「前にも言ってたな。意味はわからないが」

「無自覚な人間たちに、本当の人間の姿をどうやって説明したらいいかって話をしてたの。昔ね。他愛ない世間話よ。その時、わたしたちの一人が言ったのが、その言葉」

 漫画を読むニワトリ。それが人間の姿ということか?

 俺の頭が悪いのか、どれだけ考えても答えの糸口すら見つからない。

「あんたがどれだけ考えても、意識と呼ぶものがどこにあるのかはわからない。それは人間がすごく中途半端な存在だから」

「中途半端?」

「そう」

 女はふいに俺の手を取った。

「この手、体、脳、それは今ここにある。けれど、あんたが今、自分の意識だと思ってるものは、ここにはないの。ここにあるのは、漫画だけ。あんたは、それを読んでるニワトリなのよ」

 俺は手を握られたまま、答える。

「漫画というのが、この世界だって言いたいのか?」

「そういうこと」

「それで、その漫画を読んでいるのが、俺が今、俺自身の意識だと思ってるものだってことか」

 女は俺の手を離し、腕組みして、また「そういうこと」と言った。

「この世界で起こることが、その漫画に描かれてるってわけか」

「予知みたいなことじゃないのよ。リアルタイムにページが捲られていく漫画ね。ページが生み出されていく、と言ってもいい」

「そのページをめくっているのが俺なのか?」

「違うわ。ページは勝手にめくられていく」

「じゃあ、その漫画の主人公が俺だってことだな」

「主人公かどうかはわからないけど、登場人物の一人ね」

「で、そのキャラクターを動かしてるのが、この俺ということか」

「そうじゃない。動かしてないのよ。あんたは、基本的にはただ漫画を読んでるだけ」

「待ってくれ。それなら、俺を動かしているのは誰なんだ? 漫画の中で動いている俺は、誰が操っているんだ?」

「誰も操ってないのよ。存在する全ての世界の、全ての生き物は、自律的に動いてるの。人間であっても例外じゃない」

 理解が追いつかない。戸惑いを言葉にしてぶつけたいが、その言葉もまとまらない。

 俺はコーヒーの缶を取り、一口飲んで、また置く。

「今コーヒーを飲んだ俺は、俺が動かしたぞ。勝手に動いたんじゃない」

「そうね。あんたはそういう意思決定をした。けど、残念ながら、あんたが決めたのは、あんたの行動じゃない。読む漫画を決めただけ」

 ……何だって? まさか。そんなこと、信じられるはずがない。俺が考えて、自ら決定し、行動していると思っている全てのことが、実際には、俺が決めているわけではないなどということを。

「つまり、おまえはこう言いたいのか。一つの世界が一冊の漫画で、その漫画は常にあらゆるパターンに分岐して、増殖し続けている。俺はただ、その漫画の中から、自分が読む物を決めているだけだと」

「教師が優秀だと、生徒の理解も早いわね」

 女は見るからに嘘くさい笑みを浮かべた。

「あんたの意識とやらは、選んだ漫画に出てくる自分の体験を、まるで本当の体験のように追体験して感じてるだけ。辻褄を合わせてるだけなのよ」

「それなら、俺はどこにいるんだ?」

「やっと初めの話に戻ったわね。主体としてのあんたがいるのは、縦、横、高さの世界の外、というか、一つ上のレイヤーよ。ただ、俯いて漫画ばっかり見てるあんたがそれを認識できないだけ。だから、中途半端なのよ。二つのレイヤーを跨いだ存在として生まれてくる、不思議な生き物。それが人間」

 SFだ。話が一気に宇宙規模になった。いや、この宇宙すら一冊の漫画に過ぎないのだから、宇宙規模ですらない。宇宙をさらに包括する、女の言う一つ上のレイヤー、その規模の話だ。

 どこまで信じられる? この女の異常な能力は認めざるを得ない。何度もこの目で目撃しているからだ。しかし、突然この世界が漫画で、俺がそれをどこからか見ている神のような得体の知れない存在だなんて、そこまで信じられるわけがない。それよりはこの女が、空を飛んだり火や水を出したりする超能力者で、ただちょっと頭がイカれてると思った方がマシだ。

「コーヒーをワープさせたり、ポリバケツを噴火させたりするのは、その上のレイヤーを使ってるってことか?」

 女は無言で肯定した。

「当然、信じられないよね。まあ、当たり前の反応だわ」

 気が遠くなる。

 子供の頃、高熱を出して家のベッドでうなされていた時、熱に浮かされた頭で、天井が目の前に見えたり、自分の体が小さくなってどこかに落ちていくような錯覚を感じたことがある。まさに今、同じような感覚だ。地面も、テーブルも、何もない空間に投影された実体のない映像のように俺を手放し、拠り所を失った体は無重力に漂う。どちらが上で、どちらが下かもわからない。平衡感覚はでたらめに回転し続け、まるで逆再生されたスカイダイビングのように、あらゆる物が急速に遠ざかっていくのを、ただ他人事のようにぼんやりと眺めている。

 俺が今まで信じてきた全てのことが、女の指先がそっと触れただけで、ばらばらに砕けて崩れていく。俺は、俺ではなかった。この俺を動かしているのは、俺ではない。

「だったら、俺は、誰なんだ?」

 女は、冷たい二つの手のひらで、俺の頬に触れた。口づけを待つ処女のように、俺は女の瞳に魅入られる。

「大丈夫。心配しないで。あんたは、あんたよ。今わたしを見ているあんたと、たくさんの世界に散らばったあんたたち全員が、紛れもなくあんた自身なの。普通はね、一つの主体が一度に認識する世界は一つだから、特に疑問もなく同一化できる。今回は、たまたまあんたが別の世界を知ってしまったから、少し混乱してるだけ」

「俺は……、一人しかいないのか?」

「世界の数だけいるわ。けど、漫画を読んでるあんたは、一人だけ」

「……ちょっと考える時間をくれ」


 女の話を整理すれば、こうだ。

 まず、人間は三次元の体と四次元的な意識を持って生まれてくる。女は「四次元」とは言わなかったが、馬鹿な俺にはそう思った方が飲み込みやすい。

 生まれた時点から、というより俺が生まれる前からずっと、三次元の世界は分岐して、増殖し続けている。その中の一つの世界で生まれた俺は、誕生の時点から世界とともに無限に増殖していくことになる。そして、増殖する世界とは別の層、レイヤーに、四次元の俺も同時に生まれているが、そちらは常に一人しかいない。

 四次元の俺は、どれか一つの世界にくっついていて、その世界の三次元の俺の人生を、まるで漫画を読むように追体験している。自分で考えて行動していると信じているが、実際はたくさんに枝分かれした世界のどれかを選んでいるだけだ。つまり、コバンザメのようにくっつく先の世界を変えているだけということだ。

 仮にこの話を信じるとして、いくつか疑問が出てくる。

「例えば、俺が生まれる直前に分岐した世界では、別々に俺が生まれることになるよな? その別々の俺は、それぞれが個別の意識を持ってるのか?」

「もちろん。ただし、生まれた世界が違う時点で、もう互いの世界は交わらないし、複数のあんたが干渉し合うことはない」

「アプリで飛んでもか?」

「だから、そのアプリはあんたに紐付いてるって言ってるじゃない。あんたが生まれてからの世界しか表示されないわ。別の世界で生まれたあんたとは、生まれる前に分岐してしまってるのよ」

 樹形図のような世界のイメージで捉えるなら、俺が生まれた時点の世界からいくら分岐しても、それら全ての枝にいる俺は、この俺であって、別の枝で生まれた俺ではないということか。

「さっき、人間は自分の意思で世界を選んでいると言ったな。もし、自分の意思以外、例えば今ここに銃を持った男が現れて、乱射した弾が俺に当たった世界と、当たらなかった世界が生まれるとする」

「物騒な例えね」

「その場合、俺は自分の意思で世界を選んだわけじゃない。そうなると、俺はどっちの世界にくっついていくんだ? つまり、俺は、生きるのか、死ぬのか」

 女は軽く鼻を鳴らした。

「やっぱりあんたは変わってるわ。だいたいの人間はそんなこと気にしない。世界を自由に乗り変える力を得たら、思うままに飛び回って、好き放題やりまくるだけ。だから、わざわざ自分の存在を疑って、無駄に困惑することもない」

「褒めてるわけじゃないんだろうな」

「あら、褒めて欲しいの? 残念だけど、褒めてはないわよ。けど、珍しい物は嫌いじゃない」

「物、なんだな。どこまでいっても、おまえにとっては」

 女は急に押し黙り、俺を無表情に見つめる。その瞳の奥にあるものを見極めようとするが、深い海を覗くように、奥底にあるものは見えない。

 女はしばらく口を開かなかった。

 それから、

「ごめんね」

 唐突に、女は言った。

 思いがけない言葉に、俺も返す言葉を詰まらせる。

 一瞬、女のまぶたが動く。わずかに、目を細めるように。それが、生理的な筋肉の運動なのか、瞳の奥にある何かの感情から発せられたものかはわからない。

「さっきの話に戻るわ。あんたは、銃に撃たれて死ぬかもしれないし、死なないかもしれない。それは、わたしにも、誰にも、わからない。もちろん、生きてる世界も、死んでる世界も生まれてるわ」

「運でしかない、ということか?」

「運……。そうね。わからないから、運と言うしかないのかもしれない」

「煮え切らない言い方だな」

 女は考え込むようにしばらく天井を見上げる。

 この庶民的なフードコートの片隅で、世界の構造について語り合う二人は、はたから見てどのように映るのだろうか。痛々しい妄想をぶつけ合う微笑ましい若者に見えるだろうか。

「じゃあ、また例え話をするわ」

 女は再び俺に視線を戻す。本当に、よく人の目を見て話す女だ。視線を合わせたり、逸らしたり、そんな人間的な感情の機微には無縁なのかもしれない。しかし、それにしては、さっきの微妙な目つきの変化が気にかかる。

「風船を一つ、想像してみて。その風船は、時間とともに、自動的に膨らんでいく。そして、その表面にびっしりと世界が並んでいる。膨らみながら、表面に並んだ世界も増え続けてるってことね。当然、風船の中身は空よ」

「分岐して増殖し続ける世界を風船に例えてるってことだな」

「そう。そして膨らみ始めた最初の点、つまり風船の中心は、あんたが生まれた時点よ。ここまではいい?」

「どうにか」

「さて、増え続ける世界とその中にいる無数のあんたたちは風船の表面に存在しているとして、漫画を読んでいるあんたはどこにいるかというと、同じく表面にいると言っていい。いるというか、結び付いてるというか、実際にいるわけではないけど。その表面の、たった一点にいる。たくさんある世界のどれかにくっついてる。じゃあ、ここで、あんたのくっついてる世界にペンで点を打つとする。風船がどれだけ膨らんでも、風船全体の中での点の位置は変わらないわね?」

「ああ」

「どれだけ世界が分岐しても、その点の位置は変わらない。世界がその点の下でどう分岐したとしても、あんたは自動的にその点の下の世界にくっつくのよ」

「点の下で世界がどう分岐しているかがわからないから、運だということか」

「もしかしたら、その分岐にも法則があるのかもしれない。分岐した後の世界同士のパワーバランスみたいなことね。けど、それはまだわかってない。ただわかってるのは、あんたの意思決定によってくっつく世界を変えた時、その点がずれるってことなのよ」

「ずれる?」

「そう。ずれるの。だから、厄介なのよ」

 そう言って、女は口を滑らせたとでもいうように言葉を止めた。

 厄介。ずれるから厄介、そう言った。

 俺の意思決定によって、風船上の点がずれる。それが、女にとって、あるいは女の属する世界にとって厄介なのだ。しかし、どういう理由で?

 そう言えば、前にも一度意思決定の話をした。確か、コンビニに向かって歩いていた時だ。あの時は、福引の結果に納得がいかなかった俺が、アプリの検索結果の話を切り出して、それから、そう、福引の結果が分岐して表示されないのは、アプリが俺の意思決定だけをトレースしているから、という話だったはずだ。


 点の位置が変わらない風船。

 人間の意思決定によってずれる点。

 それをトレースするアプリ。

 厄介と言いつつ、続けなければならない理由。


「人間の意識を、追ってるんだな」

 女の表情は変わらない。

 その目は俺を見ているようで、俺の目の奥にある、別のものを見ているようにも思える。

「けれど、何のために?」

 女は俺を見据えたまま、ゆっくりと立ち上がる。

「今回は、逃げるのはなしだぞ」

「……知ってるでしょ。不幸を集めるためよ」

 そう言いながら、女は渋々と座り直した。

「本当か?」

「本当よ」

 こんな時、普通の人間なら、わずかな無意識の仕草に嘘を滲ませてしまうのだろう。しかし相手は人間ではない。その人形の体からは、どんな仕草も漏れ出すことはなかった。

「まあ、いい。これ以上の追及はやめておこう。今日はおまえもなんだか優しいからな」

「優しい?」

「ああ。少なくとも突然髪の毛を燃やしたりはしなそうだ」

 女は珍しく目だけを逸らした。

「そう。優しそうに、見えるのね」

 薄い二重まぶたが、また少しだけ動いた。

 まるで、見たくないものに目をしかめるように。


 外に出ると、ちょうど太陽が西の稜線にかかる頃だった。

 ずいぶん長い時間話し込んでいたらしい。世界の見方が反転するような話をいくつも聞いたが、こうして見飽きた夕焼け空を見ていると、そんな大袈裟な話も明日には忘れているのだろうと思えてくる。

 今歩いている俺の体を動かしているのは、俺ではない。しかし、それは俺が選んだものだ。そこに、何の違いがあるのだろう。考えても、答えはあの太陽に引きずられ、宵闇の底に沈んでいく。

「そういえば、聞いてなかったな」

「何よ」

「なぜ、ニワトリなんだ?」

 女はすぐに答えない。その顔は水平に注ぐ光に紛れ込み、謎めいた表情をなおさら際立てるだけだ。

「何も考えず、せっせと増え続ける。いくら羽ばたいても、空に届くことはない。似てるでしょ、人間と」

「文学的だな」

「大衆文学よ」

「俺には、わからない」

 届かない空が、少しずつ、山の向こうに消えていく。

「またな」

 精一杯、絞り出した、別れの挨拶だった。

 きっと女には、再び俺に会う義理などない。けれど、俺はまた会って話がしたいと、正直にそう思った。そんな俺の心情を女が汲み取れるのかは知らない。

 だって、そうだろう?

 女は人間ではないのだ。何を求めているかなど、知れたものではない。今の俺には、このくらいの捨て台詞で精一杯だ。

 去り際に含みのある言葉を残していくなんて、この女みたいだな、そう思うと、妙に可笑しい。カズキも別れ際に言葉を置いていった。佐和子だって、何か言いたかったかもしれない。

 誰もが、何かを残して消えていくのだ。去り際に、死に際に、自分勝手な忘れ物をしていく。残された者は、それを拾って、また自らが消える時に別の物を残していく。そうやって、日常は、世界は、続いていくのだ。

 アプリを使えば、完全に切り離された世界で、繋がりを失ったまま生きることになる。今まで俺が拾ってきた誰かの落とし物が、元から存在しなかった世界。見知らぬ繋がりに、無理やり鋏を入れて潜り込む世界。そんな生き方に、何の意味があるだろう。


 アプリは、もういらない。ただし、消すのは、俺の気が済んでからだ。

 つまり、この女のことを、俺が忘れてもいいと思えるまで。

 あるいは、忘れなくてもいいと、そう思えるまでだ。



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