人間の持つ飽き性という性質の効果は、緩慢だが強力だ。些細なことから深刻なことまで、あらゆる興味の対象を、過ぎゆく時間に流して記憶の水底に沈めてしまう。好きな音楽や料理のレシピから、社会を揺るがす大事件、果ては身近な人間の死までもが、同じまな板の上で切り刻まれ、ひとしきりつまみ食いをされた挙句、最後には仲良くダストシュートに捨てられる。

 佐和子の死が俺に与えた影響は決して小さいものではなかったが、それによって変化した俺の内面だけを残して、いずれ佐和子の死そのものが持つ輪郭は曖昧になり、ぼやけて消えてしまうのだろう。

 そして、あれだけ鮮烈な衝撃とともに迎えられた悪魔のアプリもまた、緩やかな日常の中で薄められ、今では起動されることも稀になっていた。しかし俺の頭からそれが完全に消えてしまわなかったのは、ひとえにあの女の存在が大きい。


 女は何者なのか。

 どこから来たのか。

 そして去り際に残した言葉の意味は。


 近所の小汚い中華料理屋で、一番安いメニューの中華丼を腹に収めた俺は、くすんだ窓ガラスの向こうにある、退屈な休日の風景を眺めていた。散歩する老人、親子連れ、日曜も働くサラリーマン。俺も外に出れば、その中の一人として窓枠に切り取られるのだろう。

 意味もなくスマホを起動しては、見るものもなく閉じる。

 血を垂らしたような深紅のアイコンを見て、ふと、全ては夢だったのではないか、と思う。画面を消して、次に点けた時には、跡形もなく消えている。もしそうなったとしても、どうしてか、それが当たり前だと受け入れられる気がしている。

 店の親父に金を渡して、俺は陽光にむせぶ店外に出た。


 川の近くに、大きな公園がある。総合運動公園と呼べる規模で、小さなスタジアムや陸上競技場も抱えた、市民の娯楽と憩いの場所だ。

 公園の端には田舎臭い小型の商業施設がくっついていて、流行に無頓着な若者たちに粗末な遊び場を提供している。俺の家から見れば反対側にあり、無闇に長い公園を横切る必要があるので、足を運ぶことは滅多になく、用事は近場の商店街で済ますことがほとんどだ。たまたま中華料理屋が近くだったこともあり、特に予定もない俺は、そのままぶらぶらと公園に足を向けた。

 午後の日差しは俺を憂鬱にする。

 午前の世界を明るく塗り替えた太陽は、南中を経てその役目を果たし、少しずつ力を絞りながら、やがて地平の染みとなって消えるまで、じわじわと、だらしなく堕ちていく。午後の光は、翳りゆくだけの光、死にゆく者たちの光だ。

 俺はその光から逃げるように、木陰のベンチに座り、スマホを開いた。

 なんとなく、アプリを起動する。しかし、見るのは検索結果ではない。ページの一番下、緊急連絡のボタン。

 時間が止まったような平和な日曜の昼下がりだ。どこを探しても、急を要するものなんて一つもない。今ここで、そのボタンの持つ役割は何もない。ただ今なら、意味もなく呼びつけられてキレた悪魔に殺されてもいいかもしれないという、捨て鉢な安穏が俺を満たしていた。

 ボタンを押す。

 遠くで、ジョギングをする男の影が、毛むくじゃらの犬を追い越していく。

 ふと、高校の頃に数学の教師が言っていた、亀に追いつけないアキレスの話を思い出す。ギリシャ神話だったか、俊足が自慢のアキレスという男がいて、のろまな亀と競走する。アキレスは亀の後ろからスタートする。当然、アキレスはすぐに亀を追い抜くはずだが、アキレスが亀のいた場所に着くと、亀は少しだけ前進していて、また追いついたかと思えば、わずかに前進していて、いつまでもそれを繰り返し、アキレスは永遠に亀に追いつけないという間抜けな話だ。

 この日常は、いずれどこかに辿り着くのだろうか。それとも、目の前を行くのろまな亀も捕まえられず、無限に引き伸ばされた時間の中でじわじわと薄まり続けて、最後には消えてしまうのだろうか。


「何か、用?」

 気がつくと、隣に女が座っている。去る時は平凡に歩き去るくせに、現れる時は疾風のようだ。

「用はない」

 凍りつくような間が空く。しかし、なぜか、その余韻が心地いい。

「本気で言ってるの?」

「ああ」

 こめかみに女の視線を感じる。

「犬の餌でも、魚の餌でも、好きなようにしてくれ」

 視界の端で、女が視線を逸らすのが見える。しばらく、互いに喋らない。

 次に口を開いたのは、女だった。

「あそこの建物の壁面に書いてあるなんとかシネマって、映画館かしら」

 どうやら視力まで人間離れしているらしい。俺にはダニの糞が並んでいるようにしか見えない。

「多分そうだろう」

 ふうん、と言いながら、女は立ち上がった。

「次はあんたが付き合う番よ」

 ひとかたまりの風が木立を吹き抜ける。梢から覗いた太陽を隠すように、真っ黒の影になった女の顔から、色のない光線が放射状に広がっている。

 まるで金環日食のようだ、と思う。

 たった今、この瞬間だけ、俺の世界は暗闇に包まれる。その中心に現れた光の輪と、闇から削り出したような、女の顔の陰影。

 なぜかそれは、泣きたくなるほど美しかった。


 映画館では、毒々しいヒーローが暴れ回る洋画と、全滅寸前の動物を追いかけ回すドキュメンタリー、それから死ぬ寸前の女が最後に死ぬだけの邦画のラブストーリーと、他にもいくつかの映画が上映されていた。

 女は券売機でラブストーリーのチケットを二枚買い、一枚を俺に手渡した。

 ベンチを離れてからここまで、ほとんど喋らなかった。俺はなぜか母親に手を引かれて謝りに行く子供のようなしおらしさで、ただ女について歩いた。女が何を考えているのかはわからなかったが、多分俺も何も考えてはいなかった。与えられたままの自失が、妙に心地よかった。


 思いつく限り行儀のよい言葉を選んでも、その映画はトドの排泄物くらいの価値しかなかった。もっとも、トドの消化器官を研究している人間なら、素手でつかみ上げてありがたがるに違いない。

 俺たちはピークも過ぎて閑散としたフードコートでコーヒーを飲んでいた。自販機で買った缶コーヒーが二つ並ぶ。

「女が死ぬ話だったな」

「ハッピーエンドだったでしょ」

「別に俺は引きずってるわけじゃない」

「何の話だっけ、それ」

 本心で言っているのだろうか。言動も、行動も、不可解だ。この前、去り際にビールの借りを返すとか言っていたが、これがそのつもりだとしたら、何も返してもらった気がしない。

「悪魔がああいう映画を見て何を感じるんだ?」

「幸せな話に興味はないわ」

「不幸を集めてるんだろう。幸福だって集めてるんじゃないのか」

 女は缶コーヒーのラベルをしげしげと眺めた。

「最近、こういう飲み物の味がわかるようになってきたわ」

「幸せでいいじゃないか」

「あんた、幸福と不幸が同じようなものだと思ってるのね」

「同じものの表と裏だろう」

 女は自分のコーヒーと俺のを並べて置いた。

「不幸はね、物語なのよ。けど、幸福は、ただの、一瞬の恍惚感でしかない」

 そう言って女は自分のコーヒーを指で弾いた。缶は止まる直前の駒のように、不安定に回って、倒れた。

 零れる。思わず手を伸ばすが、間に合わない。しかし、ぽっかりと空いた飲み口からは、何も出てこない。缶を手に取り、覗いてみる。穴の奥で、垂直に立った液面が褐色の光を反射している。あの路地裏で見て以来の、魔術的な力だ。

「幸福な状態、というものはないのよ。突発的な恍惚感が、短い周期で何度か起こったら、それが幸福という状態なんだと勘違いしてるだけ。例えば、恋人の寝顔を見て、幸せだと感じる。けど、目を逸らして五分後に、同じ感覚が続いているかと言ったら、違うでしょ。恍惚と恍惚の間にある何もない隙間を、人間が勝手に埋めた気になってるだけよ。でも不幸は違う。物語よ。それがわたしたちにとって大事な娯楽なの」

 俺は倒れた缶を元に戻して、女の前に置いた。

「公園をぶらぶら歩いて、映画を見て、コーヒーを飲んでいると、ふと忘れそうになるよ。おまえたちは、人間じゃないんだよな。でも、それがこうして人間の生活に溶け込んでいる。不思議なもんだ」

「わたしたちから見れば、人間の方が不思議よ」

「人間なんて、見ての通り、何もできない、単純な生き物さ。缶コーヒーが倒れたら、慌てて手を伸ばすような、いじましい存在だよ」

 女はまた缶に口を付けた。

 その缶は俺の血で満たされている。そんな空想が頭をよぎる。

 俺の指を咥えて、血を舐め取った唇。それが今、俺の血をごくごくと飲み干そうとしている。

 一滴残らず血を抜かれた俺は、眠るように倒れる。

 女が俺を膝に抱き、静かに見下ろす。

 その顔を、後光のように包む純白の光。

 俺は目を閉じる。

 穏やかな最後だ。

「他の世界のあんたが」

 はっと我にかえる。

「今のあんたみたいに自律して生きていることに、疑問を感じない?」

 妙なものを見ていた。目の前の女に看取られるように、静かに息を止める幻想。

 決して人間にはなれない女。異形の魂。俺は、この女を求めているのだろうか。佐和子が、タツノオトシゴに龍の幻影を求めたように。カズキは、俺と佐和子が似ていると言っていた。ありきたりな日常からも締め出され、拠り所を失い、ありもしないものにすがりつく。佐和子は死んでしまった。あるいは、子供というよすがを得た。俺は、どうすればいい。

「聞いてる?」

「すまん、何の話だったかな」

「別の世界のあんたを動かしているのは誰なのか、ってことよ」

「ああ、言われてみれば、そうだな。別の俺は、別の俺の意識が動かしてるんじゃないのか」

「それなら、あんたがその世界のあんたに移ったら、元々その世界にあった意識とやらはどこに行くの?」

「追い出されるしかないな」

「わからないよね」

「わかるわけがない」

「わからないのよ」

「どういう意味だ?」

 俺の質問には答えず、女は立ち上がってウォーターサーバーの横からグラスを一つ取ってきた。

 飲みかけの缶コーヒーから少し距離を空けてグラスが置かれる。女は缶を取り、何もないテーブルの上で傾けた。俺は零れ落ちるコーヒーを警戒してわずかに仰け反る。しかし、いくら傾けても飲み口からコーヒーは出てこない。代わりに、離れて置かれたグラスに、何もない虚空からコーヒーが注がれる。完全に逆さまになった缶が上下に振られ、離れたグラスにぽたぽたと雫が垂れる。

「どうやってるかわかる?」

 俺はしばらく缶とグラスを睨んだが、何のアイデアも浮かばない。黙っていると、女が続けた。

「わからないのよ、あんたには」

 突き放すような言葉だが、不思議と冷たさは感じられない。というより、何の感情もない、ただ厳然とした事実を読み上げただけのような無機質な響きだった。

「生徒が問題を理解できないのは、教師の教え方にも原因があると思うが」

「説明しても、わからないのよ」

「教える前から投げ出すのは、教師としては失格だな」

 女はグラスに移ったコーヒーを一気に飲み干した。

「例えば……。そう。あくまで、例え話として聞いて。あんたたち人間は、三次元の世界で暮らしてるわね。いわゆる人間の言うところの、縦、横、高さの世界。ここまではわかる?」

「馬鹿にしてるだろ」

「じゃあ、あんたがさっき言ってたあんたの意識ってのは、その世界で言うとどの辺にある?」

 俺の意識は……、脳にある。いや、本当にそうか?

 意識は脳で作り出されているかもしれないが、どこにあるかと言われたら、頭の中にあるわけでもない気がする。もっと、俺の体にまんべんなく散っていると言うか、俺の体を取り囲んでいるというか、言葉では説明できないどこかにある。そもそも「ある」というべきなのかも自信がなくなってくる。

「ほら、わからないのよ」

「だったら先生、わかるように教えてくれ」

 女はテーブルに片肘をついて、傾いた顔を華奢な指先で支えた。

「さっき、人間は不思議だって言ったでしょ」

「ああ」

「誰かがね、前にこう言ったの」

 切れ長の瞳が、怪しい光をたたえて俺を見据える。

「人間は、漫画を読むニワトリだ、ってね」



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