≪護≫5

 家に戻った。

 ゼラニウムの鉢とスコップは、土間玄関に置いておくことにした。

 廊下のあたりから、いい匂いがした。味噌汁の匂いだった。

「えっ……」

 小走りになって、居間まで急いだ。

 居間の奥にある台所に、隼人さまがいるのが見えた。

「おかえり。護くん」

「た、ただいま?」

「ごはん、できてるから」

 聞きまちがいかと思った。


 台所の正方形のテーブルに、お茶碗とお皿が並んだ。

 ごはんは、湯気が立っていた。ほかほかのごはんだった。炊いたのか? この人が?

 味噌汁には、たまねぎとじゃがいもが入ってるみたいだった。

 きれいに揚がったとんかつが、きざんだキャベツといっしょに、丸い皿に乗せられていた。

 なんだ。これ。

「座って。食べよう」

「あ、ありがとうございます……。いただきます」

 

 一口食べて、うわーっとなった。

 母さんのと、同じような味がした。もちろん、西園寺家で出されたような食事とはちがう。

 でも、あったかかった。ふつうにおいしい。

「どう?」

「……おいしいです」

「よかった」

 そっけない返事だった。隼人さまは、僕の正面で、とんかつを口に運んでいる。箸の持ち方がきれいだった。


 食後は、紙パックのお茶が出てきた。緑茶だった。

「飲める?」

「飲めるけど、麦茶の方が好きです」

「そうか。わかった」

 うなずいてから、僕をじっと見た。

 深い色の目、というのか……。吸いこまれそうな目をしていた。

 黒目の部分が大きくて、まつげが長い。

「ちゃんと話さないと、フェアじゃないよな」

 ひとりごとみたいな、小さな声だった。

「なんですか……?」

「悪いんだけど、俺は、ここで自由に暮らすために引っ越してきたんだ。

 自分のことは、自分でやるから。君も、好きなように過ごしてくれればいい」

「はい?」

 なにを言われたのか、よくわからなかった。

 好きなように過ごせって? 僕は、執事見習いなんですけど?

「君のことを、執事見習いとは思ってないってこと」

「はあ……?」

「つまり、あれだ。同居人だな」

 混乱した。メイド長の松本さんから言われたことと、あまりにも、ちがっていて。

「僕は、隼人さまの希望で、こちらに呼ばれたんだと……」

「ごめん。きっと、誤解がある」

「誤解?」

「俺は、誰もいらなかった。むしろ、いてほしくない、というか……。

 お母さまが、どうしても人を入れてほしいって。俺が心配だからって。

 だから、執事じゃなくて、執事見習いがいいと言った。とにかく、若い人がよかった。年配の人は、こっちが気を使うし、好きなようにしててくれとも、言いにくいと思ったから。

 つまり、君を個人的に希望したわけじゃない。たぶん、君が若かったから……」

「おっしゃってることが、よく、わからないんですけど……。

 僕は、面接した日に、あっさり採用されたんですよ。

 質疑応答とかも、ほとんどなかったです。

 なんで受かったんだろうって、不思議なくらいでした」

「面接は、いつだった?」

「去年の秋です」

「なるほど。俺が家を出ると言ったのは、去年の夏だ。

 面接の時点で、俺のところに、君を行かせようという意図があったんだと思う」

 ……なんだ、それ。

 いらっとした。

 僕の知らないところで、僕のことを勝手に決められていたことに、怒りを感じた。

「面接の時に、言ってほしかったですよ。そうしたら、そういう心がまえで、来られたのに」

「そうだよな。ごめん」

 眉を寄せて、頭を下げてきた。あせった。

 なんで、この人が謝るんだろう。

「隼人さまは、悪くないです。たぶん……」

「でも、うちの家のことだから」

「あの。好きなように過ごすって、どういうことですか」

「家事は、しなくていいってこと。自分の洗濯くらいは、自分でしてほしいけど」

「えぇーっ。料理も、しなくていいんですか?」

「俺の料理は、まずくはないつもりだし。この程度の料理で、不満がないなら」

「おいしいですよ。それは、いいんですけど……。

 そもそも、隼人さまは、日中はどう過ごされるんですか?」

 実は、この時まで、僕は、隼人さまを社会人とは思っていなかった。

 ありあまるお金を持ってる人は、働かずに生きられる。この人も、当然、そうしてるんだろうと思っていた。

「逆に、聞きたいな。どうしてると思う?」

「この家に、いらっしゃるんだと……。ちがうんですか」

「違う。働いてる。会社員だよ。ただの」

「えーっ?!」

「そんなに、驚くこと?」

「だって、お金は、いっぱいあるんですよね? 働く必要なんか、ありますか?」

 隼人さまが、僕をまじまじと見た。あきれられてるような感じがした。

「あるよ。働かなきゃ、生きていけないだろ。誰だって」

「そうですけど……」

「護くんは、十八才だよな」

「はい」

「俺は二十三」

 五つも上なのか。もっと、近いかと思っていた。

「生活のことは、二人で相談しあって、決めていこう。

 俺のことは、『隼人』でいいから。君のことは、『護』って呼ぶよ」

「はあ……」

 やばい。なにもかもが、僕の想像をはるかに超えてる。


「ひとつだけ、いいですか」

「うん。なに?」

「花を、買ってきました。花屋さんで」

 ぶっと、ふきだした。僕じゃなくて、隼人さまが。

「なに、なんで?」

「きれいだったし……。多年草だから、植えておけば、毎年咲くって」

「いいけど……。うちの庭が、殺風景すぎたから?」

「まあ、……はい。僕が植えるんで、植えてもいいですか?」

「いいよ。ありがとう。気を使ってくれて」

 両側の唇のはしが、持ち上がった。昨日よりも、わかりやすく笑ってくれた。

「なんていう花?」

「ゼラニウムです」

「『尊敬』と『信頼』か」

「なんですか? それ」

「ゼラニウムの花言葉」

「……詳しいんですね」

「たまたま知ってただけ。おいで。植えに行こう」

 さっと椅子から立ち上がって、歩きだした。

 その姿には、気品みたいなものが……ちがう、たしかな気品があった。

 昨日見た御曹司の隼人さまと、今の隼人さまが、一瞬だけ、重なったような気がした。

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