≪隼人≫1

「自由になりたい。三年だけ、僕に時間をくれませんか」


 去年の夏に、はじめて、泣きごとを言った。

 文字どおりの泣きごとだ。こう言った時の俺は、泣いていたから。

 両親は、がっかりしていたと思う。それでも、文句のひとつも言わずに、俺の願いを叶えてくれた。

 ここまで育ててもらったことに対しては、感謝しかない。

 両親のことが、嫌いになったわけじゃない。尊敬しているし、愛してもいる。

 だけど、もう限界だった。

 生きるか、死ぬかの瀬戸際まで、心が壊れかけている。そのことだけは、分かっていた。

 大学を出て、就職してからも、俺なりに頑張ってきたつもりではいた。頑張りすぎてしまったのかもしれない。

 いつの頃からか、死ぬことばかり考えるようになっていた。


 ひとりで準備をした。

 物件を探して、買った。購入資金は、自分の給料で貯めた金から出した。

 なにもかも、自分の力でやりたかった。

 今年の春から、俺が買った家に住めることになった。



 今日、自転車を買った。

 ロード用とかでもなくて、ふっつーの、ママチャリみたいなシティサイクル。

 カゴは、前後につけてもらった。これで、買い物がぐんと楽になるはずだ。

 帰り道は、さっそく乗っていくことにした。

 少し進んだだけで、泣きそうになった。

 久しぶりすぎて、よろけそうになる。危ないところだった。

 強い風が、前から吹きついてきて、伸びかけてきた髪を揺らした。

 ……これが、自由だ。

 この感覚を、もう、すっかり忘れかけてた。


「やばい」


 目から、涙が出ていた。頬をすべり落ちていく。

 涙を風が冷やした。

 風だ。自由の風が吹いていた。

 夕暮れの、下半分だけ赤に染まった空が、ものすごくきれいに見えた。

 世界は美しいんだと、本心から思えた。


 自転車を土手に止めて、下を眺めた。野球をしてる人たちがいた。少年野球かもしれない。

 スポーツは、テニス以外は禁止されていた。

 草野球のチームでも、探すか。サッカーも、いいな。

 もう、なんでもできる。誰かに叱られたり、嫌味を言われたりもしない。


 俺は、自由になったんだ……。

 笑いが出てきた。笑いながら、泣いていた。



 これから、三年間住むはずの家に着いた。

 自転車は、玄関の前の空間に置いた。

 まだ、あちこち埃をかぶっていて、お世辞にもきれいとは言えない。

 でも、嬉しかった。とにかく、俺は格安の中古物件とはいえ、家を買って、これから、ここで暮らせるんだと思うと、喜びしかなかった。


「はーやとー」

 見慣れた自転車が、すうっと、歩道から敷地の中に入ってきた。赤いジャンパーを着こんで、もこもこした感じのミャーだ。

「ミャー。わざわざ、来てくれたのか」

「うん。引っ越し、明日だよね。飯田いいだちゃんから、聞いたよ」

「飯田と二人だけで、するつもりだった。ミャーも、手伝ってくれるのか」

「いいよ。今日から、こっちに泊まるんでしょ。弁当、買ってきたから」

「助かる。ありがとうな」

「いいってことよ」

 鼻の頭を赤くしたミャーは、満足そうに笑った。

 ミャーは、本当は三宅みやけという名前だ。「三宅って、呼びにくいな」という話になった時に、「じゃあ、『ミャー』でいいよ」と本人が言って、それから、本当にミャーになった。

「さっむい。四月って、こんなに、さむかったっけ?」

「日が落ちたからだろ。

 泊まってく? まだ、なにもないけど」

「いいの? いちおう、下着とかは、持ってきたよ」

「なんだ。泊まる気だったのか」

「隼人が、さびしいんじゃないかと思って。泣いたんでしょ」

 涙は、もう出ていないのに。ばれていたらしい。

「まあ、うん。泣いた。感動して」

「ほんと、あれだよね。純粋っていうか……。

 やったじゃん。この家が、隼人の夢の結晶なんだね」

「うん。長かった。ここまで……」

「わかった。わかったから、はやく、中に入れてよ。まじで、さむい」

「ごめん」

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