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昼飯から帰ってデスクに戻ると、隣の席の同僚からメモを手渡された。
「折り返しはいらないってよ。一応番号メモっといたけど」
離席中に俺宛の電話があったらしい。番号の上に「?」マークが書いてあるのは、名前がわからないということだろう。
番号を見る限り携帯電話だ。社用のスマホと私物のスマホでそれぞれ検索してみたが、どちらにも登録や履歴はない。
「俺の名前を言ってたのか?」
「ああ。部署名までセットだったぜ。男の声で」
「何も名乗らずか?」
「聞く前に切られたよ」
誰だろう。取引先なら会社名くらいは名乗るはずだし、ここは一般の客相手の部署でもない。一瞬あの女の顔が浮かんだが、男と間違うような野太い声ではなかったはずだ。会社関係以外で俺がここで働いているのを知っているのは、何人かの友人と、実家の両親くらいだ。どちらにしても、部署名まで把握しているのはごく少数、あるいは一人もいないかもしれない。
「私用なら外で掛けろよ。部長いるし」
「いいよ、必要ならまた掛けてくるだろう。だいたい私用なのかもわからない」
それもそうだな、と言って同僚はパソコンの画面に向き直った。俺もそれ以上は深く考えず、散らかったデスクにメモを放り、中断していた作業に戻った。
閉め切ったブラインドから縞模様に漏れる陽光も消え、冷たい蛍光灯に照らし出されたオフィスからは一人また一人と同僚たちの姿も消えていく。最後に俺だけが取り残されてからしばらく経って、ようやく一通りの業務に区切りが付いた。
パソコンのシャットダウン画面を眺めながら、飲み屋に寄るかそのまま帰るかぼんやりと考えていると、デスクの端に残った紙切れが目に止まった。
昼間のメモだ。結局二度目の電話は掛かってこなかった。普段なら特に気に留めることもないが、アプリを手に入れてから非日常的な行動を重ねてきたこともあり、ただの一本の電話であっても、いつもとは違う引っ掛かりがあるのも事実だった。
人の消えたオフィスで、俺は私物のスマホを非通知設定に変えて、メモに書かれた番号を押す。しかし、途中で指を止める。誰かわからないが、知り合いだったら非通知だと決まりが悪い。知らない奴なら、警戒して電話を取らないかもしれない。とは言え私用の番号を晒すのも気持ちが悪い。
迷った挙句、下手な小細工は弄さず社用のスマホからかけることにした。元々会社に電話があったのだから、社用のスマホからかけ直すのが自然だろう。固定回線からかけるのも、営業時間外だから憚られる。
俺はメモの番号を押す。知らない相手に電話するのに常識的な時間帯ではないものの、寝るにはまだ早いだろう。
コール音。ずいぶん長い待ち時間の後、ざらざらした通信回線の向こうで電話が取られた気配がした。
無言。確かに繋がっている気配はあるが、相手は何も答えない。
仕方ない。こちらから先制するしかない。
「遅い時間にすみません、昼間に会社まで電話をもらった者ですが」
短い沈黙。
「……ああ、あの会社の。ちょっと待って」
若い男の声だ。聞き覚えはない。ごそごそという衣擦れの音に続いて、電話口の男は、俺の会社名から氏名までを順番に読み上げた。
「実は、あなたの名刺を持ってるんだけど、この名刺のことで、ちょっと聞きたいことがあるんですよ」
「誰ですか? 警察?」
警察ならまず名乗るだろう。我ながら間抜けな質問だと思うが、こういう知らない相手とのやり取りは不得手なのだ。いつも無闇に緊張してしまう。
「はは。違う違う。ほんとにちょっと話が聞きたいだけ。断ってもいいですけど、そしたら会社の人に聞かなきゃいけなくなりますね」
遠回しな脅しだろうか? どうやらまともな人間じゃなさそうだ。しかし、会社を巻き込まれても面倒だ。
「……何の話だ?」
「それは、会ってからにしましょう。すぐ終わりますから。今、まだ会社の近くにいます?」
俺は男の言う通り、会社のそばにあるファミレスに向かった。窓際の席で待っている、と言っていた。
こんなもの、上から下まで真っ黒に決まっている。成分表示で言えば、怪しさが百パーセントだ。それでも出向くのは、会社が関わると厄介なのと、ファミレスなら下手な手出しはできないと踏んでいるからだ。もっとも、相手もそれを見越して指示しているのかもしれないが。
時間も遅く、ビジネス街のオフタイムなのもあり、店内は空いていた。窓側の席を見渡すと、大学生くらいのカップルが一組、それから若い男が一人。恐らくあの男がそうだろう。やはり知らない男だ。
席に近付くと、目印のようにテーブルの端に俺の名刺が置いてあるのが見えた。男は俺を見上げると、無言で着席を促した。
緩くパーマのかかった金髪。光沢のある黒い上着には同じく黒い糸で装飾的な刺繍が入っている。それから無数のシルバーアクセサリー。特に目立つのは隙間なく並んだピアスだ。パッと見ただけでも、耳、鼻、唇にぶら下がっている。歳は俺より下だろう。ぎりぎり学生の線もあり得るが、素直に見れば歓楽街をぶらついているチンピラ崩れか、コアな客層を相手にした専門店の店員という風情だ。
俺が座るとすぐに、テーブルに置かれた男のスマホが鳴った。男は嘘くさい詫びの会釈とともに電話を取る。
「ああ、うん。オッケー。もうちょっと待ってて」
男はスマホを置くと、上着のポケットに両手を突っ込んで、首だけ突き出して俺と視線を合わせた。
「わざわざ、すいませんね」
「……で、何の用だ」
俺は舐められないようわざと鷹揚に振る舞って見せるが、効果が出ている自信はない。
「これ、あなたの名刺ですよね」
男はフジツボにたかられたように指輪だらけの指先で、名刺をテーブルの上に滑らせた。俺は無言でつまみ上げる。間違いなく俺の名刺だ。
「最近、どこかで名刺なくしました? もしくは、盗られたとか」
その瞬間、テレビの電源を入れたように、俺の脳裏にでかでかと映し出された顔。
あの男だ。路地裏で俺を痛めつけ、持ち物を漁っていたあの男。確か、名刺を取り出していた。あの時盗られたのか。しかし、それを持っているこの男は何者だ。
「それに答える前に、何で呼び出されたのかを聞きたいんだが」
男は俯いて長髪を振るう仕草をしてから、言った。
「あんたが来た時点で、こっちの用は半分以上済んじゃったんだけどね。ところで、何か頼まないの?」
急に馴れ馴れしい口調に切り替えたのは、この男なりの話術なのか、それともただ面倒臭くなったのか。
「長居するつもりはない」
「まあ、そんなに時間は取らせないよ。で、この名刺は盗られたの? 誰かにあげた?」
「呼び出した理由が先だ」
相変わらず不敵な笑みを浮かべた口元はそのままに、目つきだけが変わった。
「あんまり詳しくは話せないから、雑な説明でごめんね」
男はアイスコーヒーをストローで吸ってから、続けた。
「うちで働いてる女の子がね、昨日、客の男に殴られたんですよ。金も踏み倒されてね。で、そいつが置いていったのが、その名刺」
短い説明だが、おおよその理解はできた。
この男の立場は不明だが、うちで働いている、というのはきっと売春の斡旋か何かだろう。もしくはもっと健全なサービスかもしれないが、この男の風貌からして限りなく違法に近そうだ。個人で動いているようだし、正規の業者でもなさそうだ。最近はSNSなどで素人が女衒の真似事をするのも増えていると聞く。金を踏み倒された、というのも女と客が個人で会うサービスならではのリスクだろう。
「それで、俺たちとしては、そいつを探してるわけ。手掛かりは、女の子の記憶と、その名刺だけ」
「女を殴るようなやつが、馬鹿正直に自分の名刺を渡すはずがないだろう」
「そう。俺だって、元々あんたがその男だとは思ってない。ほぼ無関係だと思ってるよ」
「わざわざ名刺を残した理由もわからない」
「ただの馬鹿なのか、時間稼ぎか、それとも、面白半分か……。本人に聞かなきゃわかんないね」
「念のため言っておくが、俺ではないぞ」
「大丈夫。あんたがこの店に来た時点で、用事はほとんど済んだって言ったよね」
このテーブルに座った時に感じた違和感。男の前に置かれたアイスコーヒーと、その横に、ほとんど口を付けていない水の入ったグラスが二つ。
「その女の子がこの店にいて、どこかの席から俺の顔を確認して、さっきの電話がその報告か?」
「おお、すごいね。大正解。悪いけど、その子には席を外してもらったよ。始めからあんたは巻き込まれただけの他人だと思ってたけど、念のため確認はしときたくてね。たまたまこの店に入ったとこであんたから電話があったから、ちょうどよかった」
とりあえず、俺の潔白は証明されているようだ。
「それで、こっちは何でもいいから情報が欲しいんだよ。あんたとしては関わりたくもないだろうけど、それなりの礼もする」
「悪いが、協力できることはないぞ」
俺は簡単な経緯と知っていることを包み隠さず話した。
男は静かに聞いていた。
「あんたも被害者なんだな。まあ、どこかであいつ見つけたら、さっきの番号に連絡してよ」
俺の記憶にあったチョコレート顔の男と、やられた女の証言した男の容貌は概ね一致しているらしく、やはりあの男が犯人で間違いなさそうだ。
それにしても、女の顔を殴るなんて、めちゃくちゃもいいとこだ。あの大砲のような腕は、これまで一体どれだけの人間を破壊してきたのだろうか。
「女の子は……、酷いのか?」
自分とその女の境遇を重ねたのかもしれない。店内を見回せば実物が見つかるだろうが、この男の前では憚られるし、怪我をした女をじろじろ見るわけにもいかない。
「水を飲むのも痛いって言ってたよ。完全に別人の顔になってたね。前歯も二本なくなった」
自分から聞いたくせに、気の利いた慰めの一つも浮かばなかった。そして、この時ばかりは、男も笑っていなかった。
「わざわざ呼び出して悪かったね。何か食べてくなら、こっちに付けとくよ」
曖昧な文句で断って、俺は席を立った。男は頷くような軽い会釈で見送った。
店を出てしばらく歩いて振り返ると、窓ガラスの向こうでさっきの男の向かいに女が座るのが見えた。はっきりとは見えなかったが、顔が一部白く見えたのは傷を手当てした跡だろう。
あんな若い男が一人で何人もの女を抱えて売春の斡旋をしているのだろうか。軽薄な笑いを張り付けたその顔は、女を殴った犯人の前でどんな形相に変わるのか。あのチョコレート男もただでは済まないだろう。囲まれてリンチされるのか、あるいは俺の知らないもっと苛烈な制裁方法があるのだろうか。
何にせよ、俺に降り掛かった火の粉はひとまず払うことができた。後のことは、あの金髪の男が勝手に片付けるだろう。俺はまた、無責任にそう考えていた。
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