≪隼人≫2
護は、しばらく黙っていた。怒ったような顔をしていた。
「聞いていいですか」
「いいよ。なに?」
「あなたは、いじめられてたんですか」
「それって、あの家に入ったばかりの頃の話?」
「そうです」
「そう……なんだろうな。メイド長と執事長の言いつけを守らないと、飯は食べられなかった」
「虐待ですよね。それ」
「昔の話だよ」
「でも、従ったんですよね。生きるために」
「そうだな」
「叩かれたり、したんですか」
「そこまで、バカじゃない。あとが残るようなことは、しない」
「残らないことは、されたんですか」
「言葉の暴力は、痕跡を残さない。そういうやつだよ」
護の顔に、激しい怒りがひらめくように表れるのを、感嘆とともに見つめていた。
「僕、今、気が狂いそうなくらいに、怒ってるんだけど」
「みたいだな」
「なんで、黙ってたんだよ! クビにしてやれば、よかっただろ!」
本気で怒ってるんだろう。敬語がなくなっていた。
これが、護の、裏でも表でもない、本当の姿なんだろう。
人のために、唇を噛みしめるくらいに、本気で怒れる子だった。
うちに来てくれたのが、護でよかったなと思った。
「……なんでだろうな。負けたくなかったのかな。
俺は、ずっと、ふつうの暮らしがしたかった。母さんを亡くして、施設で暮らすようになってからは、とくに……。
顔も知らない父さんと、母さんと、団地でいいから、もっとぼろい家でもいいから、ふつうに暮らせたら、どんなに幸せだろうかって。
養子になれると知った時は、嬉しかった。
俺には、新しい家族ができるんだと思った。お父さまも、お母さまも、やさしそうに見えた。
でも、違った。あの家の子供になってから、求められる役割を演じるだけの日々が始まった。
あれもだめ、これもだめ……。俺が望んだものは、なにひとつ叶わなかった。
ふつう木登りくらい、するだろ。子供なんだから。
執事長が飛んできて、『西園寺家のご令息としての自覚が足りませんね』って。わけが分からなかった。
外で遊ぼうとすると、家につれ戻された。
『お利口にしないと、施設に戻されてしまいますよ』っていう言葉は、メイド長から、うんざりするほど聞かされた。今思えば、戻ってもよかったんだよな。
俺が恐ろしいのはな、護。あの人たちは、よかれと思って、そうしていたかもしれないってことなんだ」
「ちがう。それは、しつけじゃないですよ。
いじめだし、虐待です」
「そうかもしれない。とにかく、俺がわきまえて、御曹司としての仮面を上手にかぶれるようになったら、あの二人も満足したみたいだった。
だけどな、それは……。本当の俺が死ぬっていうことと、同じだったんだよ」
護の顔が歪んだ。
にらむように俺を見る目から、ぼろぼろっと、涙が落ちていった。
俺のために、泣いてくれていた。
若いって、いいなあと思った。こんなふうに、素直に泣けるんだから。
「旦那さまたちは、気づかなかったんですか。あなたのことに。その、異常な生活に」
「とまどってはいたと思う。施設にいた頃の俺は、元気いっぱいだったし。
俺が変わっていくことに対して、がっかりしていたかもな。だけど、それなりの場に出ていくには、あの頃の俺のままじゃ、だめだったことは分かってたと思う。
テーブルマナーひとつとっても、努力なしに手に入るものはない。
メイド長と執事長は、俺にとっては、もう一組の両親みたいなもんだよ。
団地ぐらしの貧乏人の息子だった俺を、それなりに見られる御曹司に仕立てあげてくれた」
「僕は、許せないと思う。まちがってますか」
「間違ってはいないと思う。俺なんかのことで、泣かなくても……とは、思うけど」
「許したんですか。許せるんですか」
「何もかも、今さらだよなって、思うだけだ。
あの二人に謝ってもらいたいとも、思ってない」
「おひとよしですよ。あなたは」
護が吐き捨てるように言った。まだ、怒ってるみたいだった。
「俺のことより、そっちはどうなの。面接を受けたいと思えるようなバイト先は、見つかった?」
「まだです。バイトしなくても、いただいてるお給料で、じゅうぶん仕送りできるし……」
「でも、ひまなんだろ。俺は、家事を放棄するつもりはないし。
あれだ。いっそのこと、大学に行ったら」
「えっ……」
「お金がなくて、行けないんだったら、多少は出してやるから。全部は、無理でも」
「なっ、えっ? いいんですか?」
「いいよ。逆に、なんでだめだと思うの」
「いや、だって。僕、執事見習いですよ。仕事中です」
「同居人だよ。最初から、今まで」
「ですね……。
どうせ、大学には行けないだろうと思ってて。高三になってから、ぜんぜん勉強してないんですよ……」
「すればいいだろ。今から。
俺が教えても、いいし。ミャーも飯田も、護が頼めば教えてくれるよ」
「本気ですか?」
「俺は、冗談は言わない。知ってるだろ」
「はあ。それは、知ってますけど」
「バイト探しは、もういいから。大学のことを調べなさい」
笑ってみせてやった。御曹司の仮面をつけるのは、俺にとって、生きるために身につけた、武器みたいなものだった。
これだけのことで、護が安心できるなら、笑ってみせればいいと思った。本当の俺とは別人の、「西園寺隼人」を演じているだけなのかもしれない。それでも、いいと思った。
人のために笑うことは、人のために生きることと同じだ。
「あ、はい……」
護が、うるうるしはじめた。困ったなと思った。
「隼人さまは、やっぱり御曹司ですよ……」
「そうかな」
「キラッキラしてます」
「ごめん。それは、分からない」
「大学に受かったら、ここから通っていいんですか?」
「いいよ」
「やった。家賃は、なしですよね」
「今まで取ってないんだから、取るわけないだろ」
「うれしいです……。大学に入ったら、バイトします」
「うん。いいんじゃないの。それで」
「僕、がんばります」
「がんばって」
「顔を洗ってきます」
「どうぞ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます