≪隼人≫3

 月曜は、朝食だけ用意して、仕事に行った。

 護の分の食費として、一万円だけ封筒に入れて、渡した。「冷蔵庫にあるもので足りなかったら、この中から出して」と伝えた。不思議そうな顔をしていた。


 仕事は、楽しい。

 テレビでCMが流れたりもする、有名な旅行会社に就職できた。

 入社した時から、広報課にいる。

 就職するまでには、両親と何度も話し合いをした。

 就職する必要はない、と言われた。俺が稼ぐ給料は、西園寺家の財産と比べてしまえば、ほんのわずかなものだとも。そんなもののために、身を粉にして働く必要はない……。

 がっかりした。

 俺が通っていた大学には、奨学金を借りて勉強している人がいっぱいいた。みんな、卒業したら、当然のように就職すると考えている人たちだった。

 自分を育てた環境が、浴びせられるようにして与えられる贅沢なものたちが、ひどくやましいもののように思えた。



 昼休みになった。

 社員食堂で昼食をとってから、いきつけのスーパーでもらってきたチラシのチェックを始めた。

 ナスが、いつもよりも少し安い。五本で140円だった。

 牛乳は、一本158円……。興奮した。

「西園寺くん。となり、いい?」

「いいよ。どうぞ」

 同期の宮田さんが、テーブルに、カレーライスが載ったトレイを置いた。

 俺の右にある椅子を引いて座る。額に汗をかいていた。

「外回り?」

「うん。どうして、わかったの?」

「汗かいてる」

「やだ……。お昼の時間、終わっちゃうと思って。急いでたの」

「まだ大丈夫だよ。十五分ある」

「うん。いただきます」

 カレーライスを食べはじめた。食べながら、俺の手にあるチラシを気にするそぶりをした。

「なにしてるの? それ、スーパーのチラシ?」

「うん。特売のをチェックしてる」

「えー。そんなこと、するの? イメージ、なかった」

「するよ。俺、一人暮らししてるんだよ」

「知らなかった。いつから?」

「今月」

「うちは、お給料はいい方だと思うけど……。一人だと、いろいろ大変じゃない?」

「まあ、それは。でも、したかったから」

「そうなんだ……」

 宮田さんは、感心したような顔をしていた。

「宮田さんは、実家だっけ」

「うん。大学の時も……。やばいかな」

「やばくはないと思う。俺も、そうだったし」

「家事とか、するの?」

「もちろん」

「すごーい。あたし、やばいかも……」


 食堂を出ようとしたところで、工藤さんに呼びとめられた。

 同じ課の先輩だ。入社したばかりの頃から、妙にきつく当たってくるなという印象がある人だった。

「一人暮らしを始めたんだって?」

「はい。今月から」

 聞かれてたのか、と思った。面倒くさいな、とも。

「実家から、通えるんだよな?」

「そうなんですけど。家を出て、自由に暮らしてみたかったんです」

「今さら、モラトリアムかよ」

 鼻で笑われた。なにを言ってるんだろうと思った。

 今さらどころか、ようやくだ。念願の一人暮らしだ。

 礼儀正しい後輩の仮面を、よいしょっと気合いを入れて、被り直した。不機嫌そうに見られるのは、まずい。

「本当は、大学の時に一人暮らしがしたかったんですよ。家の都合で、それは叶わなかったんで」

「ふーん? 家から出たかったのに、出られなかったのか。

 貧乏だったとか?」

「そうです。貧乏でした。うちは」

「西園寺の名字は、立派だよな。てっきり、お金持ちの家の子かと思ってた」

「名前だけですよ」

 工藤に向かって、笑ってみせた。

 不意に、頭をはたかれた。強い力だった。驚いた。

「……なんですか」

「蚊がいたんだよ」

 笑う顔を、卑しいと思ってしまった。

 軽蔑の色が、俺の表情に滲んでしまったかもしれない。

 目が合った。相手の方が、先にそらした。

 遠くの方で、ざわめくような気配を感じた。やばいと思って、会釈して、その場を離れた。


 昼のことは忘れるようにして、午後の仕事を始めた。

 連絡しないといけない顧客が、何人かいるはずだった。

 仕事用の手帳を広げたところで、肩を叩かれた。

「間宮?」

 同期の間宮だった。

「西園寺。社長が、来いって」

「え……」

 思いがけないことを言われた。……いや、違う。予想はしていた。

 ざわついているのは、分かっていた。

 入社二年目になったばかりの社員が、三年上の先輩にかわいがられたぐらいで、ああいう反応は起きない……はずだ。

「お前、なにやったんだよ。大丈夫か?」

「分からない。行ってくる」

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