6.貧乏性の御曹司、本当の自分を見つける

≪護≫1

 隼人さまは、シチューが好きらしい。市販のルーで作る、白いやつ。

 教わりながら料理をするようになったら、だんだん、うまくなってきた気がする。

 とくに、シチューだけは、やたらとうまくなった。

 実家に帰る時があったら、みんなに料理を作ってあげたい。きっと、みんなびっくりするだろう。

 休日には帰ると、実家を出る前に、紗恵には話していた気がする。実際には、父さんの見舞いに病院に行った以外は、家族に会わなかった。

 会ってしまうと、こっちに戻れなくなるような気がしていたのかもしれない。

 僕なりに、覚悟は決めていたみたいだった。

 隼人さまは、僕が実家に帰らないことを気にしているみたいだった。そろそろ、帰ってもいいかなと、思ってはいる。今なら、実家から戻れなくなるなんてことは、ないと思う。



 一昨日くらいから、のどの調子が悪かった。

 咳は出てない。熱っぽい感じは、ずっとしていた。

 今日は、とうとう、朝起きられなかった。スマホの時刻を見て、あー、もう十時なんだ、と思った。

 すごく、だるい。体を起こそうとしても、起きられないくらいには。

 こまったな……。隼人さまは、会社だろうし。

 ひとりで、病院に行けるだろうか。


「護」

 声が聞こえた。「ふえ?」と声が出た。

 ふすまを開けて、隼人さまが入ってきた。

「えっ?!」

「やっぱり、顔色が悪いな」

「……仕事、どうしたんですか」

「休んだ。『家族が倒れた』って、言って」

「そうですか……」

「大丈夫だよ。有休がたまってて、使わなきゃいけなかった。

 明日になっても治らなかったら、昼までに病院に行こう」

「は、い」

「実家の方がいい? あっちの家の車で、送れるけど」

「いいです。こちらで……。ごめいわくで、なければ」

「うん。じゃあ、ここで治すか」


 体温計を渡された。おっくうだったけど、なんとか脇の下に入れて、計った。

 体が熱い。それと、ぞくぞくっと悪寒がしていた。


「三十九度か。しんどいな」

「……はい」

「この風邪薬で治らなかったら、やっぱり病院だな」

「すみません」

「謝らなくていいよ。

 ここにいない方がいい?」

「いえ……。いて、ください」


 隼人さまが、壁に背中をつけて、畳の上に座った。

 もうろうとしたような頭で、ながめていた。

 イケメンだった。ルームウェアを着て、だらしないかっこうをしてても、どこか上品に見えた。


「どうして、自由じゃなくなったんですか」

「俺のこと?」

「そうです」

「施設から、養子にもらってもらったからだよ」

「そうじゃなくて……」

「施設に入るまでの、経緯が知りたい?」

「はい」

「……あんまり、聞いて楽しい話じゃないよ。とくに、体が弱ってる時には」

「いいです。聞かせてください」

 少し、間があった。

 隼人さまの頭が、ゆらっと動いた。それから、記憶をたぐりよせるように、遠い目になった。


「俺が、小学二年生の時だった。

 小学校から帰ったら、母さんが倒れてたんだよ」

「……は?」

「倒れて……。だから。つまり、亡くなってた」

「そうだったんですか」

「うん。

 あれだよ。人間って、感情が振りきれると、現実感がなくなるもんなんだな。

 泣くより先に、『警察に電話しなくちゃ』って。

 おかしいだろ。救急車じゃなくて、警察に電話したんだよ。まだ生きてるとは、思えなかったんだろうな。

 手や体が、冷たくなってた。……あの感触は、なんとも言えないな。たぶん、一生、忘れることはできないと思う」

 そうだったんだ、と思った。

「家出しようと思ったこと、ありました?」

「あるよ。何回もある。

 だけど……。子供がいないから、俺を養子にしたんだ。俺がいなくなったら、また、子供を探さなきゃいけなくなる。

 里親になるのは、それほど大変じゃないけど。他人の子を養子にするのは、大変なんだよ。

 財産目当ての、変なやつに来られても、困るし……」

「旦那さまと、奥さまのために、あの家に残ってるんですか」

「まあ……。そうだな。正直、財産には興味がない。

 三年経って、この生活が終わっても、この家は残しておきたいんだ。

 休日には、ここに来て、ミャーと飯田が遊びに来たら、三人で、バカみたいに遊んでいたい。

 それもだめだって言われたら、どうするかな……。家出でも、するか」

 うすく笑っていた。口ではそう言っても、この人は、逃げだしたりはしないんだろう。それは、わかった。


「おねがいが……」

「うん?」

「てを、つないでください」

「えっ……。うん」

「だめですか」

「いいんだけどさ。護が本当に手をつなぎたいのは、俺じゃなくて、お母さんとか、妹さんたちだろ」

「そう、ですけど。いまは、はやとさましか、いないんで」

「……そうだな」

 ため息が聞こえた。隼人さまが、猫みたいに這ってきて、僕のそばに座り直した。

 隼人さまが、僕の手を取った。冷たく感じた。

 びくっとした。僕じゃなくて、向こうが。

「どう、したんですか」

「あつい。救急車……」

「いいです。せきも、でてないし。ねつだけだから。

 あしたには、さがってますよ」

「だと、いいけど。熱いな。

 でも、いいか。冷たくて、かたくなってるよりは、ぜんぜん……」

 言葉が、とぎれた。

 ふしぎに思って、顔を上げた。びっくりした。

 隼人さまが、泣いていた。

 きれいな顔は、ゆがんではいなかった。ただ、透明な涙が、いい形の目から、あとから、あとから、あふれてくるのが見えた。

 この人は、こんなふうに泣くんだな、と思った。真顔で。声も上げずに。

「ぼくのせいですか」

「そうじゃないよ。……あの時。ほんとは、警察なんか呼ばないで、ずっと、母さんの手を、にぎっていたかったんだろうなと、思って」

「しなないですよ。ぼくは」

「当たり前だ。死なれるわけにはいかない」

「なんで、ですか」

「同居人がいなくなる。まずい料理を、作ってもらえなくなる」

「まずかったですか」

「うん……。ごめん。

 護は味覚障害かもしれない。治療をした方がいいと思う。治療費は、俺が出すから」

「なにげに、ひどいこといいますね……」

「ごめん。今しか、言えないような気がして」

「そういうこと、もっと、はやくいってくださいよ。

 ねこには、いわれたけど……」

「言いづらかったんだよ。一生懸命やってくれてるのは、分かってたから」

 なんだ。わかってたんだ。

 わかってたから、言わないでいてくれたんだ。ずっと。

「しんけんに、つくってました」

「うん」

「手。もう、いいです」

「分かった」

 大きな手が、離れていった。

 隼人さまが、ティッシュの箱からティッシュを出して、目を拭くのが見えた。鼻もかんでいた。ほとんど、音も立てずに。

 そういうふうに、しつけられたんだ。きっと。そして、それを、身につけてしまった。

 かわいい人だなあ、と思った。



 遅い時間に、猫とメガネが見舞いに来た。呼んでないのに。


「ポカリとか、買ってきたよ」

「ありがとうな。ミャー」

「いいってことよ」

 訂正する。隼人さまが頼んだみたいだった。


 猫が、僕の枕もとににじりよってきた。

 猫みたいに、笑っていた。でももう、いらっとはしなかった。

「執事くん。しんどそうだな」

「しんどいですよ」

「ちゃんと、治るから。心配すんなって」

「はあ……。いろいろ、買ってきてもらったみたいで。

 ありがとうございます」

「いいってことよ」

 猫が、ふふっと笑う。僕は、つっこまなかった。

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