無いのか。マルキダエルは返事を返さない。
バカンス。新天地。新しい人生。
この世界での生き方も、今まで通りでやっていけるか。問題があるのは分かっているが、残念ながら、今の生き方を変えられる器用さも、スタミナも残っちゃいない。
「はい、これで髪の毛はおしまい!次は身体を洗っちゃうよ」
「助かるよ、ありがとう」
「お安い御用だよ」
目を開けると、ライラは身体を洗い終えてとっくに湯船につかっていた。「力仕事が必要そうなら言ってね」とだけ言って、タオルを顔に乗せてくつろいでいる。気持ちよさそうだ。どうも、湯船につかること自体は嫌いでは無いらしい。シファーの柔らかい手の感触から気をそらすようにライラをぼーっと見ていると、今朝の二人の話を思い出す。
「なぁシファー、ライラって落ち着く匂いがしないか?」
「いきなりすごい話を始めたね?!あんまり大きい声で言わない方が良いよ、それ……」
シファーは手を止めて椅子を引き寄せると、俺にぴったりくっついて耳打ちをする。きっとライラに聞かれないようにしたいのだろう。それを無意識に察して、思わず小声になる。
「体臭ってね、相性なんだって。良いなって思う人のは良い匂いに感じるし、合わない人のは臭く感じるみたい。私も実は、一度もライラの事臭いって思った事は無いんだよ」
「それじゃあ何で揉めてたんだ?」
「ざっと好き嫌いが半々だとしても、半分の人が臭く感じる匂いはマナー上良く無いよ。それを言うとライラは『相性が悪い人は私も嫌いだから、嫌な思いをさせておけばいい』って言うんだ。だから普段から言わないと」
――想像以上に、ライラは理屈っぽくて扱いづらい性格のようだ。常識的ゆえに調整役として苦労しているシファーに、こればかりは同情せざるを得ない。
「と言う事は、俺とライラは相性がいいのか?」
「真に受けるかはさておき、この理屈だとそうなるね!」
「俺とシファーはどうなんだ?」
「へっ?!」
「……悪い。気になっただけだ」
只の興味本位の返しが、意図せずシファーに好意を問う質問になってしまった。本当にそんなつもりは無いんだ。誤魔化そうと言い訳を考えるが、上手い返しが思いつかない。しかし、当のシファーは少し頬を紅潮させると、巻いた髪を持ち上げ、後ろを向いた。
「……嗅いで、みる?私の一番、濃ゆいところ」
一瞬、何が起こったか理解出来なかった。シファーは髪を持ち上げ、後ろを向いたままじっと横目でこちらの様子を窺っている。あらわになるうなじの横を、汗とも湿気とも取れる水滴が流れ落ち、背中を伝って胸元に巻いたタオルに吸い込まれていく。
――匂いを嗅いで、良い匂いに感じるかどうか確かめてみろ、って事か……
シファーは黙ったまま、そっと目をつむる。首の後ろは、たしか香水をつける場所として有名だ。体温が高く、その人の体臭と混ざり合うことで、より効力を発するらしい。そんな場所だから、よりその人の匂いを感じるには最適な筈だ。そこを嗅げと言う事だろう。唾を飲み込む。息を抑えるシファーの吐息が、ゆっくりと時を紡ぐ。
据え膳食わぬは何とやら、だな。
シファーの肩に身体を預け、首筋に鼻を寄せる。ゆっくりと、震える息を吸う。触れ合う肌が張り付いて、熱を帯びる。俺を手伝うせいでまだ洗えていない身体の、一日動いた少し酸っぱい匂いが、柑橘を感じさせる甘い爽やかさと共に鼻腔を満たす。嗅いだ事が無い香り。ライラのように懐かしさを感じたり、安心したりという事は無いにせよ、物凄く好みな香りだ。
「どう……だっ……た?」
慎重に身体を離すと、シファーは肩まで紅潮させていた。後ろをむいたまま、小さく震える声で感想を求めてくる。なんとも表現しがたい罪悪感と高揚感の入り混じる感情を胸に、精査する余裕もないそのままの言葉を返す。
「……今まで嗅いだ中で、一番好きな匂いだ」
「……ばかなのかな!」
照れ隠しのように怒るシファー。今までとは打って変わって雑に身体を洗い終えると、俺を湯船に押し込んでさっさと身体を洗い始めてしまった。
「……難しいよね。人間って」
そんな様子を察してか察しないでか、顔にタオルを乗せたまま、ライラはボソッと呟いた。
「アワド……どうしちゃったのアワド……魔女が……魔女……」
誰もが寝静まって、数時間が経過したころ。まばらな街灯の明かりを這うように、一人の女性がふらふらと夜を彷徨っていた。
「絶対魔女の仕業だわ……何で……何で誰も……」
女性の頬はすっかりこけ、その心労の大きさを物語っている。何日こうして歩いていたかも分からない。魔女災害は自然災害と同じ。本当に魔女の仕業だったとしても、誰にでも起こりえる事だ。同情は嫌というほど集まっても、人手や知恵は決して集まらない。中には、死体で帰ってこないだけマシだという者もいた。その方が心に区切りがつく。
夜の街は冷える。喉を刺す空気の冷たさに震えると、さらに一段階寒くなったように感じられた。
「ご婦人。なにかお困りかな?」
低い男の声。驚いて振り返ると、カビ臭いコートの似合う白髪の男が路地の壁にもたれかかっている。
「見るに、何かを探しているように見えるが」
「息子!息子なんですが、見つけたんです。見つけた……けど……」
「なるほど!そのためには、何を差し出す?」
「……差し出す?」
不意に寒気がして男に背を向ける。すると、振り返った先に男が膝をつき、こちらに手を差し出している。
「息子が見つかるなら、他の奴らはどうなったっていい?」
男が妖艶な声で囁きかける。禍々しいオーラ。胡散臭いなんて話じゃない。こんなオーラと理不尽を纏った存在に、女性は心当たりがあった。
――魔女!!
だが、気づいた時にはもう遅い。
「息子を探すのに協力もしてくれない、この街の奴らは滅んだ方がいい?」
男は瞬時に女性の背後に回り、耳元で囁く。冷汗がつたる。そんなの、そんなの、ダメに……いや……息子が見つかるなら、無事に帰ってきてくれるなら。
他の奴らなんてどうなったっていいか……。
「……は…い」
「そうだよねぇ!!そうだ、それが君の価値観だ」
男はさも嬉しそうに指を鳴らし、女性の正面に立つと。
女性に手を突き立て、その心臓を掴んだ。
「その価値観、完遂してみろ」
男の腕から黒い液体が溢れ、女性の心臓を覆う。その心臓から運ばれた血液が、身体を醜い姿に変えていく。
「さて……せいぜい頑張ってその価値観以外の奴を駆逐すると良い!」
男は満足そうに手を鳴らすと、伸びる街灯の陰に重なって消えた。
鎮まる夜に、不相応な獣の声が反響する。
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