第12話 肌色(1/4)
濃い霧が掛かっている。
俺は石畳を裸足で歩いていく。息が苦しい。何かに、誰かに会いたくて、とても大事な用事がある気がして急ぎ足で行く。しかし肝心の用事は、いくら首を捻っても思い出せない。
「何でそんなに急いで学校に行くの?」
「約束があるんだ」
幼い妹の声。ぼやけた視界がディティールを帯び、ひたひたとした足音が、舗装された道路を蹴る運動靴の音に変わる。家に置いてきたランドセルを背負っていた部分が、汗ばんで風に冷える。
「私と遊ぶより、だいじなこと」
「大事なことだ」
「そうなの」
「約束を破るのはダメな子だけなんだ」
後を追う妹の足音が徐々に遠ざかり、再び世界が濃い霧に包まれる。履いていた靴が革靴になり、ビニールの床が雨に滑る。
「お急ぎの用事ですか、部長」
「ああ、社運が掛かった契約なんだ」
「お父様のご危篤くらい休まれたら良いのに」
「社員の人生が掛かっている以上、私情を優先できない」
「そうですか……」
「それが責任者という物だよ」
息が切れる。足を前に前にと進める。何とも言えない焦りが、不安が、俺を急かし続けている。立ち止まる暇さえない。振り返る余裕もない。いつか認められる、いつか報われる。そんな淡い希望だけが、俺の暗い足元を照らしている。
「先輩は、孤独ですよね」
懐かしい声。左手を温かい手が握っている。革靴が再び運動靴になり、道は葉桜の並木に変わる。歩みを進めるたびに、学ランの襟が首元を擦る。
「いつも私を、みんなを置いて行っちゃう。何をそんなに急ぐんです?」
「期待を背負っているんだ。応えない訳にはいかない」
「多くを望まなければ、立ち止まる人生の方が幸せですよ」
「失望させたくないんだ。受けた恩は形にして返したい」
「また置いて行かれちゃいました」
繋いでいた手がするりと解け、隣を歩く足音が止まる。
「さようなら、先輩。その先に信じてる幸せ、きっと見つけて下さいね」
濃い霧がすべてを覆い隠す。それでも俺は歩き続ける。何かを成し遂げなければいけない。何かを成功させなければいけない。そうしないと、この世界に俺の居場所は無いと、ずっと信じ続けていた。
きっと初めから居場所はあったのだ。
――すべて捨てて来た。
上履きが擦れる音を立てながら、渡り廊下を歩く。そうだ、この先だ。この先に用事があるんだ。「理科準備室」と書かれた扉の前で歩みを止めると、一呼吸おいて木の引き戸を開ける。
「先生?」
返事は無い。
これが只の回想であるならば、ここで返事がある筈だ。
しかし今の理科準備室には、思い出には無かった物々しい雰囲気が広がっている。一つだけポツンと置かれた回転椅子に、見慣れた実験器具やポスター、展示物たちがごちゃ混ぜに宙に浮いている。
『気にしなくて良いですよ。無理やり入り込んだらブッ壊れちゃった、私が戻れば元通りのはずです』
椅子に座っていた、白衣を着た女性がくるりと振り返る。さらさらとした黒髪の内巻きセミロング。『おっと、これは私のじゃないや』と言ってぶかぶかの白衣を脱ぎ捨てると、彼女の小柄さが際立った。しかし、その小柄さと初々しい容姿に反して、重苦しいオーラを放っている。
『なーにが起こってるのか良くわからないと思うけど、それは私もです。どっから来たんだよ、見覚えがない景色ばかりじゃないですか』
彼女は粗野な丁寧語で話しかけてくる。その顔に見覚えは無いが……美人には間違いない。しかしその目は疑いなく人を完膚無きまでに見下しており、只者では無い雰囲気を醸し出している。そんな彼女は『ま、座んなよ』と言うなり、宙に浮いたパイプ椅子を一つこちらにあてがった。
『リアルな夢だなぁ……とか、そういうの良いんですよ。分かってんでしょ、只の夢じゃないって』
「ああ。お前の見た目に覚えは無いが、声には覚えがあるな」
思い出に浸っていた俺も、渋々重い口を開く。夢に落ちる直前まで、俺はサナと戦っていた。後半は、何者かの意志によって強制的に。
あの声は、間違いなくこいつの声と一致する。
『お、大正解です』
少女は悪戯な笑みを浮かべながら、席を立ってこちらに歩み寄る。座っている俺の鼻先を可愛らしい指でつんとつつくと、まるで椅子に磁石で吸い付けられているかのように身動きが取れなくなった。これが夢なら、別に悪い気はしない。が、相手が相手だ。なんせこいつは、自らの欲求の為だけにサナを殺そうとした。策あっての事なら理解できる。しかし長く大人をやってきたせいで、衝動や感情で動こうとする奴ほど信頼に値しない事を、身に染みる程理解していた。
「何のつもりだ、俺の体を乗っ取って戦うなんて」
『は?!お前じゃないですか、私の体を乗っ取って戦ってるのは……』
やれやれ、とでも言いたげに彼女は頭を抱える。
『まぁ良いや、自己紹介から始めません?こういう時は』
「……イサム。幕安、勇武だ。感づいているようだから言うが、もともとこの世界の人間じゃない」
『でしょうね。でしょうとも。っていうか全部見たから聞くことも無かったですね』
椅子から乗り出して足をばたつかせる彼女。一見して柔らかな雰囲気の女子という感じではあるが、その強力なオーラは隠しきれていない。良い方に捉えてもかなり強い魔術師の一人だろう。そして最悪な捉え方をすれば……。
「……魔女」
『ご明察!』
彼女は椅子から立ち上がると、踵をそろえてスカートの端を持ち、恭しく礼をする。
『最強の魔女こと、牡羊座のマルキダエル。以後お見知りおきを』
ニヤリとほほ笑んで、顔を上げるマルキダエル。その目は、今まで見た何よりも冷酷で、鋭利で、恐ろしいモノだった。
『さて……自己紹介も終わったところで。話し合いをしましょう』
再び腰を掛け、彼女は唐突に話を切り出した。話し合い?……何のだ?正直おれは魔女だって初見なわけだし、話に聞いていたよりよっぽど人間らしくて拍子抜けしているところだ。享楽のために人を殺そうとしたりしないなら、普通に友達とか後輩に居そうじゃないか。
――まぁ、危うさとはそういう日常と表裏一体で有るものなんだが。
「今までの状況からして、ボトル・レリックとかいう騎士になるアイテムがあって、俺が持ってるそれの落とし主がお前、って事だろ?」
『厳密にいえば違うけど、そう言う事で良いです』
「死んでるんじゃないのか」
『それは謎です』
マルキダエルは小首をかしげて上を向く。浮かぶ人体模型がちょうどマルキダエルを向いて、不覚にも目が合った彼女がビクッと椅子を揺らす。
『お前の記憶にも、何のヒントも無かった。ボトルの中に魂ごと封印されるなんて、前代未聞ですよ』
「そもそも、何でそんな目に」
『あーあー面倒臭い!!良いですか、私、好奇心は旺盛だけど物凄く面倒臭がりなんです。敵を知るなんて大義名分が無きゃ、会話なんてやってらんない。私が司会進行で行きましょう』
……敵を知る、か。
俺も人間ともなれば、やはり魔女である彼女からは敵視される訳だ。
『先ほどお前の体を乗っ取ったが、べつにお前を操ってどうこうしたいという訳じゃないんです。あくまで魔女の体が無いと自由にはなれないから、瓶の中から情報収集が出来ればそれでいい』
「何故わざわざそんな事を言うんだ?」
『質問ばっかし!馬鹿にも分かるように言うと、勝てると解ってする戦いは大っ嫌いなんです。騎士になって初めての戦いだから出てみたけど、私の欲を満たすものじゃない。時間の無駄です。情報収集とバカンスに専念するので、私には構わないで下さい。絶対に』
「バカンス?」
『そうです!!雑魚を狩る無味乾燥な戦いも、同じことの繰り返であるごはん調達もお休み!!私はここらで、お前がヒイヒイ言いながら戦う様でも観察しながら、ゆっくり過ごすことにするんです』
「魔女も大変なんだな……」
そう言った途端。
彼女が掴んだ駒込ピペットの先端が、俺の眼球に優しく触れた。
『同情?誰に向かって?誰が?馬鹿な真似は止めて下さい、お前なんて簡単に殺せるんだから』
俺は一瞬で理解した。彼女が俺に危害を加えない理由。それは、同情や利用なんかじゃない。ただ単に、無味乾燥な殺戮の内の一つとして面倒臭がられているだけなのだ。
きっと俺が扱いにくい人間だと思われれば、俺の意志を消してすべて操る事だって出来るんだろう。それが彼女の怠惰さという、不安定な性質だけで留保されている。由々しき事態だ。下手な刺激を避けて、共存の道を、いや、利用の道を探るのが無難かも知れない。
「済まなかった。邪魔はしない、絶対に」
『無論です。っていうかお前の声は私、無視しますから』
ゆっくりピペットを下げるマルキダエル。腹立たしげに席を立つと、右手を振り下ろして呟いた。
『コンタクト終了!!記憶は全部覗いたから、今回は私の言う事だけで終わりです。成果なしだが、また起きたら聞きます』
振り下ろす手と平行に、教室が消えて真っ白な世界が広がる。影が薄くなり、彼女の体も透き通って溶けるように消えていく。
『あ、忘れてました』
そういうと消えかけのマルキダエルは、俺の喉元に爪を突き立てる。
「痛てっ!」
『はい。これ、瓶を手放したら即死する呪いです。せいぜい運び手としての義務を果たし、瓶ごと封印されるなんて粗相を生まないで下さいね』
そう言い終わると同時に、彼女は消えていった。
白い世界の光が一層強くなったと思うと、瞼が開いて窓から差し込む夕日が見える。どうやら、起きる時が来たようだ。
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